幻影
古来より奥十津野郷は御正体ヶ峯(これは俗称であり正式には大佛山という名前がある)山中に築かれた十津野宮神社の社地であり、信仰上の理由により禁足地となっている場所が多く、かつ長い間無税の土地であった。そのため開発の手もほとんど入れられておらず、県の方ではようやく数年前からこの奥十津野を観光開発しようと躍起になっているらしいが、どうにも上手く行ってはいないようである。
「いかんせん、この道じゃあなあ」
狭く荒れた山中の道を、がたがたと車を走らせながら、運転手が「とても無理ですよ」と嘆いていた。
「是光さんも、よくもまあ、こんな所で、暮らしてたもんだ。もう少し下れば、それなりに集落もあるだろうに」
がたがたと揺れながら声を弾ませる吉岡先生の姿が、ちょっと可笑しかった。
「あの人は、人間嫌いでしたからね」
「ああ、それにしたって酷い所ですよ」
墓地のある山上から下ること暫く、ようやく開けた場所へ出てくる事ができた。吉岡先生はさんざん揺すられて解れた鬢や襟元を正すと、ハンドバッグから煙管と煙草を取り出して一服を始めた。
「運転手さん、あんまり急がなくていいからね。ゆっくりとやっとくれ」
「お客さん、申し訳ありませんね。酷い道でしたが、ここからはもう大丈夫でしょう」
「はあ、ようやく人心地つきましたよ」
道は多少は整備もされている県道三八号へ出ていた。刻み煙草のなんとも言えない香りが車内に広がっている。
「先生、今度の事は何から何まで、本当にお世話になりました」
「いや、この程度の事しかしてあげられなくて歯痒いくらいですよ。是光さんには昔からお世話になりましたからね」
父――あの人を父と呼ぶべきかは今でも迷いがあるが、今となってはそう呼ぶ他に適当なものがない――と吉岡先生の間に一体どんな関係があったかは知らないが、この人は葬儀の一切から家屋敷の処分、財産の扱いまで全て不都合なく取り仕切ってくれたのだ。
「いや、先生には十分過ぎる程にしてもらいました。私だけではとても・・・・・・」
「それは、そうだったでしょうね。是光さんも、お前さんの事をきちんと迎えようとしていた矢先だったみたいで。残念なことだったね」
「私の方が頑なだったんですよ」
「御坂の奥さんだって、乗り気じゃあなかったでしょう。辛い所でしたね」
「ええ、それは・・・・・・」
「まあ、止しておきましょうよ、こんな話は。おや赤目、本の虫もさすがにお終いかい?」
見ると、赤目もあのでこぼこ道にすっかり辟易したらしく、いつの間にやら本を畳んで外の景色に目を移していた。
「十津野宮には寄らないのですか」
「寄ってどうすると言うのさ。 御正体さんまでは流石に寄っちゃいられないよ」
御正体さん、というのは奥十津野連山の主峰である御正体ヶ峯のことだ。
「なぜ、大佛山のことを御正体さんと呼ぶんですか?」
御正体ヶ峯というのは俗称であり、あの山には正式には大佛山という名前が付いているのである。
以前より不思議に思っていたものだったが、良い機会なので吉岡先生に尋ねてみる事にした。
「むかし、あそこで即身仏になった尼さんがいてね。その人の事を御正体さんと呼んでいたんだ。十津野宮神社には、その御正体さんが祀られているんですよ」
「尼さんが神社に?」
「別に不思議な事じゃない。昔は神さんも仏さんも、みんな一緒だったのさ」
「ああ、神仏習合という奴ですか」
「本地垂迹とも言ってね。仏教の有り難い仏様は、神道の有り難い神様が姿を変えたものだっていう解釈なのさ」
「なにごとの おはしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
一瞬なにごとか分からなかったが、見れば赤目が視線は相変わらず興味もなさげに外の山林に向けたままで、古い歌を諳んじていた。
「お前さん、珍しい事を知ってるねえ。そうだ。その精神だよ。有り難いものなら何でも拝んどく。それが日本人なのさ。あ、運転手さん。ちょっと」
車を止めた先生が窓の向こうをチラと伺って、気遣わしげな表情で振り返った。
「誠一郎さん?」
木々の間から、湖畔にひっそりと佇む洋館が垣間見えている。
それは御坂製薬創業者である、御坂是光とその一家が住んでいた屋敷であった。
「………………」
そして何よりあそこは、どうやらこの俺にとっては、実家と呼ぶべき場所であった。
「誠一郎さん、どうします。少し立ち寄って行きますか?」
そうだ。きっといつか、何の疑問もなく、あそこが実家であるという感慨が湧く日だって訪れたのかもしれない。
「誠一郎さん……」
吉岡先生の手が、俺の手に重ねられる。冷たい手だ。だが、冷たくて良かった。温もりなど感じては、余計惨めになるだけだ。
「やめておきましょう。今あそこへ入るには、ちょっと記憶が鮮明すぎる」
「無理もない。いや、私が悪かったよ。運転手さん、やってくれ」
車は再び走り始めた。
車窓から、だんだんと遠ざかる屋敷の姿を目で追いかける。ふいに一切が、過去のものとして時間の彼方に消えていくような寂寥感に襲われた。
「!?」
その中に、俺はありもしない幻影を見た。
おかっぱ頭の小柄な少女。
御坂慶子――俺の、たった一人の妹だ。
「誠一郎?」
思わず腰を浮かしかけた俺に気付き、それまで周りの一切に興味を持っていなかった赤目が、珍しいものでも見たように眼を開いていた。
「――――いや、何でもない」
馬鹿な。夢に出てくれと言ったものの、こんな昼日中に幻影を見るほど、俺は参っちゃいないはずだ。
「あるはずがない。・・・・・・そんな事」
何も言わず、ただ寂しげな目でこちらをじっと見つめていた少女の幻影も、やがて森の奥、時間の最果てへと飲み込まれていった。