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蛙の神様  作者: 五十鈴 りく


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20/30

◇19

 俺のスマホは多分、親父が持っている。返してほしければ直談判しろということだろう。もしかするとすでに解約とかされているのかな。


 自分で契約したわけでもなければ、月々の支払いも親の金だ。解約されたとしても言い返せないかもしれない。


 あれからアキはどうしているのかな。スマホに何か連絡は入っているのかな。親が怒鳴り込んでいったあと、俺からの連絡が何もなくて、なんて……やっぱりへこんでいるかな。それがなくても、少し元気がなかった。


 どうしようもなく気になるけれど、俺にはもうどうしたらいいのかわからない。

 俺がアキに近づくと、アキの家族が怒って、余計にアキをつらい立場にする。

 八方塞りってこのことなのかと、俺は絶望的な気持ちで朝を迎えた。


 朝食の時、俺はまだじいちゃんや親父と顔を合わせる心構えがなかった。忙しく朝食を食卓へ運ぶ母ちゃんのところへ行くと、母ちゃんは俺の弁当をちゃんと仕上げてくれてあった。それから、ラップで包んだおにぎりがふたつ余分に添えてある。


「今日の朝もまだ皆と食べたくない?」


 困ったように母ちゃんが言った。俺は躊躇いながらもうなずいた。そうしたら、母ちゃんもうなずいた。


「今日の朝までは特別。でも、夜にはちゃんとそろって食べましょう。いい? わかった?」


 そう言って、弁当とおにぎりを手渡してくれた。母ちゃんはいつも、特に甘いとは思わない。怒る時は怒るし。

 でも、こうして優しくしてくれるのは、今回は本当に俺がこたえているってわかってくれているからかな……


「ありがとう」


 って、聞こえたかわからないけれど、口の中でつぶやいた。母ちゃんも少し笑った。


「お義父とうさんもオサムさんも、平気なわけじゃないのよ。カケルの気持ちが落ち着いたら、ちゃんと話をしてあげてね」


 今はまだ、うなずけなかった。

 母ちゃんは朝の忙しさを思い出したみたいにまた動き始めた。パタパタと皿を居間へ運んでは並べていた。


 その時ふと、俺は母ちゃんが料理をしていた台の上に置かれたままの一升瓶に目を止めた。それは料理酒だ。酒が飲みたいわけじゃない。でも、俺はその料理酒を棚の中のぐい吞みをひとつ取ってそこに注いだ。それを持って家を出る。


 空はくもり。俺は酒を片手に土手を歩く。バスの時間にはかなり早い。

 いつもの石段を下り、橋の下へ向かう。そうして、蛙の神様の前に酒を供えた。日本酒だし、間違ってはいないと思うんだけれど。


 愚痴を聞いてもらったり、無茶なお願いをしたり、蛙の神様には世話になっているから。酒を供えて手を合わせて、いつもありがとうございますと心で唱える。


 じいちゃんは蛙の神様じゃなくて神社に行けと言うかもしれないけれど、そっちはじいちゃんが行くんだから俺はこっちでいいと思う。

 こんな寂しい場所にひっそりと、誰も来ないなんて寂しいから。


 学校に行ったら、トノが読んでいた本を閉じて机の上に下した。俺の顔をただじっと見て、困ったようにため息をついた。


「昨日、メールしたんだけど。その顔を見ると、色々とあったんだな」


 腫れは引いたけれど、口の端は切れていて、殴られたようにしか見えない。顔を合わせた先生にも訊かれた。親に殴られたって言うのも嫌で、兄弟喧嘩って答えて逃げた。


「悪い。スマホ、今、手元にないんだ」


 トノはあの偽文書を俺の責任で使うか決めろって言った。だから、トノのせいだとは思っていない。トノは俺のことを心配して手伝ってくれたはずだから。


「……失敗したんだな?」


 トノはそう訊いた。


「うん。しかも間が悪い時に出しちゃって、親父に殴られて蔵に放り込まれた」

「それは……災難だったな」


 そうとしか言えないよな。でも、トノと話せて幾分気持ちが楽になった。村も家も関係ない友達のトノなら、素直な気持ちも言えるから。


「今はどうしたらいいのか全然わかんねぇけど、でも、だからって諦めるのかって言われたら、それは嫌だ。まだ納得できてねぇし、時間を置いてもう少し考えてみる」


 諦めが悪いって思うかな。俺自身、意地がそうさせるんじゃないかって気もしてしまう。

 でも、もう一度アキに会いたい。そう思うのは本当だから。

 そっか、とトノは短く言った。


「なんか力になれることがあったら言えよ」

「ありがと、トノ」


 俺は久し振りに笑った気がする。トノの気遣いが嬉しかった。




 その晩、俺は学校から帰ると、覚悟を決めてじいちゃんのいる縁側に行った。そうして、無言のままそばに正座をする。膝の上で拳を握って言葉を選んでいると、じいちゃんが先にポツリと言った。


「本当に、誰もが仲良く過ごせるのなら、それが一番だ。けれどな、人は色々なしがらみを抱えてしまう弱い生き物だ。わしもまた、受け継ぐことしかできない弱い人間だからな」


 受け継ぐこと。しがらみも想いも全部、じいちゃんは先代から受け継いだ。

 それを変えることまではできないって言うのかな。

 俺はその言葉について触れるのを避けた。


「偽文書を作って嘘をついたことは謝るよ。ごめんなさい」


 お前は頑固だとか、そんなことを返されると思った。それでも、仲違いが終わればいいと思っている気持ちは変わらないから、その場しのぎでもわかったようなことは言いたくない。


「お前はまっすぐだから、皆がお前のようだったら、別の道を歩めたのかもしれないな」


 じいちゃんは悲しそうにそんなことを言った。




 じいちゃんのところから下がると、いつの間にか帰った親父が廊下に立っていた。顔が怖い。表情が全然ない。

 俺がどう対峙するか考えていると、親父はポケットから俺のスマホを取り出した。ただし――


「壊れているが、どうする?」


 壊れている。

 殴られた時、飛んでいったスマホは柱か何かにぶつかったのかもしれない。画面が割れていた。


 ……どうするって、頭を下げて、直してくださいってお願いしろって?


 あれがないとアキと連絡が取れない。頭を下げたいわけじゃないけれど、ここで意地を張ったらあの本体も捨てられる?

 その前に、データ大丈夫かな?


 アキのことが気になるから、俺はお願いするしかなかった。経済力のない子供ってつらい。


「直してください。お願いします」


 ほぼワンブレス。棒読みだ。多分、目も据わっている。

 こういう態度じゃ駄目だと思うけれど、顔の筋肉がいうことを利かない。

 親父はふぅ、と息をついて俺のスマホをポケットにしまった。


「……明日、修理に出してくる」


 それだけだった。その態度はなんだとか、もうちょっと絡んでくるかと思ったら、なんにもない。

 ただ、俺に向けた背中が少し寂しそうに見えた。それは気のせいかな?


 母ちゃんが、じいちゃんも親父も平気じゃないって言った。その言葉が今になってじわっと身に染みる。……そんな嫌な思いさせたかったわけじゃないのに。


 俺が廊下にポツンと立っていると、アツムが帰ってきた。時々は姉貴も会社の人と付き合いがあって晩飯は要らないとかいうから、そういう時はアツムもバスを使って帰ってくる。


 ただ、俺より遅いってのが意外だった。もしかすると、俺のせいで空気の悪い家に帰りづらくてブラブラしていたんじゃないだろうか。そう思ったら胸が痛い。


 でも、そんな俺の心配とは裏腹に、昨日の一件もまるでなかったみたいにしてアツムはニカッと満面の笑みで帰ってきた。


「……おかえり」

「ただいま!」


 元気だ。その立ち直りの早さが羨ましい。

 アツムは上機嫌で家に上がった。学校がよっぽど楽しいんだな、アツムは。


 それから、俺は母ちゃんが言ったように晩飯はちゃんと皆と食べた。姉貴がいなくていつも通りとは言えないし、会話も全然弾んでいないけれど、そこにいるだけのことを評価されたのか、陰気な顔をするなとかそういうことは言われなかった。




 次の日も、そんなに変化はないと思っていた。ただ、帰宅した俺に、先に帰っていた親父は仮スマホを渡してくれた。届くまでこれを使えってことらしい。いつものスマホと同じ機種だから操作は簡単だ。


 今すぐにでもメールをチェックしたい。アキから何か入っていないか気になる。でも、今から晩飯だから、そのあとじゃないと……

 はやる気持ちを抑えながら俺は小さくつぶやいた。


「ありがと」


 親父も、ん、とか何か言った。

 その日、違ったことといえば、居間に兄貴がいた。俺の顔を見ると笑顔で片手を挙げる。


「おかえり」

「兄貴……」


 今日は金曜日だ。明日から休みだから帰ってきたんだな。

 ここ数日のゴタゴタを、兄貴が聞いていないとは思わない。多分、誰かが話している。でも、兄貴はそれを顔に出さなかった。


「さ、皆そろったからご飯にしましょう」


 母ちゃんがそう言って、盆に載せた小鉢を皆に配る。

 今日の晩飯は、鶏肉と香味野菜のトマト煮込み、いわしのみりん干し、アサリの酒蒸し、枝豆とトウモロコシのかき揚げ、ほうれん草のおひたし、ワンタン入り中華スープ――


「やっぱり一人暮らしだと栄養が偏るでしょ」


 兄貴までいて、久々に家族が全員そろった。母ちゃんはそのことにほっとしたのか、嬉しそうに見えた。


「うん。コンビニ弁当で済ますこともあるけど、やっぱりうちの飯は美味いよ」


 食い貯めはできないけれど、兄貴は久々の母ちゃんの手料理に舌鼓を打っている。兄貴がいてくれると、俺も少し気が紛れた。


 食卓では主に母ちゃんと兄貴が喋っていて、姉貴は嬉しそうにそれを聞いたり相槌を打ったりしていた。じいちゃんはにこやかで、親父はどう思っているのかよくわからない。アツムも兄貴がいるからか機嫌よく食べていた。


 俺はあんまり口を利かなかったけれど……


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