8
一杯目を飲んですぐに、香織と圭吾は出て行った。去り際に『あとは若い者でごゆっくり』とご満悦な表情で手を振った香織をみて、小さいおばさんがいると依子はそっと思った。今回の合コンは依子のためと言っていたが、香織自身こういう場をセッティングすることが好きなのだろう。
早田も伊藤も特に動揺した様子もなく見送っていたところを見ると、二人がすぐに退出することは事前に伝えられていたのかもしれない。
「で、最近失恋した傷心ボーイはどっちかな?」
二人の気配が消えた途端、早速悠季が爆弾を投下した。
早田は唐揚げを咀嚼寸前の状態で止まり、伊藤は飲みかけのビールをあわやふき出しそうになっていた。にくいタイミングである。絶対確信犯だと、依子はこっそり苦笑した。
二人ともしばし固まっていたが、早田はすぐにその表情を戻して、笑いながら片手をあげた。
「はいはい、俺でーす」
「よし、じゃあまずはそれを肴に飲もう」
早田で良かった。依子は内心ほっとした。もしこれが伊藤の方だったら、絶対に場が凍っただろう。早田は見た目の印象通りにオープンなタイプなのか、悠季に聞かれるまま、その別れた彼女とのあれこれを話してくれた。
なんでも元彼女はバイト先の同僚で、付き合い始めた頃は楽しかったが、段々と早田を束縛し始めたのだと言う。
「だってー、友達と会うのも渋るんですもん。誰と行くの? 女の子いるの? とか。もうすんごい質問攻めで」
「そりゃ自分の彼氏がフラフラしてるのが心配だったんでしょ。かわいい乙女ゴコロじゃん」
「えー、付き合ったからってそういうの全部言わなきゃなんないのって面倒じゃないですか?」
「……うん、今回は相性が悪かったんだね。次はそのへんに無頓着な子と付き合うことをオススメする」
「いやー、俺もそういうタイプの方がいいんですけど、そういうのって付き合ってみないとわかんなくないですか? 付き合う前から束縛云々とか話さないしな~」
「それにしたってお前はちょっと軽すぎる」
むすっとした表情で伊藤が早田を制した。先ほどより目が据わって見えるのは、気のせいだろうか。まだ二杯目の途中だというのに、彼の目尻は赤い。
「彼女がいながら他の女子と遊びに行ったら、そりゃ向こうだって怒る」
「えー、そうかなぁ。よっちゃんはよっちゃんでカタブツだからなぁ。それもどうかなって思うんだけど」
カタブツという言葉は、確かに伊藤の雰囲気によくマッチしている。あっさりした顔立ち、細いフレームの眼鏡、そしてストレートの黒髪。この年の男性にしては品がありすぎるというか、学級委員っぽいというかーーチェックのシャツの上にパーカーを羽織ったカジュアルな格好だというのに、どこか老成した空気感が漂っている。
むっつりと口をへの字に曲げた伊藤を救済せねばと、依子は彼に声をかけた。
「よっちゃんって伊藤君のことだよね? その由来って何?」
伊藤は依子を見てすぐ口を開いたのだが、彼から言葉が出るより先に早田が返答した。
「伊藤義人君だから、よっちゃん。サークルのみんなそう呼ぶんですよ」
「柄じゃないと言ってたんですが、いつのまにか定着してました……」
眼鏡を押し上げ、深い溜息とともに伊藤が言った。
相当不本意だったのだろう。苦い顔をしている。
「いいじゃん、よっちゃんてかわいい呼び方じゃん。あたしたちもそう呼ぼうか? ね、よっちゃん」
「ちょっとそれは……」
「で、よっちゃんは彼女いないの?」
伊藤の困った様子にかまうことなく、悠季は伊藤に微笑みかけた。悠季はこのまま伊藤をよっちゃんと呼ぶことに決めたらしい。悠然とした笑みは、相手を黙らせる迫力がある。伊藤は呼ばれ方への不満はあるようだが、いませんと素直に答えた。
「ま、いたら合コン来るなって話だけどね。彼女はずっといないの?」
「同じゼミの人と付き合ってたんですけど、去年の春に別れました」
「すっごい美人だったんですよ~」
伊藤の隣に美人が並ぶ図は、容易に想像できた。大和撫子を具現化したような知的美人が依子の頭に浮かぶ。悠季も「確かに美人系と付き合ってそう」とうなずいた。
早田はそうなんですと笑う。
「二人、よく図書館でデートしてて、そりゃもうお似合いだったんですけどね」
「図書館デート!」
「優等生カップル!!」
依子と悠季の叫びに対して「いけませんか」と伊藤は鋭い視線を向けた。それが光線のように肌に突き刺さり、依子はすぐに「素敵だと思っただけだよ」と弁明した。
彼をからかいたかったわけではなく、ただ自分が学生時代できなかったことへの憧れが興奮として表出してしまったのだ。伊藤はうろんな眼差しを向けていたが、依子が別れた理由を聞くと表情が平らになった。
「進路が合わなかったんです」
「進路?」
「彼女は元々大学に通うために上京して来ていて、就職は地元ですることにしたんです。俺はこっちが地元でそのまま就職を決めたので、もうこれ以上は付き合えないということになりました」
「遠距離すればいいじゃん」
「先がないと分かってるのに、付き合い続けることはできません」
いさぎよい伊藤の返答に、依子も悠季も黙った。
伊藤の顔に後悔や寂しさなどの感情はなく、彼が過ぎたこととしてただ事実を述べているというのが感じ取れた。
早田はこの話には口をはさまないと決めているのか、さっきから黙って枝豆をつまんでいる。
「伊藤君はすごく誠実な人なんだね」
先に口を開いたのは依子だった。
別れるという決断に迷いがあったのかなかったのかは読み取れない。けれど彼の言う『先』というのは『結婚』なのだということは分かった。
学生の時からそんなことを考えて彼女を作るなんて、堅実すぎるような気もする。しかし、だからこそ彼と付き合う女性は幸せになれるだろう。良い夫になる未来が容易に想像できるタイプだ。
「よっちゃん、本当に大学生? 実は三十越してない?」
「どういう意味ですか」
呆れ気味(引き気味ともいう)の悠季に対して、伊藤は憮然としている。ここで枝豆を食べ終えた早田が「わかります?」と笑った。
「俺らの間でもよっちゃん三十路説は流れてましたね~。だってホントくそ真面目なんですもん」
「真面目のどこが悪い」
「ほら、そう言っちゃえるとことか、最高ですよね」
早田は嬉しそうに笑って、次にビールを飲み干した。ほらほら飲んでと早田に促され、伊藤もジョッキを開ける。
「よっちゃん、酔うともっと面白くなりますからね。がんがん飲ませちゃいましょう」
「お、のった。そのポーカーフェイスの崩れるさまがみたい!」
「俺は別に面白くない」
力加減を間違ったのか、少し強めにジョッキをテーブルに置いた伊藤は、どう見ても酔っぱらい出している。お酒はそんなに強くないんだろうなと依子は思ったが、嬉々として熱燗を頼む早田と悠季を止めることはしなかった。
◆
結論として、早田が言う『面白いよっちゃん』が降臨する前に合コンはお開きの時間となった。土曜日だからか新宿だからか、それとも既に世の常識なのか、席の確保は二時間で終了するのである。
にこやかに伝票を持ってきた店員にその額を支払い(少しもめたが割り勘になった)、それぞれ身支度をする。
「あー、楽しかったぁ。でも飲み足りないなぁ。二次会行きません?」
「今日は無理」
早田の誘いをものの数秒で切り捨てて、悠季は一番に個室を出た。早田は瞬間肩を落としたが、すぐに復活して悠季に追いすがる。
「じゃあ、また日を改めて飲みましょうよ」
「それならいいよ」
「やった」
まるで早田が尻尾を振る犬のように見える。
依子は二人の姿を微笑みながら見送り、自分もその空間を辞した。伊藤はしんがりになることが務めとでも思っているのか、依子が動くまで待っていた。
「伊藤君は今日楽しかった?」
聞きながら、依子はすぐに失言に気付いた。こんなふうに聞いたら楽しかったとしか返答できない。だから、伊藤が口を開くより先にごめんと謝った。
「これじゃ楽しいとしか言えないよね。変なこと聞いちゃったね。今日は来てくれてありがとう」
「……いえ、お礼を言うのはこっちの方です」
伊藤の目が柔らかく細められた。
「俺も楽しかったですから。圭吾には感謝しときます」
その微笑みに、依子は一瞬見とれた。