落雷
登校してすぐ下校とは、なんとも言えないほど嬉しいものだ!
それが、霳太郎の表情以上に心で感じていることであった。
帰宅宣言後、終始上機嫌な霳太郎を見て4人が苦笑いを浮かべている。
ただ、蓮華だけはムスッと両腕を組んでいた。
蓮華は真面目で中途半端なことが大嫌いな性格だ。
だから、今日の勉強や部活に向けての熱意を削がれてしまい不機嫌なのだ。
そんな蓮華と正反対な性格の霳太郎には、なぜそんなに熱くなれるかがわからない。
てか、わからなくていい。
というのが彼の本性である。
霳太郎はマイペースなのんびりライフを夢見ているのだから。
体力勝負の部活や凝り固まった集団行動など苦以外の何でもなかった。
「あーあ、今日も敦子先輩に特訓してもらいたかったのになぁ」
ふいに康介がつぶやく。
おっと、ここにも暑苦しいやつがいた。
そんなことより、今康介は何と言ったのか。
康介はボクシング部であるのは百も承知だが、指導する先輩はより筋肉質な方だろう。
それが女とわかってしまえば驚きを隠せないのは当然のことだった。
「あ~、敦子先輩か~。かっこいいですよね~。雨の中のジョギングなんか、水も滴るいい女って感じでしたもんね~。」
筋肉ムキムキのゴリゴリ女が水も滴るいい女?
想像できない。想像できたとしてもそれは…...。
いや、やめよう。
霳太郎の頭の中で勝手な敦子像が膨れ上がっていくなか、皆は格闘家や武道の話で盛り上がっていた。
もともと筋肉フェチな鳴海は鼻息を荒くして筋肉を語っている。
以前ブームとなったマッチョツアーという、筋肉ムキムキの男性に隣に座ってもらうバスツアーなんぞに参加していたくらいだから相当なものだろう。
彼女もその見た目と笑顔から学校中に人気があるのだが。
いかんせん、筋トレをしない奴は言語道断と言って切り捨てたほどタイプがマニアックなのである。
そんな振られ方で血の涙を流したものは後をたたない。
そんな背景を思い出してか、みんな苦笑いだ。
それを爽やかな笑顔で見守っている悠真。
お父さん目線が板につきつつある。
周りの皆もどんより雲なんか気にもせずに、明るく喋る。
早く帰ろうか、寄り道しようか議論しているところもあった。
そんな生徒に風紀の一員である蓮華がツッコミを入れるも、叱られた生徒は楽しそうだった。
しかし。
ポツッ
「あれ、雨降ってきてないか?」
突然、悠真が空を見上げた。
雫が鼻に落ちてきたらしい。
確かにポツポツと音が聞こえてくる。
そして、だんだんと雨が地面を打つ音が強くなった。
「うわ、やだっ、バス停まで走るわよ!」
「いや、バス停に着いても屋根は小さいから入れないと思う。これだけの人数が一斉に下校したんだから」
霳太郎は周りの学生が全力で走っていくのを見て、蓮華の提案を退けた。
ここの学校は駅から遠く、ここまではバスを使うしかない。
田舎のため、タクシーも走っていないのだ。
普段は数台バス停に止まっていて10分おきに来るサイクル。
生徒たちもまばらに帰るから混むことはないのだが、今日は一斉下校のせいでバスの数が足りなくなったのだ。
「じゃあ、雨宿りしようよ!私、明日試合だから風邪をひくわけにはいかないの」
蓮華が困り顔で4人に訴えた。
そういえば、今朝から明日は空手の練習試合があるんだって張り切っていた。
黒帯の試合を想像して衝撃音を鳴らしながら取っ組み合う女性2人を想像して、恐怖に戦慄いたのは新しい記憶だ。
この中で武道やスポーツに思い入れのない者は霳太郎だけだった。
だから、その良さというものは全く理解していないのだ。
だが、蓮華の尋常ではないほどの強さは理解しているつもりではあった。
なにせ、空手だけではなく柔道も黒帯、剣道もそこそこらしいのだ。
これを知った日から、霳太郎は密かにこいつを絶対に本気で怒らせてはいけないと、常に肝に銘じている。
ま、たまに忘れてど突かれているのも愛嬌である。
結局、霳太郎たちはバス停に近くにある駄菓子屋で雨宿りさせてもらうことにした。
誰も来ないであろう古びた古民家のようなそのお店の主は、朗らかな笑みを浮かべる老婆だった。
そこの店主と世間話をしながら雨が弱まるのを待つこと数分。
店主は案外豪快な性格らしく、はっきりものを言う割には目元にシワを寄せて屈託なく笑うものだから、ついつい話に乗ってしまう。
これが愛嬌というやつなのだろうか。
30分程過ぎると。
バスのサイクルも追い付いてきて人が少なくなり、ちょうど雨が弱まっている頃だった。
「お!これならいけるかもだ!」
康介が引き戸を少し開けて、暖簾を軽く押し上げ仰ぎ見る。
置いていた鞄を背負い、走る準備を始めた。
それに倣い、悠真たちが支度を始め、ワンテンポ遅れて霳太郎もカバンを肩にかける。
だが、その後ろから引き攣るような笑いが降りかかった。
老婆だ。
「そこの暑苦しい筋肉眼鏡、やめといた方が身のためだね」
そう。
この老婆、意外と毒舌なのだ。
さっきから霳太郎のことを無口の陰気女男とか。
悠真のことをアスパラガスな若年寄とか。
鳴海や蓮華のことを腹黒女狐や頭空っぽの趣味が悪い嬢ちゃんなどと言っている。
いいところが一つもない!!
「なんで?」
「雷が落ちるっていってんだよ。雲の辺りがピカピカ光ってんだろ。もうちょいで落ちるぞ」
「でも、直撃することはありえないよ。心配性だな婆ちゃん、大丈夫だって。俺は雷に打たれても負けん肉体を持ってるからな!んじゃ、しゅっぱーつ!俺、一番乗りー!」
老婆の忠告も聞かずに康介が勢いよく雨のなかへ飛び出した。
この言葉が例のフラグのように聞こえたのは自分だけだろうかと、霳太郎は不安に駆られた。
大丈夫だろうか。
「あ、ちょっと待ちなさい!」
蓮華が母親のように怒った顔で悪戯坊主を止めようとするが、間に合わなかった。
「ははっ。待たん!毎日敦子さんに鍛えられている俺に追いつけるなら追いついて、あべしっ!!」
あ、転んだ。
マンホールで足を滑らせたのだ。
おいおいこんなんじゃ、毎日鍛えてくれている敦子先輩が泣くぞ。
康介の姿を目に収めた全員の心が一致した瞬間である。
雷にも負けない体であるはずの康介は、また滑らないように手足をぷるぷるさせながらゆっくり立ち上がった。
まるで産まれたての小鹿のようだ。
「まったく、もー。びしょ濡れじゃない!これじゃ雨宿りした意味ないでしょーが!」
蓮華が屋根の下からコウを叱る。
鳴海は腹を抱えて絶倒し、悠真は苦笑い、霳太郎はどうでもいいというばかりに駄菓子を物色していた。
そうなのだ。あいつはこんな奴だった、と全員が思い出した。
元気だけはいいが、何かしらへまをするどじっ子体質なのだ。
……女の子でドジっ子は許せるが男子のドジっ子は見るに耐えない。
というのが、一般的男子の意見であろう。
しかも脳筋のゴリゴリ男だ。
つまるところ、需要がない。
耳には蓮華の叱咤、目には駄菓子のラベルといろいろ忙しい霳太郎の横で盛大なためいきを吐く気配がした。
老婆だ。
その眼は、いつまでたってもうだつの上がらない孫を見守るかのような生暖かい視線だったが、何かもう一つの感情が混じっているようだった。
だが、それが何なのかまではわかるはずもなく。
ただ、その感情は康介へ向けられたものではないような気がした。
康介を見て違う誰かを連想している、そんな感じだ。
不思議そうにマジマジと観察している霳太郎の視線を感じたのか、婆さんは俺を見てにやりとした。
すべてを見すかされているような笑みに不気味さを覚え、パッと目をそらしてしまう。
そろりと戻すと、婆さんは何も言わずに視線を切った。
霳太郎も目をそらしたまま、外へと向ける。
そこに移ったのは、ちょうど風邪をひくのを嫌がっていた蓮華が、仕方がないと首を振り康介のもとへと走っていく姿だ。
フラグを見事に回収してしまった本人は、全身ずぶ濡れなのにも関わらずこっちを向いて笑っている。
その傍ら、笑いから解放された鳴海は、康介をからかう方法を考えながら相変わらずにんまりとしていた。
その姿を見て、またもや苦笑いの悠真は霳太郎を一瞥し、自分たちも行くかとうなずき合った。
「警告は、したからね。」
2人が一歩踏み出した途端。
突然の低い声に振り返ったが、そこには誰もいなかった。
奥に引きこもってしまったのか老婆もいない。
今のは店主の声だろうか。
霳太郎の空耳なのか。
ほかのみんなは気づいてないらしく、悠真は振り返った霳太郎を不思議そうに見ているだけだ。
あっ!お礼、言いそびれた!
悠真と目があった瞬間に本来の目的を思い出したが、あの老婆の毒舌を思い出して苦笑いを浮かべてしまう。
「ま、べつにいっか」
また別の日に会えるだろう。
その時に伝えればいい、と。
出口へと振り返り、悠真たちを追いかけようと外へ一歩踏み出した。
が。
地面に足をついたその瞬間。
世界が真っ白に塗りつぶされる。
そしてそのすぐ後。
不思議に思う間もなく一気に白は黒に覆われる。
次に浮遊感。
吐き気がこみ上げる。
平衡感覚がない。
地面がわからない。
パニックになった瞬間。
一瞬の衝撃。
肺空気がなくなる。
目の裏がスパークした。
わけがわからない。
遠くでどさりという音。
誰だろう。
そのまま瞼が閉じた。
景色は変わらなかった。
「・・・ぅ」
何か聞こえる。
あれ、揺れてる?
船に揺られてるのか、気持ち悪い。
いつの間に船に乗ったのか。
「・・りゅぅ」
誰かが呼ばれてる?
「窿っ!」
「っ!?」
完全に意識が覚醒し、目の前にあったのは心配そうな顔の悠真の顔だった。
揺れていると思っていたのは悠真が俺をゆすって起こそうとしていたからだろう。
「あれ、俺寝てたか?」
ヒヤリとした地面を背に感じているのは気のせいではない。
本当に寝ていたようだ。
なぜ?
「無事でよかった。起きれるかい?」
肩の力を抜いてほっとした悠真が手を差し出してくる。
男相手に律儀だな、そういおうとした瞬間体中に鋭い痛みが走った。
起き上がりかけていた体は痛みで硬直し、激痛に顔をしかめる。
「痛むかな、まだ無理そうなら寝ておいたほうがいい」
「いや、大丈夫。てかなんで・・」
悠真の手を借りながら無理やり立ち上がる。
なぜ自分は寝てたと問いかけようとして口をつぐんだ。
言葉が出なかったのだ。
いや、言葉にならなかった。
霳太郎たちがいるのは駄菓子屋だったはずだ。
なのに、屋根も壁も床も。
木製だったところはすべて木がはがれ地面に落ち、台にあったお菓子はすべて床に散乱しこげている。
床に転がっている飴玉がなかったらここが駄菓子屋だとはわからないほどに原型を保っていなかった。
「僕もあんまり覚えてないけど。一応、蓮花と鳴海は無事、っ!?」
目を見開いて周りを見渡す霳太郎に、現状を説明しようとした悠真が突然腕を抑えてしゃがみ込んだ。
抑えた手の隙間から赤い血が流れて出ている。
「悠真っ!」
とっさに覗き込むが。
「大丈夫。ちょっとそこの木柱の木に引っ掛けただけだから」
この寒い冬にかきそうも無い汗を額にのせながら、歪んだ顔でこちらに笑って見せた。
こんな時でも笑うのはさすがだが、少し心配になる。
だが。
お前、すぐに我慢するから。
とは、こんな状況では口に出すのをためらわれた。
2人は木の破片や建物が崩れて来ないか確かめながら立ち上がった。
周りにある木はすべて割れていて、断面はギザギザの状態だ。
少し擦っただけでもかすり傷にはなるだろう。
気をつけないと。
悠真の傷はそんなに大したことではないらしく安心したが、その拍子に先の悠真の言葉を思い出して不安が一気に押し寄せてきた。
『一応蓮花と鳴海は無事』
顔がこわばる。
では、康介は–––––?
霳太郎は全身に力が入るのを感じた。
悠真がみんなの安否を確認しているなら、康介も見ているはずだ。
それにあいつは蓮華の近くにいた。
なのにあいつだけの無事が確認できてないって……。
「え、嘘だよな・・・?」
そこまでしか考えることができなかった。
脳がそれ以上思考するのを拒絶した。
言い忘れただけだよな!?
霳太郎は隣にいる悠真を凝視したが、彼は耐えきれずに視線を顔ごと床にそらした。
もう、それだけで十分だった。
答えているようなものだ。
それだけ不安そうに目を閉じる悠真を見たのだ。
だが、信じられなかった。
生きてると。
言って欲しかった。
たまらなくなって、外へと駆け出した。
悠真はそれを止めずに後ろからついてきている。
いま、彼がどんな顔をしているかはわからない。
前に踏み出すたびに焦げ臭いにおいとともに黒い煙が押し寄せてくる。
駄菓子屋の屋内とは比べ物にならないほどの匂いだ。
焦げ臭いのはもう慣れた気がしなくもないが、それでも刺激に顔をしかめてしまう程に。
蓮華のいる場所は以前と変わらず、マンホールの手前にいた。
その目の前の地面は炭をぶちまけたように真黒で、そこから煙がシュウシュウ音を立てて空へと昇っている。
まるで、マンホールを中心に爆弾が爆発したような。
そんな有様だった。
変わっていたのはそれだけではなく。
蓮華が道路のわきで倒れた状態で、彼女の上半身を鳴海が抱きかかえている。
2人とも意識はあるようだが、その表情は無表情で、道路の中央を見つめていた。
まるで一切の感情をどこかに置いてきたかのように。
その視線を追っていくと、マンホールらしき凹凸の上にメガネが落ちているのが見える。
よく知ってる銀縁のメガネ。
二か月前、コウがそれをかけてはしゃいでいた。
これでインテリに見えるだろうと自慢していた。
筋肉質の長身に銀縁をみて悪徳業者を連想して、全員で大爆笑したのを覚えている。
しかし、今その陽気な持ち主は見当たらない。
どこにいる?
一瞬の希望的観測で思いついたのが救急車で運ばれたという妄想だった。
そう思って。
その期待を持って振り返る。予想していた通り、悠真と目が合った。
だが、その表情は何年も昔に見たものと一緒だった。
複雑そうで、泣き笑いみたいな、迷子になった子供のような・・・。
彼の父親が亡くなったと聞かされた時の。
それで概ね察してしまう。
自分の顔が、目が絶望で死んだ魚のようになるのを感じた。
よくわかる。
無力さを味わう時のいつもの感じだった。
だが。
では、どこに行ったのか。
ただ聞きたいのはそれ一つだけだった。
死んでても、死んでなくても。
人は目に見えないものを拒む。
「康介は?」
悠真は何も言えず、霳太郎の目を見て鎮痛な面持ちで俯いた。
そんなひどい顔しているだろうか。
なあ。
康介がどこに言ったか。
もしくは消えたか……。
蓮華も鳴海も誰も答えを知らなかった。
ただただ、そこには揺らぐ破壊の痕跡だけ。
そして、そこにはあの老婆の声がこだましているように聞こえた。
灰色の淀んだ沈黙を破ったのは誰かが発した答えではなく、遠くから聞こえてくる救急車とパトカーのサイレンだった。