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短編集

アンチ・ブルー・ムーン

作者: 白鳥加寿彦

 ブルー・ムーン。一月のうちに二回満月が昇ること、またその二回目の満月。

 その呼び名を初めて知ったのは中学生のとき。雨が続く鬱陶しい季節、明かりをつけても薄暗いダイニングで朝食を食べていたとき、テレビのなかで気象予報士のきれいなお姉さんが、にこやかに解説した。三年に一度の現象で、見ると幸せになれるんだそうだ。

「しかし残念ながら、今日は全国的に雨。ブルー・ムーンは見られそうにないですね」

「じゃあ言わなきゃいいのに、ねえ」

 わざとらしくしょげてみせるお姉さんを茶化すように、スミレが言った。母は、そうねえ、なんてうなずいていた気がする。わたしもコメントしようとしたけれど、ちょうどごはんを口に入れたところで、急いで咀嚼したものの、飲みこんだときにはスミレは食べ終わって席を立っていた。

 スミレは当時小学校六年生、登校班の班長だった。登校時間は八時、小学校までは徒歩で二十分くらいだけど、登校班の集合時間は七時半、班長はそれより十分早く着いて待っていなくてはならないから、同じようにのんびりはしていられなかった。追いかけてまで意見することではない、慌ただしく身支度をする妹を、黙って見送った。


 それから三年して、またブルー・ムーンが話題になった。年の瀬、冷たく澄んだ夜空を、満月がまばゆく照らした。塾の冬期合宿を終えた帰り道だった、諸事情により痛むお腹を抱えて、ああ、わたしは幸せになるのか、なんてぼんやり考えた。

 諸事情。月経初日。

 たぶんだけど、わたしは軽いほうだ。辛いのは初日だけ、ショーツに取りつけた生理用品のせいで行動こそ控えめになるけれど、二日目からはわりと普段通りに過ごせる。それでも、そういう仕組みだとわかっていても、体から血が出るというのは気持ちのいいものではない。ブルーになる。

 こういうとき、わたしの頭はむやみやたら、でたらめな方向に思考する。なにがブルー・ムーンだ、合宿最終日が月経初日でこっちこそブルーだよ、まさにブルー・ムーンだよ、待てよ、前の生理はいつだったっけ、期末テストより前だった、いや、中間テストのあとだったか? そうそう思いだした、先月の祝日だ、ということは――一月のうちに一度も満月にならないことはなんと呼ぶんだろう、そんな現象は起きないのだろうか、そもそも満月って何日周期なんだっけ、十五夜っていうんだから満ちるのに十五日、じゃあ欠けるのも十五日、そうしたら三十日で――二月は――二月、バレンタインデー、だれに? 受験、東京、引越、一人暮らし、大学、それから――着いた。

 帰宅、玄関に入るとじっとりとした温かい空気に包まれた。いい匂いがする、今日は久しぶりに家族が集まる、きっと鍋だろう。リビングへ進むと父が新聞を読んでいて、スミレはダイニングテーブルにノートを広げていた。スミレは中学三年生、彼女もまた受験生だ。

「スミレ、今日、ブルー・ムーンだよ。見とくと幸せになれるってさ」


   * * *


 「お姉ちゃん、あたし、妊娠したかも」

 六月上旬の日曜日。大学を卒業したばかりのスミレが、真っ青な顔で相談してきた。

 高校卒業後、わたしは両親が用意してくれたマンションで三年間だけ一人暮らしをした。三年間だけというのはつまり、スミレも高校卒業後に越してきたのだ。はじめからそのつもりで2DKを買ったらしい。もしスミレが上京しなくても、父は仕事でちょくちょく東京へ来るし、実際一人暮らし中もしょっちゅう泊まっていた。規約が細かい単身者用アパートを借りるより、ファミリー向けマンションを買ったほうが安上がりというわけだ。

 中古というのもいい、このマンションにどんな人が住んでいるか――いや、実際、親しくつきあうつもりはない。はっきり言うと、変な人がいないか事前に調査できるし、全戸分譲マンションだから、あとから変な人が越してくる心配も少ない。美醜はともかく、うら若き乙女の一人暮らしだ、親からしてみればどれだけ整えても心配だろう。

 自分のことは平気だとつい過信してしまうが、スミレを見ていると、両親の気持ちが少しわかる。

 スミレは、なんというか、危うい。勉強はできる、本当だったらもっと上の大学も行けたんじゃないかと思うけど、わたしと同じ学校を選んだ。サークルも同じ、本なんか漫画くらいしか読まないくせに、児童文学研究会。のんびりやりたかったの、とか言っていたけど、どうだか。もっとも、在学期間が一年しかかぶらないし、その一年だってわたしは就活だ卒論だで慌ただしくって、サークルにはほとんど顔を出せなかったのだけど。

 お姉ちゃんはどこでアルバイトしたの、と訊かれたときは、嘘をついた。本当は秋葉原のメイド喫茶だけど、自宅最寄り駅前にあるカフェ、ということにした。案の定、スミレはそこで働き始めた。

 おいしいコーヒーと落ち着いた雰囲気が評判のお店だ。実はサークルの先輩のご実家で、先輩にお願いして話を合わせてもらっている。スミレは先輩を知らない、わたしと繋がっていることを知らないから、きっと今も真実を知らない。メイド喫茶で働き続けていたらつけなかった嘘だ。かなり稼げて未練もあったけど、三年ですっぱりやめたわたしにファインプレーと言いたい。

 話が逸れてきたが、なにを言いたいかというとつまり、スミレはわたしを追いかけるばかりで思慮が足りない。

 その結果がこれだ。いや、さすがに恋愛ごとにレールは引けない、スミレが自分で選んだ相手なわけだけど、スミレが自分で選んだらこういうことになった。

「どうしよう、どうしたらいいと思う?」

「どうって‥‥相手にはそのこと伝えた?」

「伝えたっていうか、生理が来ないって言ったら、考えさせてくれって」

「考えさせてって‥‥」

 呆れてしまう。

 スミレの彼氏はわたしも知っている。わたしからは一年後輩、スミレからすれば二年先輩に当たる、植田フクマサだ。児童文学研究会の数少ない男性メンバーで、例のカフェの常連でもある。サークルで会い、カフェで会いを繰り返すうち、そういう仲になったそうだ。

 大学卒業後は大手書店で営業をしている。物静かで真面目な男だ、と、わたしは思っていたのだが、‥‥考えさせてくれ、か。

「病院は行った? 検査薬は試した? それ、生理が遅れてるだけじゃない?」

 わたしの問いのすべてに、スミレはふるふると首を振る。まだ確定じゃないことに安堵しつつ、でもまだ調べていないだけで、調べれば確定してしまうのではと不安にもなる。

 テーブルに置いた卓上カレンダーを見せつつ、スミレが数える。

「前回がね、先々月の三十日。今日、もう八日でしょ。わたし、いつもなら三十日待たないで来るの。一ヶ月に二度来ることはあっても、逆はなかったんだよ」

「うーん‥‥」

 たしかに、期間が空きすぎている。それと同時に、あ、この子はわたしと逆なんだ、とちょっと驚いた。

 わたしの生理周期はどうやらちょっと長めらしい。三十日なんか余裕で超える、生理が来ない月なんてしょっちゅうある。

 そういえば、スミレが生理になるとすぐわかる。顔は真っ青、目はうつろ、手足をがくがくとふるわせながら立ち歩き、トイレに入ると出てこない。どうやら相当重いらしい、アルバイトなど行けるはずもなく、たびたび休ませてもらった。姉妹なのにこうも違うとはふしぎなものだ。

 生理用品の減りも倍以上になった。女性が二人になったのだから当たり前、交代で買うのだし気にするまいと努めていたけれど、それにしても買い置きがあっというまになくなる。割を食っている気はしたが、思い過ごしではなかった。

 いや、今はそんな不満を抱いているばあいではない。

「とにかく、ちゃんと検査しよう、もし妊娠してたらそれからまた考えよう、ね」

「‥‥うん」

 病院へは明日行っておいで。仕事があるから付き添えないけど、一人で行ける? そう訊くと、スミレは弱々しくうなずき、自分の部屋へ戻っていった。


 植田からメールが来たのは夜九時くらい。今から出てこられませんか、お話ししたいことがあります、と言う。ばかを言うな、明日は月曜日だぞ、なんの話かはわかっているけれどこっちの都合も考えろ――と言いたいところだけど、妹の恋人だ、無碍にもできない。

「近くにいるの?」

「マンションの前にいます」

「じゃあ、待ってて」

 風呂も済んだ、すっぴんだしパジャマだしでとても外に出る格好ではないが勘弁してもらおう。カーディガンを羽織り、鍵とケータイだけ持って、わたしは部屋を出た。パラパラと雨が降り出していた。

 住まいは五階建てマンションの四階、エレベーターはない。まだ九時だけどお子さまは寝る時間だ、なるべく静かにゆっくり降りる。これは口実だ、植田と会ってなにを話すか、なんと言うべきか、少しでも考える時間が欲しかった。

 ロビーに出ると、こわばった面持ちの植田がたたずんでいた。わたしに気づくと、植田は深々と頭を下げた。

「こんばんは。夜遅くにすみません」

「うん。それで、なに?」

「スミレちゃんのことで‥‥あの、先輩にこんなことを言うのもどうかとは思ったのですが」

 なにを今さら。こんな時間にやってきて、恋人本人ではなくその姉に話し出す、それ自体がどうかと思う。でも、わたしは黙って聞いた。続いて、耳を疑う発言が飛び出した。

「スミレちゃん、最近帰りが遅いとか、一人で出かけたとか、なかったですか?」

「‥‥はあ」

 思いがけない質問。なんの話かわからない、困惑するわたしに、植田は手帳を見せてきた。五月のページだ。

「先月のゴールデンウィーク中は、ぼく、実家に帰っていたんです。ちょっと不幸があって――そのあとも休みの日はそれの用事でバタバタしていたし、仕事の日はもっと忙しいしで、スミレちゃんにぜんぜん会えなくて。なのに、その――あ、スミレちゃんから、聞きましたか?」

「聞いた」

 うなずくと、植田もうなずいた。え、いや、わからない。あなたはなににうなずいたの? 呆気にとられるわたしを見て、なにを勘違いしたか、植田が確信したように言い切る。

「ぼくの子であるはずがないんです」

 そんなばかな。

 本当にスミレと会っていないなら、植田の言うとおりだろう。でももやもやする。会っていない? そうだったっけ。スミレはなんでもかんでもわたしに話す。聞きたくないことまで打ち明ける。ばか正直で素直な子だ、嘘は言わない。

「あ、思いだした。先週くらいに会ってなかった? 久しぶりのデートだって、あの子うきうきしてた」

「会いましたけど――まだ一週間ですよ」

 もごもごと否定する。なにが「まだ」なのか。正直なところ、言いたいことはわかる、でもわかりたくない、察したくない。だからはっきり言え。

 いい加減、いらいらしてきた。

「検査したわけじゃないのよ、生理が遅れてるだけ、ちょっと遅れすぎてるから妊娠したかもって本人が言ってるだけ。だけどさ、先週してるなら、そのとき妊娠した可能性だってあるよね。なんであなた、自分の子じゃないって言い切れるの」

「だって、先週の時点で三十日を超えてるじゃないですか、三十一日ですよ」

 だから、それがなによ。

「その時点ですでに妊娠していて、カモフラージュにおれとしたって考えたほうが自然です!」

 ――ばっかじゃないの!

 殴らなかったわたしを誉めてやりたい。いや、誉めるべきは、スミレの間のよさ、か。拳を握った瞬間、電話が鳴った。見やると、スミレと表示されている。我に返った、慌てて出ると、辛そうな、泣きそうな、でも少し笑っているような妹の声がした。

「お姉ちゃん、出かけたの?」

「うん、ちょっと」

「そう。あの、ごめんね、お姉ちゃん。今、来たわ」

「――そう、わかった」

 脱力。なんだ、遅れていただけか。人騒がせな、いくらなんでも遅れすぎだ、最後が四月の三十日だから、三十八日――あれ、なんだ、わたしはいつもそれくらいじゃん。

 まだ真実を知らず、植田はいらいらとこちらを睨んでいる。少し待った。スミレは植田にも連絡するだろう。するはずだ。まだ彼を愛しているなら。

 カモフラージュ、ね。他人の子を育てさせられる、いつだったか芸能界でも騒ぎになっていたしね。でも自分でもそういうことしておいて、妊娠したかもって告げられたときに真っ先に疑うって、こいつ、スミレを幸せにするつもりはないわけ? それどころか信用すらしていないわけ? そういう相手とそういうことができる男なわけ?

 仮に本当に妊娠していたとして、スミレはこいつでいいわけ?

 深呼吸。ゆっくり十秒を数える。

「あの、もういいですか、話の続きをしても?」

「‥‥あのさ、」

 植田は電話に出ない。植田が無視しているのか、そもそもかかってきていないのか。どちらにせよ、これが二人の終焉だ。

 なら、こらえることもないか。

「わたしら、月でもカレンダーでもないの、よ!」

 結局わたしは、植田をぶん殴った。


   * * *


 言わなきゃよかったのかなぁ、とスミレが言う。わたしは、言ってよかったよ、と答える。

「だって言わなきゃ、知らないままだったよ、あんなクソ男だってこと」

「お姉ちゃんが言うなら、そうかも」

 ふふふ、と笑う。それから、ちょっとトイレ、と席を立つ。そのすきに先輩が、ススス、と寄ってくる。

「本当、過保護なお姉ちゃんね」

「なんとでも」

 先輩がくすくすと茶化す。

 ほどほどに賑わう店内、コーヒーの匂いがいい。甘すぎないショートケーキがいくら食べても飽きないくらいおいしい。評判のいいカフェで土曜日を過ごす、美醜はともかくうら若き姉妹。失恋手当だ、今日はわたしのおごり。


 月が来なかった月のせいで訪れた、ちょっとした幸せの話。

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