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『ありがとう、悠季。もう大丈夫だから』
他の誰にも聞こえないよう小さな声で依子が告げた言葉は、悠季の尖っていた心を包み込んだ。依子はまだ泣き疲れた顔のままだったが、それでも悠季に有無を言わせない強さと光がその目に宿っている。
もう良い。きっとそういうことなんだ。
あたしができることは、もうないのだろう。
そう悟った悠季にできることと言えば、無理をしてでも笑ってうなずいて見せることだけだった。
結局、何ができたのだろう。この三人の関係に斬りこむつもりだったから、最初から強めの言葉を使った。けれどわかりやすい挑発に心乱されたのは伊藤だけで、しかも彼は口を閉ざしたままだった。そして藤代の方からは軽くあしらわれてしまった、という感想しかない。
……あたしもまだまだ浅はかだったってことね。
自嘲気味に自分を断じて、悠季はそこで頭を切り替えることにした。景気づけにビールを飲み干せば、ほどよくアルコールが体内を巡る。その心地いい感覚に身をまかせれば酔えそうだったし、この場を少しは楽しめるような気がした。
悠季から毒気が抜けたことに皆が気付いたのか、それからの飲み会は穏やかな調子で進んでいった。早田がいつもの調子を取り戻して様々な話題を振りまき、場を盛り上げる。どうも彼と藤代はウマが合うのか会話も弾み、そのおかげで大分場の空気も明るくなった。
最初の始まり方が険悪だっただけに、手放しで皆が楽しめるような感じではなかったが、それはもう仕方がないことだ。
コース料理も酒も無難に楽しみ会計を済ませて店を出た時には、口にしこそしないが誰しもがほっとした表情を浮かべていた。全員が店から出てきたところで悠季が依子の様子を伺えば、彼女もちょうど悠季に視線を向けたところだった。視線が交差し、同時にお互い笑みをこぼす。先に口を開いたのは依子だった。
「ね、この後お茶して帰らない?」
その申し出を断る理由なんてない。悠季も依子と話したいと思っていた。
「あたしも同じこと言おうと思ってた」
とうなずけば、依子は顔をほころばせた。善は急げと男三人に別れを告げれば、三人とも得心したようにうなずく。
「じゃあ俺達は次の店でも行っちゃう?」
藤代の冗談を背中に聞きながら悠季と依子は歩き出し、手近なコーヒーショップに入った。お互いコーヒーを頼み、ブラックのままそれを一口飲めば、何だかどっと疲労感が身体をおそった。
気を張っていたのだから、その反動くらいくるか。
悠季は苦笑いして、その顔のまま依子を見つめた。
「今日はごめんね」
悠季は謝りながら軽く頭を下げ、依子が口を開くのを目線で制し、その先を続ける。
「勝手に帰省のこと言ったりとか、あと、他にも多分色々言いすぎた」
それに対して、依子は首を横に振って微笑んだ。
「そんなことないよ。悠季がわたしのことを心配して言ってくれたのはよく分かってるし、帰省のことは悠季が言わなくても多分わたし自身が言ってたと思う。……むしろ、色々と悠季に言わせちゃってごめん」
その笑顔に悠季は胸が詰まった。人が良すぎるよ……と心の中だけで呟き、悠季は笑った。
「……ありがとう」
「ううん。わたしこそありがとう」
きっと藤代も伊藤も、依子のこういう部分に惹かれたのだろう。彼女の優しさは温かく、それに包まれた時の心地良さは心にしみる。
悠季も今一度それをかみしめながら、コーヒーを飲む。そして深く息をついて、しみじみと呟いた。
「あの二人、本気だったね」
実は今日実際に会うまでは、悠季は藤代のことを誤解していた。依子に決めたと言っても気まぐれなもので、吹けば飛んでしまう程度の気持ちだと思っていた。けれど、微笑みながら悠季を追い詰めてきた藤代の目には、依子を守ろうとする意思の強さがあった。それを見せられれば、認めざるを得ない。
伊藤が本気なのは元々知っていたから、これは厄介な三角関係だと思った。きっと男二人はどちらも自分からは引かないだろう。依子がどちらかを選ぶことだけが、この関係を崩せるきっかけになる。
依子は笑いたいのか泣きたいのかわからない微妙な表情で「そうだね……」とうなずいた。
「だから、しっかり選ばないと……」
「……そうだね。二股って長くなればなるほど辛くなるものだからね」
妙に実感がこもる言い方になったのは、悠季自身の過去の経験からだった。今の依子のように、男二人から想われていた社会人一年目のある季節。その頃の悠季は罪悪感を持つこともなく、二人同時に付き合っていた。
それを思い出しながら、悠季は優しく声をかける。
「二人と一緒にいればいるほど、どっちにも情が移るでしょ。それで離れられなくなって、でも何かをしようとしたらどちらかを選ばなくちゃいけない。いざ決断できたとしても、情が深い分切れなかったりしてさ……」
依子は黙って悠季の話を聞いていたが、やがて納得した表情でうなずいた。
「……そうかもしれないね。だって今ですら、どっちかを断ること想像できないもん」
そうして表情を少し曇らせた後、依子はおずおずと上目遣いに悠季を見た。
「悠季もそんな経験があるの?」
そう問われてうなずく。依子には言ったことのない話だった。黙っててごめんねと一応断りを入れてから、悠季は口を開いた。
「一昨年のことかな。会社の同僚と合コンで知り合った人とで二股かけてたんだけど、途中でばれてもう修羅場よ。壮絶だったわ」
おどけて話せるほどには過去になった話でも、その当時は本当に辛かった。鈍い痛みが思い出せとばかりに胸をつついてきたが、それを無視して悠季は笑う。依子はしかめ面のままだったが、「大丈夫」と悠季は明るい表情で応えた。
「まあ依子の場合は藤代もよっちゃんもお互いの存在を知ってるから、あたしみたいな修羅場にはならないだろうけどね。でもやっぱり色々な意味で危険な関係だよね」
「……危険……」
「うん。例えば子供とかさ。もし、もしもだよ。依子に赤ちゃんできたら、どっちの子か、とかさ」
この言葉は依子にとっては寝耳に水だったらしい。驚いた表情で悠季を見て、すぐに「……そっか、そうだよね」と小声で呟いた。
「いや、まあ、これはもしもの話ね。万が一だよ」
「うん……でも、そうだね。そういうこともあり得るんだよね」
押し黙る依子を眺めながら、悠季はコーヒーを口に運んだ。苦い喉越しが、己の苦い思いも流しこんで腹の奥へ押し込めてくれることを祈る。
そのまま依子はしばらく無言のままだった。
気付いて欲しい。
夢を見られるのは、限られた時間でしかないことに。
いつかは無理にでもどちらかを選ばなくてはならない日がくることに。
言えない言葉を飲み込んだまま、悠季は依子を見ないようにしてコーヒーにポーションミルクを足した。かき混ぜる波紋を眺めながら、祈るように願っていた。
依子の表情は陰ったままだ。
◆
あのごたごたした飲み会の翌週の金曜日。少しの迷いを隠して、藤代は依子を平吉に誘った。普段通りを心がけてメールを送り、彼女がいつものように承諾の返事をくれた時には嬉しさに声が出そうな程だった。それこそ足取りも軽く、藤代は嬉々として平吉へと向かった。
依子は一度帰宅してから平吉にやってきた。その手には大きめの紙袋があり、乾杯をすませて早々に彼女はそれを出してくる。中身は依子の地元の県花をかたどったサブレと辛口の清酒だった。以前どこかの居酒屋で飲んだことのあるそれは、美味しかった記憶があるものだ。
「……渡そうか迷ったんですけど、せっかくなので……」
言いながら依子に上目で見られ、藤代は満面の笑みを作った。
「ありがとう。もちろんいただくよ」
その藤代の様子にあからさまにほっとした表情をして、依子も微笑んだ。
「良かったです。藤代さん、辛口いける方でしたよね?」
「うん。好きだね。しかもこれ飲んだことあるよ。すごく美味しいよね」
「ほんとですか」
それはそれは嬉しそうに依子が笑うから、藤代は調子に乗って「今度俺の家で一緒に飲もうよ」と軽く言ってみた。
すると、一瞬にして依子の表情が変わる。
困った表情は最近では見慣れてきたものだが、藤代の胸に一抹の寂しさがよぎった。隙間風のような冷たいそれに、藤代は笑顔でもって制しようとした。
気のせいであってくれ。思いすごしであってくれ。
この困った笑顔から次に放たれる言葉が、予想から外れてくれますように。
「……あの、藤代さん」
「ん?」
「来て早々言うのもどうかと思うんですが……しばらくの間、わたしに時間をくれませんか」
あーあ、当たっちゃった。
天を仰げど、そこは薄暗い居酒屋の低い天井と和紙に包まれた照明が目につくだけだ。すぐに視線を戻せば、依子は口を一文字に結んでいる。その緊張した顔を落ち着かせるように、藤代は「いいよ」とうなずいた。
「そうしたいんだろうなと思ってたよ」
そう伝えれば依子は目を見開いた。そしてすぐに申し訳なさそうに表情を陰らせる。
「優柔不断で本当にすみません。でもこうやって会っていたら、決めきれないままずるずる流されちゃいそうで……」
「俺は流されて欲しいくらいだけどね」
冗談になるように笑って言えば、依子は困った表情に拍車をかけた。だから藤代は本心を隠して笑った。不自然にならないように、細部にまで気を遣った笑顔で「わかったよ」と言ってやる。
「今度は俺が待つ番だね。大丈夫、一年くらいなら待ってあげるよ」
「そんなには待たせません!」
依子はあわててそう言い募る。その必死な様子がおかしくて、ほんとに真面目なんだからと藤代は苦笑いした。
「あ、そう? まあ焦らず気長にね」
軽い調子で言いながら「じゃあ今日は大いに飲まないとね」と依子にメニューを渡す。
「付き合ってもらうよ~」
そう笑ってみせれば、依子は安心したような笑顔を見せて大きくうなずいた。彼女は彼女で自分のことを惜しんでくれているのだと感じられ、藤代の心が満たされる。
けれどそれは一瞬のことで、すぐに喪失感が訪れた。
もっと早くに前の彼女と別れていれば、今頃彼女を手に入れることができたのだろうか。自分の気持ちに気付いた時にすぐに行動に移していれば、彼女は自分を選んだくれたのだろうか。
今更すぎる後悔に胸を焦がしても意味はない。そうわかっていても、問わずにはいられない。
もしもこの先彼女に選ばれず、別れる日がくるとしたら、自分は一体どうなってしまうのだろう。
その想像は恐ろしすぎて、藤代の心をどす黒く塗りつぶす。
それを必死で追いやって、藤代は酒肴を選ぶ依子の顔を眺めた。
この想いが報われるのならば、きっといつまでだって自分は待つことができる。
けれど、この先に別れが待っているのならば、できるだけ早めに息の根を止めて欲しい。
寄る辺のない願いは宙を漂い、藤代の表情を一度だけ曇らせた。




