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その手をとれば  作者: ななのこ
第3章IF 迷いの果ての、その先の 【伊藤編IF】 ※原案:竹野きひめ様
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 依子が藤代と伊藤から距離を置いて、三週間が過ぎた。その間二人は依子が望んだ通りに連絡せずにいてくれた。藤代とは会社で顔を合わせるが、職場の先輩後輩としてのコミュニケーションしかとっていない。

 だから依子はこの三週間、暇さえあれば考えていた。

 自分はどちらを好きなのか。ひたすらに比べて、自問自答を繰り返した。

 そしてようやく決心がついたのが三日前、二人を呼び出すメールを送ったのが二日前。そして本日、九月の三連休初日が三人で会う当日である。依子は待ち合わせの時刻より少し早目について彼らを待っていた。


 昼過ぎの渋谷・ハチ公前は人であふれている。早足で行き交う人たちを見るとはなしに見ながら、ハチ公像の背後の石塀に座って依子はその時を待っていた。

 今日これから告げることに、二人はどういう反応を示すのだろう。

 それを考えると心が重く沈むが、それだからと言って逃げてはいけない。気を強くもとうと、朝からまるで呪文のように依子は自分に言い聞かせていた。


 先にハチ公前に現れたのは、伊藤だった。

 ぼんやりとしていたはずなのにきびきびとした歩き姿はすぐ目に止まり、同時に依子の意識を覚醒させた。細身のラグランシャツにジーンズというシンプルな出で立ちでも、その姿勢の良さのせいか洗練されて目に映る。

 その凛とした雰囲気に声をかけることも忘れて見入っていると、伊藤が依子に気付いた。軽く会釈をして依子の方へ歩いてくる。そばまできて彼は穏やかに微笑んだ。


「お久しぶりです」

「うん、今日は来てくれてありがとう」

「当たり前じゃないですか」


 まだ藤代さんは来てないんですね、そう言いながら伊藤は周囲に視線を巡らせる。依子も同じようにして少し後に藤代の姿を見つけた。人の波をひょいひょいと涼やかな顔でくぐりぬけて、藤代はまっすぐこちらへ向かってくる。どくんと依子の胸が一度鳴った。

 七分袖のストライプシャツに細身のブラックジーンズを履いた姿は垢ぬけていて、相変わらず私服だと三十歳にはとても見えない。真顔の藤代はどこか硬質な雰囲気をかもしだし、しばらく遠くから眺めていたいとぼんやり思った。


「お待たせ~」


 二人のもとに着くなり、藤代はその相好を崩した。途端に藤代の雰囲気も柔らかく変化する。依子は少し残念な思いを隠して立ち上がった。


「いえ、わたしたちも今来たところです」


 今日はありがとうございます、と伊藤と同じ挨拶を藤代にもした後で、依子は彼らを先導した。今日の店は依子が予約をとっている。それは道玄坂の途中にある英国風パブだった。店に着けば藤代は「へー、珍しいチョイスだね」と興味深そうに笑った。


「昼間から飲めた方が良いかなと思ったんです」


 本当は酒が入らないうちに言えれば良いのだが、という思惑は飲み込み依子は笑う。加えて、この店ならば他の客で混雑していても、自分たちの会話は大して関心をひくことはないだろうと思った。何度か来たことがあるが、店内では何かしらのスポーツ中継が流れ賑やかだし、まわりに関心を払うことなく自分たちの時間を楽しむ客が多いような印象があった。

 地下へと続く階段を抜ければ、薄暗い店内は既にぽつりぽつりと昼間から酒とスポーツ観戦を楽しむ人々がいた。店内のモニターでは外国のサッカーの試合が中継されている。


 依子たちは奥の方のローテーブルの席に案内された。まだ近くに他の客はいなかったから、それこそちょうど良い。依子は手前の椅子に座り、藤代と伊藤に奥をすすめれば、彼らは素直にそれに従った。二人が並んで座る光景は初めてで、それは少し緊張を生み出すものだった。


「せっかくだし、普段飲まないビールにしよっと」


 どこか浮足だった様子で藤代がハイネケンを選び、伊藤はギネスを選んだ。依子はシャンディガフにして、つまみにはフィッシュ&チップスを頼む。

 そしてまずは乾杯をして一口酒を流し込んで、依子はいよいよだと妙な高揚感に包まれるのを感じた。身体がこわばっているのは、恐れを抱いているからだろう。


「……無理しなくていいよ」


 不意にかけられた言葉にはっと顔を上げる。藤代は薄ぼんやりとした照明の中で、微笑んでいた。


「言いにくいのは分かってるから、蓮見が言えそうになったら俺達に教えてくれたらいいよ。それまではのんびり酒を楽しんでるからさ」

「そうです。無理は禁物です」


 伊藤にも穏やかな調子で言われ、依子はうなずいた。もう一度酒を飲んで、手のひらを握り締める。


「……いえ、今言います。二人とも、長い間待たせてすみませんでした」


 これを言ったらもう戻れない。

 その重圧で胃の中身が逆流しそうなほどに気持ち悪い。けれど言わなければ、この胸のつかえはとれない。依子は決心とともに藤代と伊藤を順に見て、頭を下げた。


「ごめんなさい。二人の気持ちには応えられません」


 沈黙が落ちる。

 店内のサッカー中継の音声がやけに響く気がした。客同士の会話が遠くで波の音のようにさざめいている。

 依子は息を吸って顔を上げる。藤代も伊藤も真顔で依子を見つめていた。


「……この三週間ずっと考えてたんです。でも結局答えなんて出ませんでした。二人ともわたしにとっては大事な存在で、どちらかを選ぶことはできなかったんです。……きっと無理やりどちらかを選んだとしても、きっともう一方に未練を残してしまうと思います。だから……本当にごめんなさい」


 ここで責められても仕方ないと、依子はその覚悟をしてきた。

 いっそ責めてくれた方が楽になるのかもしれないと思うほどだった。

 三週間考えて、こんな結論しか出せない自分が本当に嫌だったが、それでもどちらも選べなかった。

 藤代を選んで、伊藤を失いたくない。

 伊藤を選んで、藤代を失いたくない。

 それならばいっそ二人とも失ってしまった方が良いのかもしれない。

 この結論を聞いて香織は悲鳴をあげたが、もうそれしかないと依子は思った。二人を不幸にして、自分も不幸になる。それが似合いの結末だと。


 歯を食いしばり、二人の反応を待つ。その間が途方もない長さに感じる。

 遠くのサッカーの試合では、どちらかにゴールが入ったようだ。テレビからの歓声と、客からの歓声が迫ってくる。


「……蓮見さん、顔をあげてください」


 伊藤の落ち着いた声に導かれるように、目線を自分の膝から伊藤へ上げる。伊藤は真面目な表情のまま、依子に聞いた。


「前に蓮見さんと似たような話をしたこと、覚えてますか? 藤代さんと俺と、どちらを好きかわからないって言ってた時です」

「……うん、覚えてるよ」

「でも今は、藤代さんと俺と、どちらも好きだって気付いたってことですか?」


 その質問に即答はしかねた。

 うなずいて良いのだろうか、と迷いがよぎる。

 苦し紛れに藤代を見れば、何故か彼は笑いをかみ殺すような表情になっていた。


「……伊藤君て何だか教師みたいに質問するよね」


 吹き出しそうになりながら藤代が言えば、伊藤は眉をぴくりと動かして彼を見返した。


「どういう意味ですか」

「堅苦しいってことだよ」

「……大きなお世話です」


 明らかに憤慨した様子の伊藤を気にも止めず、藤代は依子に微笑みかけた。


「蓮見の気持ちは分かったよ。俺達のこと両方好きだから、両方手放したいってことでしょう? その方がお互いのためって言いたい感じ?」

「……そうです」


 藤代は依子の言葉を聞いて、満面の笑みを浮かべる。何故このタイミングで……といぶかしむ依子に、再度笑いかけ「だったらいいじゃない」と軽く告げた。


「このまま三人で付き合っちゃおうよ」


 こともなげに言い放ち、藤代はハイネケンをぐっと飲み干した。


「ほ、本気ですか!?」


 伊藤も驚いた声をあげる。そしてもちろん依子も、驚きで声を失っていた。

 ただ一人藤代だけが、ひょうひょうとした様子でつまみにも手を伸ばしている。


「え? もちろん本気だよ。だって、俺達は蓮見を好きで、蓮見も俺達を好きなんでしょ。だったら別に離れる必要ないんじゃない?」

「……普通、あると思います」

「いいじゃん。別に全員未婚なんだから。お互いが良いならそれでいいでしょ」

「でも……でも……」

「あのね、自分を好きだって分かってるのに、手放すなんてできるわけないでしょ。そんなのこっちだって未練が残るっての。ねぇ伊藤君」


 藤代に視線を向けられ、伊藤はさほど間をとることなく同意を示した。


「……まあ、確かに、それはそうです」


 その言葉を聞いて藤代は更に勢いづいて、依子の方に心持ち身を乗り出してくる。


「それに蓮見だって、本当にそれで良いの? 両想いってわかってるのに離れる方が、絶対後を引くよ」


 藤代の言葉は依子の芯をとらえた。そんなこと言われなくても分かっている。本当は離れたくなどない。けれど、たとえ一時の感情で今藤代の申し出を受けたところで、未来を描くことができない。

 そう、依子は『まだ見ぬ未来』のために『現在』を犠牲にするのだ。

 そうすればきっと『幸せな未来』がつかめるかもしれないという、可能性に賭けた決断だった。それがどんなものなのかは、まるでイメージはできなかったが……。


「だから、とりあえず付き合ってみようよ。それで駄目なら別れよう。ほら、よく言うでしょ。やらずに後悔するよりは、やって後悔した方が良いって」


 そんな前向きに考えられたら、こんなにも悩んだりしない。

 依子は藤代の言葉に揺れる自分を感じながらも、それでも首を横に振った。


「……怖いんです」


 小さな声で呟き、依子は二人を交互に見る。


「藤代さんの言うように、例えばこのままの関係でいるとしたら、わたしきっと二人に甘えっぱなしになります。そうすればそうした分だけ、別れがつらくなる……」

「別れなければ良いでしょ」

「そんなこと分からないじゃないですか!」


 悲痛な叫びは、店の喧騒に吸い込まれていった。いやいやをする子供のように、依子は首を横に振る。話しだして気付いた。自分は二人を手に入れて失うことを、本当に恐れている。


「……蓮見さん」


 うなだれる依子に、伊藤が声をかける。その声色の優しさに泣きそうになりながら「……はい」と依子は視線は返さないまま答えた。


「蓮見さんの気持ちは分かります。失うことが怖いのは、誰でも同じです。……俺だって怖いです。でも、俺も藤代さんが言うように、蓮見さんの気持ちがこちらに向いているなら諦めたくありません」


 顔を上げられない依子を気にすることもなく、伊藤は「だから……」と彼らしい提案をした。


「まずは三カ月、試してみませんか。お互いが苦しくならないように、負担にならないように気をつけながら、付き合ってみませんか。それでもし蓮見さんが良ければ、また三カ月続けてみましょう。そうするうちに何かが変わるかもしれません」


 まるであの時と同じ提案に、依子は顔をあげて伊藤を見つめた。伊藤の表情は相変わらず真面目なもので、その強い視線に射抜かれて依子は困り果ててしまう。

 藤代だけでなく、伊藤からも願われれば、段々と依子の中の天秤が傾いてしまう。

 もう迷いたくなかった。悩みたくもなかった。なのに、二人によって閉じた心がこじあけられていく。本心をさらしてしまえば、後戻りはできないというのに。


 おそらく依子の迷いを感じ取ったのだろう。藤代が言った。


「蓮見の正直な気持ちを教えてよ。俺達はこんなにあけっぴろげに言ってるんだから。俺達への罪悪感とか世間体とか、そういうの抜きにして蓮見自身はどうしたいか言って」


 進退極まり、依子の背を冷たい汗が一筋流れる。そんなこと聞かないで欲しい。言わせないで欲しい。

 なのに藤代は笑顔で依子に迫るのだ。


「大丈夫。何か不安なことがあったとしても、全部うっちゃってあげるから」


 大言壮語。そう言いたい。

 なのに、それにすがりたい。

 いやだと首を横に振りながらも、依子の喉元では今にもこぼれそうになる想いが暴れていた。閉じ込めた本当の心が、行き場を求めている。


 本当は、二人を離したくない。


「……俺達のこと、好きでしょう?」


 喉もとに刃をつきつけられているみたいだ。依子は絶望的な気持ちで藤代を見つめた。彼はもう笑っていない。そこにあるのは、真摯に自分を求める光だけだった。次いで伊藤に視線を移せば、彼も同じ目をしていた。

 

 自分を強くもとう。

 今日何度も言い聞かせた言葉が、舞い降りてくる。

 そして、依子は一筋の涙をこぼしながら、小さくうなずいた。

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