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蛙の神様  作者: 五十鈴 りく


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10/30

◇9

 そうこうしているうちに土曜日が来る。

 朝、やっぱり俺は休みの日にしては早く起きた。アキとの約束は十時だけれど、六時半にはもう目が覚めて、ぼうっと二十分かけて歯を磨いていた。……何着ていこう。


 女子みたいなことを考えてしまった。何を着たって別に変り映えはしないのに。

 カーゴパンツとTシャツ。ベタな恰好だけど、変に気合を入れて失敗するよりはいいかと。


 ちなみに、うちの朝食はいつも白飯の和食中心だ。パンだったことは俺の知る限りではない。だから、食の欧米化が進んで、この日本でも朝食にパンを食べている人が多いってことを知ったのは、随分成長してからだった。


 ちょっとだけパン食に憧れてみたけれど、うちの朝食のメニューを教えたら、トノに贅沢者だと言われた。

 実際、いつも充実した朝食ではあると思う。


「カケル、今日は誰かと約束があるの?」


 配膳しながら母ちゃんがそんなことを言った。ギク。


「あ、うん、まあ……」


 心臓がバックンバックン鳴っている。顔には出さないように頑張るけれど、手汗がひどい。

 すると、母ちゃんを手伝っていた姉貴が冷めた目をした。


「カケルの相手なんて殿山くんだけでしょ」

「まあ、そうだけど」


 母ちゃんがあっさりうなずいた。

 違うし! 可愛い女の子と待ち合わせだし!


 そう言ってやりたいのに、できないもどかしさに悶絶する。しかも、さほど興味がなかったのか、話題があっさりと切り替わった。


「アツム、お父さん呼んで」

「はーい」


 テテテ、とアツムは元気に親父を呼びに行った。親父は多分、新聞を読んでいる振りをして意識はまだ夢の中だ。休日だけど、じいちゃんに合わせるから朝食は早いんだ。


 皆がそろい、じいちゃんが手を合わせて箸をつけると、俺たちも食べ始める。今日は土曜日で弁当がないから、母ちゃんも少しは楽だ。


 今日の朝食はアサリの味噌汁、だし巻き玉子、さわらの西京焼き、ハムソテー、野菜サラダ、明太子、オクラ納豆。

 俺はまず、だし巻き玉子を小皿に取った。

 母ちゃんのだし巻きは絶品だ。皆大好きだから一番になくなる。でも、俺は味わって食べているつもりでも、思考は飛んでいってしまっていた。


 この後、アキに会う。ちょっと冷静ではいられない状況なんだ。

 だし巻きに失礼だって怒られそうだけれど、つい……


「カケル」


 母ちゃんの声が鋭く飛ぶ。俺はビクッと正座したまま飛び上がりそうになった。心の声がまた漏れていたのかと思った。

 でも、そうじゃなかった。


「お米、零してる。あんた、もう高校生なんだからね。しっかりしなさい」


 こぼ……

 ちらりと下を見ると、Tシャツに米の塊がついていた。

 雑念が、俺の箸から米を零させた。米粒つけてアキに会いに行ったら恥ずかしすぎる。


「カケルにいちゃん、僕でも零さないよ?」


 アツムがハムスターみたいに頬を膨らませながらそんなことを言うから、睨んでやった。


「お前は黙って食べなさい」


 親父にアツムが注意された。ざまぁみろ。

 俺はTシャツについた米粒を取って、食べた。米には神様がいるから、捨てたらうちでは恐ろしい目に遭う。そこから黙って食べていた俺を、じいちゃんが時々見ていた。

 ……もう零さないから。



     ●



 朝食後、部屋に戻る。それからしばらくスマホをいじった。あんまり集中して何かをする気にはなれない。後、二時間。

 三十分くらいゴロゴロしてみたものの、落ち着かない。ちょっと早いけれど、もう出かけよう。


 ポケットにスマホと念のために財布だけ突っ込んで、玄関先でスニーカーを履く。


「いってきます」


 とだけ家の中に声をかけ、誰かが出てくる前に外へ出た。今日も天気はいい。傘は多分要らないだろう。

 走ったりするとすぐに目的地に着いてしまうから、今日は走らずゆっくり歩いた。土手の向こう側にアキはいない。さすがに一時間ちょっとあるから、まだ来ないよな。


 てくてくとのん気に歩いていた俺は、川へ続く石段を下りた。川のせせらぎが心地いい。小さい頃みたいに川の生き物でも眺めていようか。

 でも、その前に――


 俺は橋の下へ行って蛙の神様に手を合わせた。この間はありがとうございましたって。

 じいちゃんが、世話になったら『ありがとう』は何度でも言えって言っていたし。


 それが済むと、やっぱり川の中をじっと眺めていた。ここのところ雨も少ないから川の水も安定しているみたいだ。澄んだ水が綺麗に流れている。


 水の中には俺たちの暮らしとは別の世界があって、生き物たちは一生懸命生きている。人間みたいに派閥とか家族とか、そういう他とつるむことはあんまりない。川の流れに乗って、自由に気ままに……どっちがいいんだろうな。


 自由はいいと思うけれど、そうしたら美味い飯が自動的に目の前に差し出されることはないんだ。

 ぼんやり、取り留めのないことを考えて川のほとりにいた。ここにいたら待ち合わせに遅刻はしない。だからこまめに時間をチェックすることはなかった。いつの間にか十時になっていたなんて知らなかった。

 背後にいたアキに声をかけられてようやくそれに気づく。


「カケルちゃん、ごめんね。早めに来たつもりだったんだけど、待たせちゃった?」


 俺はびっくりして、もう少しで大声を上げそうになった。それをなんとか堪えて振り返る。


「い、いや。そんなことない」


 アキは――水色の縦ストライプの入ったワンピース。白い網みたいな上着……これ、正式名称なんていうんだろう? 清楚なアキの容姿にすごくよく似合った格好だった。可愛い。見惚れるくらい、可愛い……

 アキは困ったような顔をして髪を耳にかけた。


 待ち合わせに遅れたんじゃない。俺が一時間も先に来たから悪いんだって。でも、恥ずかしくてそんなこと言えない。

 黙ったら沈黙が重たくなる。何か言わなきゃ駄目だって、俺は口を開いた。


「またこうして二人でここにいるなんて不思議だな」


 でも、それはあんまりいい言葉のチョイスじゃなかった。アキはますます困った様子になる。


「……話って、そのことなの」

「え?」


 話したいことがあるとは言っていたけれど、なんの話だかは考えていなかった。俺はただ目を瞬かせて続きを待つしかなかった。


「あの時ね――」


 あの時っていうのは、七年前のあの日のことか。それしか俺には思い当たらなかった。

 でも、それが正解だった。


「あの時、お姉ちゃんが来てカケルちゃんにすごく怒って、あんなお姉ちゃんは初めてだったの」


 それは妹が苛められたと思ったから。普段からよく思っていない棚田村の子供ってことが余計に腹立たしかったんだろう。

 俺もよく知らない子供とアツムが一緒にいて、アツムがびしょ濡れだったら苛められたと思うかもしれない。確認する前に怒るかも……


「まあ……妹が可愛いってことだよな」


 何か答えたいけれど、当たり障りなく言えることがその程度だった。でもそれはアキにとってとても核心を突く言葉だった。

 不意にアキの目が潤んだから、俺はびっくりした。


「カケルちゃんを友達だって庇ったら、お姉ちゃんはどう思うのかなって、考えちゃったの。わたしが棚田村の子と仲良しだって言ったら、家族が困ってしまうのかなって……悲しい顔をするのかなって思ったら、カケルちゃんのこと庇えなくて。もう遊ばないなんて本当は言いたくなかったのに、ずっとわたしに優しくしてくれたカケルちゃんを傷つけるってわかっていても、どうしても家族を悲しませたくなくて……」


 あの時、そんなことまで考えていたのか?

 棚田村の子供と遊んでいて怒られるのが嫌だったとか、そんな理由じゃなくて、家族が悲しむから嫌だとか、そんなことまで考えられるアキはやっぱり大人びていた。


「カケルちゃんは悪くないのに、わたしの勝手で傷つけて、もう絶対許してもらえないって思ったけど、それでも家族を取ったんだから仕方ないって、ずっと何も言えなかった。本当はずっと謝りたい気持ちでいたけど、それもできなくて……。今さら言い訳がましくてごめんね。でも、これだけはどうしても伝えたくて……」


 七年間、吐き出せなかった気持ちがそこにある。

 俺が泣いたのと同じくらい、アキも泣いていたのかな。

 すぐそこで目にいっぱいの涙を浮かべているアキが、俺はすごく、上手く言えないけれど愛しいような、そんな気持ちがした。


「アキも悪くない。悪いのは……昔から仲が悪いって、いつまで経っても歩み寄らないお互いの村だ。子供たちが遊ぶのに気を遣うとか、変だよな!」


 思わずそう言うと、アキは喉を押さえて涙声を零した。


「カケルちゃん……」


 笑ってほしい。本当に、そう思う。


「俺は棚田村で、アキは疋田村だけど、でも仲良くはなれる。だから、村同士も仲良くできるはずだよな? 少なくとも俺は理由もよくわかんないような仲違いが続いてるのは好きじゃないから」


 仲直りの証はこうすると、俺は手を差し出した。アキは俺の手を見つめて、そうして白くて細い手で俺の手を握った。……サラサラスベスベ。俺、手汗かいてないよな?

 なんてことを気にしながら、俺は精一杯笑ってみせた。


 アキは照れたみたいにはにかんだ笑顔を見せた。ほんのり赤い。

 ナチュラルに手を握ることができて、アキの体温を感じて、俺の正直な心臓はバクバクいっている。もう、脳みそが溶けそうなくらいにおかしなことになっている。でも……


 自然に握手したのはいいんだけれど、これ、離すタイミングがわからない。いつまでも手を握っていたら、さすがに手汗でベタベタになる。そうなる前に離さないとと思うんだけれど、さりげないタイミングってどこ?


 うわぁ、握るより難しい。そこまで考えてなかった! いや、落ち着かないと……。焦ると緊張で手汗が噴き出す。

 正直に言って馬鹿かも、俺。そんなことを自覚した。兄貴とかトノに言ったら笑われそう。


 そんなことを考えていると、アキがちょっと身じろぎした。あ、俺、力入れ過ぎ?


「ごめん、痛かった?」


 そう言って、とっさに手を離した。アキは少し笑った。


「ううん、大丈夫」


 そう言ってくれたけれど、手を見たら少し赤い……

 女の子の手は弱い。男連中と腕相撲をするようなのとはわけが違うんだ。

 気まずくなるかと思ったら、そうでもなかった。アキは爽やかに笑っている。


「本当にカケルちゃんは変わらないね。昔のまんまで、それがすごく嬉しい」


 嬉しい……の?

 子供っぽいって言われているのとは違うのか?

 よくわからないけれど、褒められていると思っていいのか。


「アキも見た目は変わったけどさ、中身はそんなに変わってないな」


 見た目は……綺麗になった。

 そこでふと、俺はあることに気づいた。

 こんな可愛いアキなんだから、彼氏……いるんじゃないのかと。もしいるんだとしたら、浮かれている俺って本当にただの馬鹿だよな。急に夢の国から現実に戻ってきた気がした。


「そう? ちょっと子供っぽいかな? 同級生たちに比べるとそうかも……」


 なんて言いながらアキは口元に手を添えた。


「同級生ってそんなに大人っぽいの? アキって学校どこだっけ?」


 制服だけで学校が判別できるほど、俺は女子の制服に詳しくない。俺が通っている区域とは反対方向だし。


「三ツ葉女学校だけど」


 女学校……ってことは、女子校?

 ってことは、男子がいない。出会いが少ない? よし!

 その事実に目の前がパッと開けたような気分だった。


「あ、俺は西之園高校」

「共学?」

「うん」


 すると、アキはじっと俺を見上げた。それから軽くうつむく。


「カケルちゃん、人気ありそうだね」

「へ?」

「モテるでしょ?」


 そんなこと、初めて言われた。しかも、アキにそんなことを言われるなんて。

 でも、なんとなく嬉しい。


「いや、全然。学校でもバカばっかりやってる」


 顔が笑ってしまう。本気で全然だし、笑っている場合じゃないんだけれど。

 そんな俺に、アキもつられたようにしてクスクス笑った。


「学校楽しそうね、カケルちゃん」

「うん、まあ。アキは?」

「楽しいよ。皆優しいし」


 アキにかかったら優しくない人を探す方が難しかったりして。そんなふうにも思う。それくらい、見る目が優しい。


「小さい頃は一緒の学校に行きたいって言ってたけど、女子校じゃ俺、無理だよな」


 すると、アキはさっきよりももっと無防備に笑った。


「本当だね。それだったらわたしがカケルちゃんの学校に行ってたらどうかな?」

「アキみたいな子がいたら、男子が大騒ぎするって。女子校の方がいいよ」


 日替わりで違うヤツがコクりに来るだろうな。毎日毎日呼び出されるアキを俺はハラハラしながら眺め――なんてことになってたと思う。

 でも、アキは俺の言いたいことがあんまりよくわからなかったみたいだ。軽く首を傾げた。


「そうなの? うーん、小学校は共学だったんだけどな。どっちかというと、男の子にはあんまり口を利いてもらえなかったかも。わたし、多分取っつきにくいんじゃないかな」


 いや、可愛い子と喋るのが男子にとってどれだけハードルが高いか、アキがわかってないだけだ。そいつら皆、緊張して近づけなかっただけだろうに。

 ちょっととぼけたようなことを言う、そんなところも可愛い。


 こうして話していると、七年間のブランクがまったくなかったことのように思える。すごく自然で、楽しい。いつまでも話し込んでいたい。そんな気持ちになる。


 それでも、ここに長居していると、いつかみたいにどちらかの家族が来て、また引き裂かれるかもしれない。だから今はすごく名残惜しいけれど区切りをつけなくちゃいけない。


 ただし、昔とは違う。俺たちは少なくとも、世界が村だけで構成されていた時ほどには子供じゃない。だから、その気になれば村の外で会えるんだ。


 俺は心の中で蛙の神様に祈っていた。どうかお力添えをお願いしますって。

 神様は呆れたかもしれないけれど、助けてくれるような気がした。


「あのさ、今度、休みの日に西町に行かないか?」

「え?」


 俺が学校に通う西町。そこならアキを色々なところに案内できる。スイーツの美味しい店だって知っている。町なら、村の目を気にしないでもう少しアキと過ごせると思うんだ。


「クラスの女子が美味しいって言ってるスイーツ店があるんだけど……」


 すると、アキは大きな目で瞬いて、それからふわりと笑った。


「カケルちゃんの学校があるところだよね。うん、行ってみたいな」


 でも――と、アキは言葉に詰まった。西町に行くためにはバスを使う。そのバスに乗ると、棚田村の人間だらけだ。バスの運ちゃんに村の軋轢は関係ない。俺たちが一緒にいたからって何も言わないだろう。でも、乗客はそうじゃない。そこが難しいところだ。


「電車使う?」


 遠回りになるけれど、いったん最寄りの駅にバスで向かう。それから電車で西町へ行けばいい。疋田村のバス停からも最寄りの駅は同じだから、別々のバスでも必ず駅には着ける。


「そうだね。電車、いいね」


 アキもそうささやいた。

 昔みたいなことになりたくない。自分の意思で仲良くしたいと思うから、外野に邪魔されたくない。

 家族にも秘密にするけれど、言えないのは俺たちのせいじゃない。


 俺たちはその日、次の約束を取りつけて別れた。

 約束は、嬉しい気持ちとほんの少しの後ろめたさでできている。


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