〇〇〇 張角三兄弟
~~~山中~~~
飢饉が続いていた。
日照りが続き、長雨が続き、突風が続く。わずかに実った作物はあるいはイナゴに食い荒らされ、あるいは盗賊に奪われた。
都では政治が腐敗し、地方でも賄賂が横行し役人が私腹を肥やした。
飢饉は天罰だという者がいた。いや、天罰が起こるのはこれからだと言う者もいた。
とにかく人々は日々の糧にさえ困窮していた。
張角もその中の一人であった。
「むう……。木の実を探していたらこんな山奥まで来てしまった。
全く、毎日の食べる物にも事欠く始末だ。飢饉はいつまで続くのやら……」
張角は二人の弟とともに山で暮らしていた。木の実を集め、鳥や獣を仕留め、糊口をしのいでいた。だが近頃は木の実ですらろくに見つからない。飢饉の脅威は山奥にまで及んでいた。
「張角……………………。張角よ……………………」
「んん? 誰だ、我を呼んでいるのは」
何者かの声がした。まるで頭の中に直接響いているような奇妙な声であった。
「張角よ。こっちだ。こっちに来い。お前に良い物をやろう」
いぶかりながらも声の主を探すと、すぐに見つかった。
蓬髪と髭に顔を覆われた男だった。髪も髭も黒々としているが、その隙間から覗く顔には深い皺が刻まれ、一見して老人と思われた。
不思議な声といい、こんな山中に一人でいることといい、不審を覚えたが、相手はただの老人だと張角は高をくくった。
いざとなれば近くで食い物を探している弟たちを呼べばいい。彼等と協力して旅人を襲い、荷物を奪うことはたびたびやっていた。
「良い物だと? 食えるのならばなんでもよいぞ」
老人の出方をうかがいながら張角は言った。懐に手を忍ばせ、短刀を握る。
「食えはせん。だがお前の助けになるだろう」
老人は口を動かさずに言った。やはり頭の中で響くような声である。
老人も自分の懐に手を伸ばしたので警戒したが、取り出されたのは一冊の古びた本だった。それを張角に差し出す。
「なんだ、この薄汚い本は?」
「火を起こし、風を呼び、水を落とす……。
これを読めば、様々な術を身につけることができる。
使い道はお前に任せよう」
「ほほう、それはすごいな」
口先では話に合わせながら、張角は老人の隙をうかがった。油断させて襲いかかろうとしたが、ただ突っ立っているだけなのに不思議と隙は見えない。
「だが忘れるな張角よ。
私利私欲で術を用いれば、必ずや報いが訪れるだろう。
我が名は南華老仙……。
お前たちの行く末を見守っているぞ……」
張角は唖然とした。
老人の声が次第に小さくなり、それにつれて体が薄れていった。まるで霧に溶け込むように、老人の姿が消えていく。本がばさりと足元に落ちた。
「おお、ジジイが消えてしまった。さてはあれが噂に聞く仙人というヤツだな」
山奥に住み、奇怪な術を操るという仙人。会うのは初めてである。襲いかからなくて良かったと思った。
「それにしても良い物をもらった。これを使えば……。ひひひひひ」
本物の仙人ならば、この書物も本物だろう。
表紙には太平要術と記されている。
足元に残された太平要術の書を拾い上げると、張角はほくそ笑んだ。
~~~張角兄弟の家~~~
『お帰り兄者。食べられる物は見つかったか?』
二人の弟の声が見事に重なった。
弟らは双子で、声はもちろん顔も体型もそっくりで、張角にすら見分けがつかない。
二人は一心同体で、いつもこうして同時に声を発していた。
「弟たちよ、食べ物よりもっと素晴らしい物を手に入れたぞ。
ようやく我らにも運が回ってきたのだ!」
張角はうやうやしく太平要術の書を取り出すと、南華老仙と名乗った仙人に会った話を聞かせた。
『読むと妖術が使えるようになる本? 兄者、それは本当か?』
「ああ、帰り道で試してみたから間違いない」
道すがら、本に書かれている通りに呪文を唱え、指で印を切った。すると火を起こし、風を呼び、水を落とす……仙人の言う通りの事が起こったのだ。
「弟たちよ、これを使い我がどうやって金を儲けるかわかるか?」
『妖術を見せ物にするとか……』
「そんなことでは、はした金しか稼げんぞ。
よいか、我は妖術を操る教祖となり、教団を作るのだ!
そして信者を集めて巨万の富を築くのだ!!」
張角兄弟の生まれた村にも宗教家がいた。病を治せるという触れ込みで多数の信者を集めていた。
兄弟は村を出る時、彼を襲い金品を奪った。巨万の富を蓄えていた。
ただ病を治せるというだけであれだけの金が集まるのだ。仙人に譲られたこの多彩な力を見せれば、どれだけの信者を、金を集められるだろうか。
運が回ってきたのだ。張角は改めてそう思った。
~~~??~~~
「やはり私腹を肥やすことに使ったか。人の子の考えることは皆同じだな」
南華老仙は張角を見ていた。彼の仙術にかかれば、いながらにして地上のどこの情景ですら見通すことができる。
「報いはいつでも与えられる」
あらゆる仙術を身につけた彼にも未来だけははっきりと見ることができない。張角がこれから何をするのか、それには興味があった。
「今しばらく様子を見てみるとしよう……」
愚かな人の子がはたして何をするのか。仙人は表情を動かさず、声にも出さずに笑った。
~~~~~~~~~
かくして張角は、黄色い布を旗印とした黄巾党を立ち上げた。
圧政への不満を抱いていた民衆の共感を呼び、
瞬く間に黄巾党は中国全土に広がった。
そして一斉に武装蜂起した彼らは黄巾賊と呼ばれ、さらなる戦乱を招くのだった……。
次回 〇〇一 桃園の誓い