◇2
そう、俺が村の当たり前に疑問を持ったのは、村と村との間に流れる川、井鳥川のほとり。あそこで出会った女の子のせいだ。
俺と同じ年頃。ツヤツヤのおかっぱに、いつもワンピースを着ていた。いかにもお嬢様って印象の可愛い女の子。ウサギみたいにつぶらな目をしていた。
初めて出会ったのは、暑い夏の日。
その子は川辺に下りてサンダルを履いた足を足首まで水に浸し、腰を曲げて水辺を観察していた。子供だけで川に近づいちゃいけないって皆が口を酸っぱくして言うのに、その子のそばに大人はいなくて、だから俺はその子が気になって川辺に下りたんだ。
どういうわけだか、川辺に下りられる階段は棚田村の方にしかない。川へ入ろうと思ったら棚田村側の土手から行くしかないんだ。疋田村の人たちもだから川に入る時は棚田村側の土手まで橋を渡ってくるしかない。ある程度身体能力の高い大人なら斜面を下りられるかもしれないけれど。
俺は小さい足で石の階段をタタタ、と軽やかに下り、砂利石を踏み締める。薄いビーチサンダルの底に石の硬さを感じながら川に近づく。
でも、女の子は顔を上げなかった。サラサラ流れる川面とにらめっこしている。俺はそっと声をかけた。
「おい」
そっとかけたつもりだけど、声をかけられると思ってなかったのか、女の子はすごくびっくりして振り返った。その途端にバランスを崩しかけたけど、両手をバタつかせてなんとか立ち直った。ただし、白いワンピースの裾が少し濡れた。
「な、何?」
女の子は綺麗な黒髪を耳にかける仕草をした。それが妙に大人びている。
「いや、子供が一人で川に入ったら危ないだろ?」
俺は至極真っ当なことを口にしたのに、女の子は俺を胡散臭そうに見た。視線が縦に動き、何度も行き来する。兄貴のおさがりTシャツ、カーキ色のハーフパンツに麦藁帽子。どこといって特徴のない格好だ。
すると女の子は小さく息をついた。
「ちょっとだけ。川の中っていろんな生き物がいて面白いんだもの」
その気持ちがわからなくはない。時間が経つのも忘れて見入ってしまうほど、水の中は人間の介入できない小さな世界がある。
それにこう暑い日ならなおさら、水に浸かっているのは気持ちいい。
「カニとかいるよな。海じゃないのに」
俺がそう言うと、女の子はうなずいた。
「うん、いるいる! 石みたいな色のヤツね。あと、小さなお魚。足をつけてじっとしてると寄ってくるの」
語る様子が微笑ましい。目がキラキラ光るみたいだった。
その子には好印象しかなくて、俺はちょっと調子に乗った。
「その魚、おれ、手で捕まえられるんだ」
この時、俺は初めて自分のことを『おれ』なんて言った気がする。それまでは『ぼく』だった。兄貴が自分をそう呼ぶから、それを真似た。
つまりは――少しばかりの背伸びをした。
でも、女の子はそんなことに気づきもしなかった。
「そうなの? すごいね」
にこ、と機嫌よく笑う。
俺はまるで走ってきた後みたいに心臓がドキドキするのを感じながら、その女の子に近づいた。川の水を蹴って冷たい水に浸る。川の中に子供だけで入るなんていけないことだけれど、ごく浅いところなら大丈夫だって俺の心が言い訳をした。
俺の足のせいで、透き通っていた水が川底の細かい砂を巻き上げて一時的に濁った。でも、砂が落ち着いて沈んでいくと、もう一度水は透明に戻り、一度は去った小魚もまたチラホラと見えた。黒っぽいまだらの細長い魚目がけ、俺は両手を勢いよく水の中に突っ込んだ。
バシャン、と大きな水音が立って、水飛沫が上がる。その中に女の子の声が混ざった。
魚をつかんだことがあるというのは嘘じゃない。でも、過去に一度。兄貴がこうやるんだって教えてくれて、それで一度だけ捕まえた。あれは本当に奇跡というべきか、まぐれ当たりで、もう二度目の奇跡は起きないのかもしれない。小さな魚は俺の手をかわして逃げた。
再び濁った水を気まずい思いで眺めた。しかも、自分が跳ね上げた水飛沫で体が濡れた。
頭を振って水滴を飛ばし、ゆっくりと女の子に顔を向けると、女の子はガッカリした顔をしてはいなかったけれど――スカートの前が濡れていた。
「あ……」
女の子の顔はびっくりしたまま固まっていたけれど、俺のせいなのは明白だった。
「ご、ごめん」
そうとしか言えなかった。
この子にいいところを見せたいなんて思って、それで自滅した。幼稚園のパンダ組の女の子たちみたいに、『これだからオトコノコはコドモ!』なんて言うのかなと思うと切ない。
でも、その子はゆっくりと首を横に振った。
「ううん、へいき。きみの方が濡れてるけど、大丈夫?」
『きみ』なんて呼ばれ方をしたのは初めてで、最初はなんのことかよくわからなかった。でもそれが俺のことを指すんだって会話の流れで気づいた。だから俺は言った。
「おれもへいき。……なあ、おれ、カケルっていうんだけど」
すると、その女の子も答えてくれた。
「わたしはアキ。六さいなの」
「あ、おれも。じゃあおんなじ学校になるかもな」
期待を込めて言った。来年は小学校なんだから、もしかすると同じ学校かもしれない。
この時は単純にそう考えた。そうだといいと思ったからでもある。
この『アキ』と同じ学校に通えたら、友達になれたら嬉しいって。
「カケルちゃんも六さい? そっか。うん、おんなじ学校だといいね」
アキは両手を後ろで組んで、可愛らしく体を揺らしながらそう言ってくれた。『カケルちゃん』は子供っぽくてあんまり嬉しくないけど、アキならいいかと思えた。
――これが俺と道添朱希の出会いだった。
俺はこの日からアキのことがすごく気になって仕方なかった。その日、俺は昼飯を食いっぱぐれないために家に帰らなくちゃいけなかったけど、また会いたいと素直に思えた。
「なあ、明日もここに来る?」
明日なら、もう少し早い時間に来て一緒に話せる。そう思った。
するとアキは少し上を見て考える。
「うん、明日も来ようかな」
「じゃあ、おれも来るよ」
すかさずそう言うと、アキは俺の勢いに目を瞬かせてから笑った。
「あ、うん。じゃあ明日ね」
「うん、明日!」
その約束を俺は何があっても守るつもりで別れた。俺が土手を上がっても、アキはしばらく川に残っていた。よっぽど川が好きみたいだ。危ないから帰った方がいいと思うけれど、明日も会いたいから来てほしい。そんな矛盾も抱えつつ、俺は家に戻った。
昼飯は素麺。うわの空で食べた。どれくらい食べたのか、よく覚えていない。ぼうっとしながら食べる俺のデコに姉貴が手の平を当てて熱を測っていた。
それからしばらく、俺は川でアキと会った。
可愛いけれど、気取った様子もなくよく笑う女の子。俺はアキと川で遊ぶ時間がかけがえのない大切なものに思えていた。
大きくなったらお嫁さんになってほしいなとか、彼女を通り越して嫁にもらうつもりでいた辺りがやっぱり子供の思考だった。
まあ、俗にいう初恋ってヤツだった。
そのことを大人や兄弟に知られたくなくて、アキの話は一切家ではしなかった。
――多分、子供なりに頭のどこかではわかっていたのかもしれない。この狭い村の中、あんな目立つ子供がいたら知らないわけがない。アキは棚田村の子供じゃないって。
それを気づかないようにしていたのはお互い様だったのか。アキも俺の家のことを訊ねたりしなかった。会って別れる時もどちらかは川のそばにいて、お互いが帰る方向が見えない位置に残った。それが暗黙の了解だった。
もしかすると、棚田村でもなく、疋田村でもない外の子供かもしれない。でも、進んで確かめようとはしなかった。
実際、家同士の仲が悪いとして、だからってそんなことは俺とアキの友情には関係のないことだって楽観視していた。気が合うんだから、親や兄弟がなんて言っても関係は変わらないって。
派閥もしがらみも、子供の俺には理解できていなかっただけのことだ。
ただ、アキは――俺よりも大人だった。俺みたいに子供の理屈なんて持ち合わせていなくて、大人の事情に合わせることができた。
今はもう、顔を合わせたところで口も利かない。
あの日から笑わない。
アキの笑顔を見たのはずいぶん前。大きくなったアキの笑顔は見られないままだ。ただしそれは俺や棚田村の面々に対してだけなんだろうけれど。
……あの頃、川で一緒に遊んでいた子供の頃。
大きくなってこんな関係になるなんて思いもよらなかった。
今日、やたらと感傷的に昔を思い出すのは、アキを見かけてしまったから。顔立ちは昔の面影を残したまま綺麗になったのに、まるで親の仇みたいにして俺を避ける。