◇3
バスに乗りさえすれば、バス停までは俺が何もしなくても辿り着く。あとは学校まで歩いて六、七分。もう遅刻の心配はない。
雨は小降りになっていて、先にバスから降りる俺を園田のばあちゃんが手を振って送り出してくれた。俺も雨に濡れたガラス越しに手を振って返し、それから傘を差さずに学校まで歩いた。
この西町の西之園高校は、まあ特別レベルが高いとは言えない。俺の頭で通える学校がこの距離にあってよかった。
俺はもともと走るのは好きだったけど、球技なんかは向いていない。それで中学から陸上の短距離をしていたけれど、それだけで推薦ってほどの実績も持ち合わせていない。
勉強も特別できるわけじゃないし、中途半端な人材ではある。それを卑下するつもりは別にないんだけれど。それなりに学校は楽しいから。
歩いていると、同じ制服を着た生徒たちが同じ方向へ向かって進んでいる。女子は黒っぽいブレザーだ。それに見慣れているからか、白と緑がかったグレーの爽やかな色合いのセーラー服を着たアキが新鮮に映るのかもしれない。
少し古びた校舎の二階。傷だらけの廊下を上履きに替えた足で歩く。雨のせいで湿度が高いから、廊下もしっとり濡れたみたいになって、上履きの底のゴムが歩くたびにキュッと鳴る。
二年二組の教室へ入ると、半数の席が埋まっていた。その中に友達の殿山真吾がいた。
まっすぐな黒髪に眼鏡。ヒョロくって、強くどつくと折れそうなヤツ。
美術部で、読書家で――正直俺と正反対なんだけど、どういうわけか中学の時に仲良くなった。中学は三年間同じクラス。席順のくじを引いてもいつも近くにいて、腐れ縁なんだと思う。
「トノ、おはよ」
「ん? ああ、カケルか。おはよう」
トノは、駅前の本屋のロゴ入りブックカバーのかかった文庫本から一度だけ顔を上げたけれど、俺よりも本の続きに興味があったのかもしれない。どうせまた推理小説だろう。
俺が興味ないのを知っているから、トノは俺に本の話はしない。
「今日も雨だな」
わざと話しかけて読書の邪魔をしてやると、トノは大人しく本を閉じて机の中にしまった。
いや、これは俺の相手をするためじゃない。話の続きが大事だから、邪魔の入らないところで集中して読みたいからやめただけだ。いい加減、こいつのそういうところはわかっている。
大人しそうに見える半面、実はとんでもなく頑固だから。
トノは眼鏡の奥でにこりと笑う。
「だって梅雨だからな。いいんだよ、このまま降れば。今日の体育でグラウンドを走らされることもないし」
「お前はそんなことばっかり言ってるから不健康なんだよ」
「僕はいくら日に当たっても赤くなるだけで日焼けしないから、外を走ったって小麦色の溌溂とした高校生にはならないね」
そういう問題なのか、よくわからないところだ。トノは屁理屈が多い。俺が呆れてもトノはマイペースだ。
そうこうしているうちに始業のチャイムが鳴り、今日も一日が始まる。
トノの希望通り、四時間目の体育は雨がまた強まって、体育館でバスケになった。
それはそれで俺は楽しかったけれど、トノはパスを回すとすごく嫌がる。そのまま即座にボールを戻してくるのはどうかと思うけれど、トノは体育の成績はきっと捨てているんだろう。
それから、昼休み。午後から歴史だ数学だ、と正直あんまり興味のない授業を経て、部活。
でも、雨が降り続いているからグラウンドは使えず、かといって体育館はバレー部やバスケ部がいるからあまり貸してもらえない。階段をひたすら上って下りて――なんていう地味なトレーニングに終始してしまうのが悲しいところ。やっぱり、雨は嫌いだ。
部活が疲れたっていうより、湿度の高さで体がだるかった。
帰りのバスを待っている間、バス停のベンチに座っていると、俺はいつの間にかうとうととしてしまっていた。屋根のあるベンチからシトシトと降る雨を眺めているつもりが、そのままうたた寝していた。
カバンを膝に、軽い眠りにつく。
そんな状態で夢を見ていた。それは、アキと二人で川にいたその時のこと――
「カケルちゃん!」
アキがびっくりして飛びずさり、川の中に尻もちをついた。
「アキ?」
俺もびっくりして水を蹴りながら慌てて駆け寄る。そんな俺のハーフパンツにアキは震える手でつかまった。
「カ、カケルちゃん、水の中にゴ、ゴキ、ブリがっ!」
「は?」
そんなのいるわけない。いや、故意に誰かが流さない限りはいないと思う。
違う生物だろうけれど、水飛沫を上げたアキの周りにはもういない。俺は少し首を傾げて考えた。
「それ、カゲロウの幼虫かなんかじゃないか?」
「カゲロウ?」
べそ、とアキが潤んだ大きな目で俺を見上げる。俺はなんとなくそんなアキを直視しづらくて、頬をかきかき目線は少し離れた川面に向ける。
「うん、幼虫に黒光りしたようなのもいるからな」
アキは魚やカニなんかは好きなのに、虫は嫌いだった。特にゴキブリが駄目みたいだ。
「ずーっと水の中にいて、おとなになると三日しか生きられないんだって」
蝉だって七日生きる。その半分。三日なんてぼんやりしていたら終わる。
三日……とアキはつぶやいた。
そうして、俺の手を借りて立ち上がった。でも、赤いスカートはびしょびしょ。それを絞りながら言った。
「じゃあ、おとなにならない方がいいよね。水の中にいた方がいい。わたし、次に見つけてももう大声出したりしないから」
アキは優しい。自分の嫌いな虫なのに、それでもいなくなれなんて言わない。三日後に死んでしまうカゲロウを可哀想だと思っている。
俺はそんなアキのことを誇らしいような、大切にしたいような、そんなくすぐったい気持ちを抱えた。
今にして思えば、本当に甘酸っぱい記憶だ。
ただ、悲劇が起こったのはそんなことがあった数分後だ。下半身がずぶ濡れのアキだから、その日はもう早く帰った方がいいって言って川から上げた。アキはまだまだ遊び足りないふうだったけど、また明日があるからって説得した。
「うん……じゃあ、またね」
「うん。また明日」
川辺でアキを見送る。川から土手に上がっていくアキ。
アキが一度振り返ったその時、甲高い声がした。
「アキ!」
まだ大人とは呼べない、けれど俺たちよりは大人に近い声。アキはその声の主が駆け寄ってきた瞬間にその場で固まってしまっていた。
「あ、茜音お姉ちゃん……」
川のせせらぎの中にいた俺にもかろうじてその声が拾えた。『お姉ちゃん』というのは、姉ってことなのか、年長の知り合いなのか――その疑問はすぐに消えた。下から見上げる俺からもその『お姉ちゃん』が見えたからだ。
多分、うちの兄貴と同じ年頃。小学校高学年から中学校に入りたてか。
アキに面差しが似ていた。ただ、あっちはショートカットでボーイッシュ。Tシャツとデニムのショートパンツ。長い脚が涼しげに露出している。
綺麗な顔立ちだけど、アキのような女の子らしさは薄い。気が強そうだなって思えた。
そうして、その直感は事実だった。アキの姉ちゃんは川の中にぼうっと立っていた俺をきつく睨んだ。俺はその理由がわからなくてびっくりしただけだ。
でも、アキの姉ちゃんははっきりとした口調で言った。
「あんた、よくもうちの妹を苛めてくれたね」
「え?」
意味がわからなかった。
けれど、わからないなりに一生懸命考えた。そうか、アキがずぶ濡れなのは俺が突き飛ばすなりして苛めたと思ったのかもしれない。
違う。そうじゃない。
すぐにアキもそれに気づいて姉ちゃんを宥めてくれると思った。でも、アキはどうしてだか黙って姉ちゃんのそばに立っているだけだった。
俺の方を向きもしない。背中を向けたままで立っている。
「あ、あの、さ――」
俺が何か言わなくちゃと口を開いた時、アキの姉ちゃんは俺に対して牙を剥く犬みたいにして言った。
「あんた、棚田の子でしょ? これだから棚田の連中は嫌なのよ。二度とうちの妹に近づかないで。あたしたちは疋田の道添家の人間なんだから。次にこんなことがあったらただじゃおかないからね!」
その剣幕に、子供の俺はどう言えばいいのか上手い言葉を探せなかった。疋田の道添っていったら、うちと同じで疋田村の村長の家だったはずだ。
棚田と疋田。
村同士の仲が悪いとして、俺とアキは友達になれた。それなのに、俺が棚田村の子供だから近づくなって言う。そんなの、おかしい。
おかしいと思うのに、俺は口を開くことができなかった。むしろ歯を食いしばってその理不尽さに耐えなきゃいけなかった。
アキも同じなのかな。アキも思ったことを上手く言えないから黙っているのかな。
さっきまであんなに楽しそうに笑っていたアキなのに。
でも、それは俺がアキよりも精神がずっと子供で物わかりが悪かっただけの話だった。アキは姉ちゃんのTシャツの裾をくい、と軽く引いてつぶやいた。
「アカネお姉ちゃん、わたしも棚田のひとは嫌いだからもうここには近づかないようにするね」
その発言を聞いた俺の衝撃がいかほどのものか、アキはわかっていたんだろうか。
友達になった。一緒の小学校に通えたらいいと言った。
その口で、嫌いだって。俺のいる村が嫌いだから、俺も嫌いだって。
そんなことで嫌われるなんてことが起こるのか。俺はアキが疋田の子供だからって嫌いになったりしない。それはアキのせいじゃないから。
でも、アキの姉ちゃんはアキを労わるようにしてそっと言った。
「うん、そうだね。気をつけないと。帰ろうか?」
こくり、とアキの首が揺れた。去っていく二人の背中を、俺は川の中でただ見ていた。
これって、俺が見ている夢か何かなのかな。そんなふうにも思えた。
とてもじゃないけれど、現実味がなかった。唐突過ぎる出来事なのに、それでも起こってしまったことは覆ったりしなかった。
それからというもの、アキはこの川辺に来ることはなかった。しばらく俺はアキが来ないこと、拒絶されたことを受け入れられなくて川に通っていた。いい加減に来ないって諦めたのは、川の水が冷たくなった秋の半ば頃だった。