30
日曜日の午後一時過ぎ。伊藤は最寄駅前の案内板の脇に立つ依子を見つけ、信じられない思いを抱きながら彼女の元へ走った。依子は伊藤を見つけると微笑み「ごめんね、突然……」と柔らかな声で伝える。
「おみやげ、渡したくて」
そう言いながら、依子は手に持っている紙袋を持ちあげて見せた。伊藤は息をきらせたままそれに目を落として、再び依子に視線を戻す。彼女は困ったように笑って、ハンカチを差し出した。
「走ってくることなかったのに」
走らないわけがない。
伊藤は心の中で即座に反論したが、それはおくびにも出さず恐縮しながらハンカチを受け取った。それで汗だくの額をふかせてもらえば、柔らかい香りがほのかに漂ってくる。それは以前感じたことのある、彼女の香りだった。
――あの飲み会から一週間。その週末、伊藤は悩んだ末に依子に連絡をとれなかった。会いたい気持ちはあったが、それが彼女の負担になったら……という不安が伊藤を躊躇させていたのだ。
あの日悠季が言った言葉は、伊藤の深いところをえぐった。
伊藤は自分が素直に依子へ気持ちを伝えていることを自覚していたし、それに彼女も戸惑いながらも応えてくれていると思っていた。
近づいたと思った距離は、自分の錯覚だったのだろうか。
つないだ手のぬくもりも、身体の柔らかさも、一瞬でも手に入れられたと思ったのは夢か幻か。
まるで引き潮のように、急激に伊藤の中で彼女が遠ざかっていく。
それに手を伸ばして良いのか、待てば良いのか、判断がつけられなかった。
その矢先。暑いからという理由で家に引きこもって、先日買ったばかりの新刊小説を読んでいたところに依子から電話があった。
『今、伊藤君の最寄駅にいるの』
そう言われて、伊藤は心底驚いた。依子がこんなふうに急襲するなんて、考えたこともなかったのだ。あわてて駅まで走りながらも、心のどこかでは信じていなかったくらいだ。だから本人の姿を見つけた時の衝撃は大きかった。
依子のハンカチに多量の汗をしみ込ませた後で、伊藤は「すみません、洗って返します」と自分のバッグにそれを入れようとした。しかしそれを依子は止める。
「いいよ。大丈夫」
「でも……」
「いいの」
依子にしては強い口調でそう言い切り、半ば無理やり伊藤の手からハンカチを取り戻す。その一連の流れで、不幸にも伊藤は気付いてしまった。
ハンカチを洗わせないということは、それを返す機会が訪れないから。きっと彼女は別れの挨拶に来たのだ、と。
その絶望感に、一瞬で汗が引いていく。
晩夏にさしかかったとは言え、日差しはまだ突き刺さる。その眩しさに目を細めたふりをして、伊藤は一度だけ眼鏡をはずし目頭を押さえた。
「せっかくだし、伊藤君が良ければお茶でも行かない? このへんに何かお店あるかな?」
依子の申し出に伊藤は眼鏡をかけ直し、平静を装ってうなずいた。彼女がそういうつもりで来たならば、自分はそれを受け止める義務がある。伊藤の中で覚悟という名の静かな炎が燃え始めた。
「……そうですね、その先にあるコーヒーショップかドーナツ屋くらいなものですけど、どっちが良いですか?」
「じゃあドーナツ屋にしよう。久しぶりにドーナツ食べたい」
無邪気に笑う依子につられて伊藤も微笑み、ドーナツ屋へと向かう。お昼時で店内は混み合っていたが、カウンター席があいていたのでそこに座った。お互いドーナツを一つとアイスコーヒーを頼み落ち着けば、依子は手に持っていた紙袋を伊藤の前に置いた。
「……これ、帰省のお土産だったはずのもの。あんまり日もちしないから、早めに食べてね」
女性らしい華やかな装飾が施された化粧箱を開けると、そこには彩り豊かなマカロンと小ぶりなタルトが詰め合わされていた。
「地元で好きなケーキ屋さんの焼き菓子なの。伊藤君へのお土産はこれしかないと思って香織に頼んだんだ」
地方土産っぽくないんだけどね。
そう言いながら依子は笑う。それに伊藤は微笑み、箱の中から橙色のマカロンを取り出した。鮮やかな色のそれは夏の太陽を想起させる。
「美味しそうですね、これ」
「うん。オレンジ味だよ。さくっとしてて美味しいの」
「食べるのが楽しみです。ありがとうございます」
「……良かった、喜んでもらえて」
依子はほっと息をついた後、表情に悲しげな色を浮かばせた。チョコのかかったドーナツにふれたまま、伊藤の顔を見る。
「ごめんね、伊藤君。嘘のこともだけど、メールの返事もずっとしてなくて……」
「いえ、いいんです。そんなふうに気にしないでください」
笑ってみせても、依子の表情は変わらない。今にも泣きそうに見えて、ドーナツ店の明るい雰囲気とざわめきがどこか遠くに感じられてくる。その時ちょうど空席だった伊藤の隣に客が来て、依子は我に返ったかのように表情を動かした。
気がそれたのをいいことに、伊藤はマカロンを箱にしまい、再び微笑む。
「蓮見さん、ずっとさわってるとチョコとけちゃいますよ」
軽い調子で指摘すれば、依子は「そうだね」と軽く笑ってドーナツを頬張る。とりあえず話の腰を折ることができたことに伊藤は内心で安堵しながら、自分もドーナツを食べることにした。
先延ばしにしてもどうしようもないということを知りつつ、それでも一緒にいられる時間を引き延ばしたい。
こんな女々しい自分を、その日伊藤は初めて知った。
彼女に言わせてあげなければ。
ドーナツ屋を出てから、伊藤はそればかり考えていた。少し散歩でもしていきませんかと誘えば、依子はほっとした表情でうなずく。そうして大通りから閑静な住宅街へと進路をとり、ゆったりとしたスピードで歩けば、やがて依子はぽつりと伊藤の名を呼んだ。
「勝手なお願いなんだけど……少し時間をくれませんか」
それは伊藤の予想していた言葉とは少し違うものだった。てっきり『藤代さんを選ぶから、もうあなたとは会わない』と言われるとばかり思っていた。
その驚きに気をとられて、伊藤の反応が少し遅れた。
依子はそれを気にしたのか「……本当に自分勝手でごめんね」と一段階暗いトーンで呟く。
「あ、いえ、違うんです。嫌だと言うわけじゃなくて、ただ驚いたというか……。蓮見さんはあの人を選ぶんだろうって思っていたので」
正直に告げれば、依子は立ち止まって伊藤を見上げた。憂いを帯びた表情で、依子は首を横に振る。
「正直、もう自分で自分がよく分からないの。離れて考えてそれが見えてくるのかどうかも分からない。……でもこのままじゃ、ずっとだらだらと伊藤君も藤代さんもつなぎ止めちゃう気がするから」
本当にごめんね、と依子は謝った。
伊藤はそれに「いいんです」と穏やかな声音で返す。
「松本さんが言ってたこと、身にしみました。思えば、確かに俺は自分の気持ちばかりで、蓮見さんの気持ちを尊重してませんでしたよね」
薄く笑って言えば、依子は「そんなことない」と力強くそれを否定した。
「伊藤君はいつだってわたしに優しくしてくれたよ。それにずっと甘えてたの。悩んでたのは本当だけど、伊藤君のせいじゃない。だからそんなこと言わないで……」
悲しくなるから、という吐息に近いささやきを耳が拾う。そうしたら止まらなかった。依子の手をつかみ強く握りしめる。はっと彼女が顔を上げたのを、伊藤は熱いまなざしで見つめ返した。
「……好きです。だから待ってます。蓮見さんが自分で納得できるまで……。でも、悩みすぎてつらくなった時には頼ってください。お願いします」
何をどう伝えれば、彼女を悩みから引き上げられるのか。
伊藤には何も分からない。
けれど、自分ができることはしてあげたい。それが自分との別れにつながる道を示すことになろうとも。
きっとこういうふうに考えることが、誰かを想うということなのだろう。
先ほど自分の中に生まれた炎が熱く大きくなるのを身の内に感じながら、伊藤はしばらく依子の手を離そうとはしなかった。




