◇1
さて、この日ノ本の国には雨期がある。俗に梅雨と呼ばれるヤツだ。
ジメジメジメジメ、雨が降り続ける。かといって、雨が降らなければ水不足だ。雨は神様からの恵み。贈り物だってじいちゃんは言う。
でも、その恵みが時々有り余って困るんだけれど。
「行ってきます!」
雨がシトシト降り続く中、俺は黒一色の傘を手に勢いよく外へ出た。雨の日には不向きなスニーカーで、玄関先の飛び石で文字通り飛び跳ねながらワンタッチの傘を開いた。
その傘を肩に担ぐようにして紫陽花の咲いた玄関先を抜けた。ただし、青紫の花をつけた紫陽花の盛りなんて眺めているゆとりはない。つまりが――遅刻しそう。
制服の半袖シャツから出ている素肌が湿気でべとつく朝、俺は泥水を跳ね上げながら必死で駆けた。バスに乗り遅れたら終わりだ。
あと五分、早く起きればいい。そんなことはわかっている。わかっているけれど、その五分が実践できない。
今日はまた夢見が悪かった。そう、夢を見た。それが敗因だ。
その夢に出てきたヤツに文句のひとつも言いたくなる。
俺がはあはあと息を弾ませながらそんなことを思ったせいか、川を挟んだ向こう岸にそいつはいた。
水色の傘を差して歩いているセーラー服。華奢で、ガラスでできているみたいな透明感を持つ女子高生。その姿を遠目に認めた瞬間、俺の心臓がキュッと縮んだ。
雨の日だっていうのに、サラサラストレートの黒髪に癖はない。可愛いと綺麗の中間くらいの顔。
対岸で、お互いがすれ違う。俺が目を向けているのに気づいても、冷たく俺を一瞥して正面を向いた。
――今、気にしている場合じゃない。遅刻する。
頭を空っぽにして、俺も正面だけを見据えて川沿いの道を走った。舗装されていない土が雨と混ざって道がぬかるむ。それでも俺は必死で走った。
「ま、間に合った!」
バス停に停まっているバスの車体。雨でぼんやりとした視界の中、エメラルドグリーンのラインが浮き上がって見える。傘を畳むのと同時にバスに飛び乗った。その瞬間、バスのドアがシューッという音を立てて閉まった。間一髪だ。
「カケルちゃん、今日はお休みかと思ったよ」
なんて、病院に通う園田のばあちゃんに言われた。
「俺、皆勤賞狙ってるんだから、休まねぇよ」
それならあと五分早く起きろと母ちゃんに言われそうだけど。
園田のばあちゃんは後部座席のシートに腰かけ、杖を手に小さく笑う。
「カケルちゃんはいつも元気でいいねぇ。子供は元気が一番だよ」
「それしか取り柄ねぇもん」
「そうだねぇ」
「……ソコ、建前でも否定するところだよな?」
「そうかねぇ?」
小柄で優しそうに見えていつも食えないばあちゃんだ。
俺もバスの座席に座る。丁度タイヤの上。尻に振動を感じながら揺られていく。
そんな俺に園田のばあちゃんは会話を続けた。
「要さんはお元気? 近頃見ないけれど」
カナメさんってのは、村長をしている俺のじいちゃんのこと。
「うん。別にどこも悪くないし、外出もしてるよ」
「そう? それならいいんだけど」
と、園田のばあちゃんはうなずいた。
「カナメさん、若い時はそりゃあいい男で、村中の娘の憧れだったのよぅ。カケルちゃん、顔は似てるのに、渋さが足りないわねぇ」
高校生に渋さを求めるのって無茶だと思う。
「偲くんの方が似ているかしらねぇ」
それ、兄貴の方が渋いって言いたいのか。だって四つも違うんだから仕方ないじゃないか。
「ばあちゃん、それ百万回聞いた!」
耳にタコだ。俺がむくれても、ばあちゃんはケラケラ笑っている。
「そのばあちゃんってのがまず駄目ねぇ。シノブくんはあたしのことをハナコさんって呼ぶんだから」
……兄貴って何考えてんだろ。謎だ。
兄貴は大学に通うために一人暮らしでここにいない。まとまった休みに帰ってくるくらいだけど、要領がいいから特に心配はしてない。
ちなみに俺は四人兄弟の三番目だ。兄の偲、姉の燿、弟の鐘の四人。姉貴は十九歳の銀行員。アツムは小学一年生。で、姉貴は小学校が銀行に近いからってアツムだけ車で送る。俺はバス。理不尽だ。
親父も母ちゃんもお前はバスで十分だって言う。送り迎えなんてしてやったら、ますます朝起きないって。そんなことは……ないと言いたい。でも、言ったことはない。
そうこうしているうちにバスは、自然が多いと言えば聞こえのいい田舎の道を越え、町へと辿り着く。
しっかり舗装されたアスファルト。まるでディナーの皿に盛られた添え物のパセリみたいな街路樹。車で少し走っただけで別世界だ。俺たちの住処はわざと古めかしさを保っているみたいに鄙びているから。
俺の住む棚田村は、多分よそから見れば少しばかり変わっている。俺はまだ高校生だから、あまり都会を知らないけれど、それでもテレビやインターネットの情報社会の中にはいる。だから、村が変わっていることくらいはわかっていた。
棚田村は小さな村。そうして、川一本を挟んだ向かい側が疋田村っていう。小さな村が二つ、川に線引きされて別れたみたいになっている。
小さな村ふたつ。人口だって少ない。村の統合も時間の問題――と、世間は思うだろう。
でも、統合なんてとんでもない。まあ、少なくとも今世紀中には無理なんじゃないかな。
過去には『棚疋村』ってひとつの村だった。それが――真っぷたつに割れた。
なんでかって?
それは、あっちとこっちの村長の喧嘩別れ。本来なら三本掛かっていた橋もいつの間にか一本を残すのみになった。喧嘩の原因は諸説あるらしい。まあ、理由がいくつあろうと結果は同じだけど、それが明治の頃だっていうから、あまりのしつこさに驚く。
村の中に学校はなくて、俺もこうして町まで通わなくちゃいけない。あっちの疋田村の連中は別の町の学校に通っている。だから同い年でも絶対に同級生にはならない。
でも――
俺には一族同士が犬猿の仲だとか、そんなこと馬鹿らしいとしか思えない。正直、嫌いで当たり前って状況がよくわからない。ただし、それを口に出したら最後、蔵に入れられてひと晩メシ抜きになる。だから言わない。
大人の派閥は面倒臭い。思うのはそれだけだ。
俺以外の兄弟たちは多分、この環境をなんとも思っていない気がする。普通に疋田村を馬鹿にしたようなことを言うし、嫌な顔もする。でも、なんで嫌いなんだか説明するのも馬鹿げたことだって思っている。
そう育ったんだから、それは仕方ないことなんだ。
じゃあなんで俺だけ違うのかっていうと、それはティッシュ素材のてるてる坊主のご利益を信じていたあの頃。幼稚園の年長クラスだった時のこと――