プロローグ 《幻日》の再来
ーーー私は今、古い伝説を見ている。
昔々の、人々の記憶から忘れ去られていく運命の、悲しい勇者のお話を。
あり得ないことだった。
“彼”が、この時代、この場所に現れたことは。
いや、それ以前に、今こうして目の前に存在していること自体が、
絶対にあり得ない、はず、だった。
ーーー嘘だ。夢だ。
逃れられない「絶望」を前に、私の願望が作り出した、都合のいい、幻だ。
私はそう、自分に言い聞かせる。
いつものように自分を否定して、心に蓋をしようとする。
怖かった。
そうでもしないと、零れてしまうと思ったから。
「絶望」や、恐怖や、世界の理不尽と戦うために、
これまで押さえつけていた私の“弱さ”が、
今、頬を流れる涙のように、止めどなく、後から後から溢れ出て、
私を内側から決壊させて、
自分が、どうにかなってしまいそうで。
もし、“彼”がただの夢であったなら、
狂おしいほど残酷で、甘い夢であったなら、
私はもう、二度と立ち上がれない、そう思ったから。
だけど、
『大事はないか? セフィララ・アプリコット? 』
“彼”は言った。
言ってくれた。
ーーーああ、なんて、なんて暖かい声なんだろう。
「あ……わ、私、ど、どうして……名前……」
『……知っている。これまでお前が、ずっと一人で苦しんできたことも。大丈夫。もう大丈夫だ。お前の絶望を、恐怖を、私が、神の下へと送ろう。』
“彼”は、ゆっくりと振り返り、
絶望の根源ーーー“竜の魔人”と向き合った。
空気が変わった。
それが、はっきりと、感じられた。
対峙するのは「絶望としての伝承」と「希望としての伝説」
だけど、この二つは決して対等ではなかった。
悠然としている後者に対しーーー前者は、戸惑っていた。
「絶望」は、突然現れた、初めて見る「希望」に、ひどく怯えていた。
私と戦っていたときの魔人とは、明らかに様子が変わっていた。
あのとき恐らく、魔人は遊んでいたのだろう。
十分に戦えていると、そう思っていたのは私だけで、
魔人からすれば、他愛もなかったはずなのだ。
私のような、ちっぽけな存在を消してしまうことは。
私たちが、ろうそくの火を、ふっと一息で煙に変えてしまうように。
だけど今、魔人からはもう、余裕を含んだ雰囲気は感じられなくなっていた。
それはきっと、
“彼”の巨大な体躯が放つ、
圧倒的な“黄金”の存在感や、
膨大な魔力の奔流や、
この広いダンジョンさえも一瞬で支配してしまった爆発的な“熱量“を前に、
魔人が、気圧されてしまったからだろう。
ーーー私は、安堵した。
この時やっと、目の前で起こっていることが“現実”だと、私の身体が理解した。
止まることを忘れていた身体の震えが潮のように引き、
心の底から再び人としての温もりを取り戻し、
身体中の痛みや、魔力を使ったときの吐き気や、気怠さが、やわらいでいた。
ーーー魔人は吠えた。
だけど、あれほど恐ろしくてたまらなかった魔人の咆哮が、遠くの方にいる死にかけの犬が最後に絞り出した、か細い、断末の、鳴き声のように思えた。
『ーー名もなき魔人よ。貴様は決して許されない、罪を犯した。』
“彼”は言った。
私に囁いてくれた、あの暖かい声ではなかった。
世界を奥底から揺るがすような、深く、重く、感情のない、冷たい声だった。
ーー罪は、秤らねばならない。』
ーー罪人は、裁かれなければならない。』
ーーたとえそれは、人であろうが、魔であろうが、同じことだ。』
ーー《神の法》の下では、あらゆるものは皆、等しいのだから。』
ゆっくりと、
“彼”は、魔人の方へと歩み寄っていく。
自然で、とても静かな歩みだった。
また一歩、
“彼”は、魔人へ近づいていく。
その歩みは、これから戦おうという者のそれではなく、
感情、あるいは闘志というものが、すっぽりと抜け落ちているようにも見えた。
怒っているのか、それとも、哀れんでいるのか。
分からない。
黄金の全身西洋鎧からは、“彼”のことを何一つとして伺い知ることは出来ない。
ボッと、“彼”の右拳から、橙色の炎が広がった。
その炎はたちどころに消え、その右手には、いつのまにか、黄金色に輝く秤が握られていた。
ーーーいや、それは、秤を模した、刃のない剣だった。
“彼”は、緩慢な動きで、剣を構えた。
悠然に、雄大に、
恐ろしいほど、ゆっくりとーーーー
『ーーさぁ、始めよう。』
まるで自分には、脅威など存在しない、というようにーーーー
『 断罪の時間だ。』