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どうしてこうも鈍感なのだろう。
悠季は、伊藤が依子の気持ちをまるで推し量れていないことに憤慨していた。
依子をあんなに悩ませておいて、『大事にしている』なんてどの口が言えるのか。自分の気持ちを押しつけるばかりで、まったく依子のことを考えていない。
その怒りに身をまかせ、次に早田に電話をかける。ちょうど渋谷で同僚と軽く飲んでいるところだと言う彼を、新宿に呼び出した。
「え? 今から? もう十時過ぎてますけど……」
「終電までまだ二時間もあるよ」
「いやいや、俺明日も仕事だし……」
「いいから! よっちゃんの思い悩む理由が分かったんだから! 緊急事態なの、来て!」
悠季の剣幕に押されのか、「はいぃ」と情けない声で早田が答え、三十分もしない内に彼は悠季の元へやってきた。それを宜しいと微笑みうなずいて、彼を大衆居酒屋へと誘導する。
「悠季さんてば、強引すぎ……」
ぼやく早田の言葉は、華麗に黙殺した。
そしてビールを飲みながら、依子と伊藤と藤代のみつどもえについて語れば、早田は目を丸くして「まじすか……」と呟く。
「よっちゃん、やるなぁ」
「ちょっと、そういう感想いらないから。ていうか全然だし。何なのあの朴念仁」
「ぼ、朴念仁て……」
最初からフルスロットルの悠季に、電車に乗る間に酔いがさめたのか、早田は少し引き気味だ。それでも早田はおずおずと悠季に声をかけた。
「一応よっちゃんのフォローをさせてもらいますけど、蓮見さんのことを何にも考えてないってことはないと思いますよ」
「……なんでよ」
悠季の視線に早田は多少目を泳がせながらも「いや、だってですね」と続ける。
「よっちゃんて、空気を読まない時もあるけど、基本は優しいんですよ。相手を尊重できる奴ですし。多分、蓮見さんが嫌がるようなことはしてないんじゃないかなぁ」
「でも、それでも……ヤッたら依子が傷つくとか思わなかったわけ?」
「いやそこまではわかんないですけど……。でも、蓮見さんがつらくなるようなことを進んでする男じゃないとは思います」
早田の言葉は、信頼関係のある友人としての重みがある。大学時代ずっと一緒に過ごしてきた中で生まれた絆。それは悠季と依子が積み重ねてきたものを同じ性質のものだ。
「……これは俺の予想なんですけど、よっちゃんが蓮見さんが悩んでることに気付かなかったのは、蓮見さんが気付かせなかったからなんじゃないですかねぇ」
その言葉に、悠季ははっと瞬きをした。
早田はのんびりとビールで唇を湿らせてから、「そんな気しません?」と悠季にたずねる。
「蓮見さんって、つい相手に合わせちゃいそうじゃないですか。よっちゃんと会ってる時に、悩んでる姿を見せたら悪いとか思いそうというか……」
「……確かに、そういうとこある」
茫然と呟けば、早田はにこりと笑った。
「そういう人ってためこんじゃいますもんね~」
早田の指摘はその通りだった。依子は、どうでもいい悩みはすぐに話す割に、深刻になればなるほど隠そうとする。今回もそうだとしたら、彼女はずっと伊藤と藤代の前では言えない悩みを抱えていたということなのだ。そしてきっとこれから先も、ひた隠しにしようとするだろう。いつまでもそんな状態でいたら疲弊するばかりで、自分の想いの向く先に気付くこともできないのではないだろうか。
「……もうこれは、三人での話し合いが必要ね」
低く落とした呟きに、早田は「えぇっ!?」と大げさなほどに驚いた。そこまで驚くこと? と悠季は彼を一瞥し、うなずく。
「だって、このままじゃいつまでたっても埒があかないでしょ」
「いやー……でも会ったからって解決するもんでもなくないですか? 修羅場になって終わりそうというか……」
「それを止めるのが早田の役目よ」
「はぁっ!? 俺も行くんですか!?」
「当たり前でしょ。誰が調整役やるのよ。大丈夫、あたしも行くし」
「いや、いやいやいやいや、リスク高すぎですよ!」
「大丈夫。早田ならできる」
「なんすか、その妙な自信!」
しばらく早田はわめいていたが、悠季はすべて聞き流した。三人が出会うことで、何がどうなるかは分からない。けれど悠季は男二人に知らしめてやりたかった。彼らの想いが、依子を苦しめていることを。
そして依子には、それでも二人と向き合って欲しかった。
「お願い早田、協力して。早田がいないとできないことなの」
願いをこめて早田を見れば、彼は口を真一文字に結び、うなりながら髪の毛をかきまわした。もともとのゆるいパーマが、少し乱雑になったところで「わかりましたよ」とふてくされた声で返事がくる。
「……いいですよ。協力します。俺だってよっちゃんのことも蓮見さんのことも心配は心配ですしね」
口をとがらせる早田に、悠季は微笑んだ。
「ありがとう」
そう伝えれば、早田は困った顔で笑い「お礼にキスの一回でもしてくださいね~」とおどけてみせる。それに悠季は笑いながら身を乗り出して、デコピンをしてやった。
◆
お盆の週の日曜日。つまり夏休みの最終日。
日がとっくに昇った後も、藤代は惰眠をむさぼっていた。借りてきたDVDを観始めたら止まらず、眠りについたのが夜が明ける間際だったのだ。うっすらと目覚めて外の明るさを確認できても、まだまだ眠りたいという気持ちの方が強かった。
そうして心ゆくまで眠りを楽しんで起きた時には、午後の一時を過ぎていた。
明るいというより眩しい日差しに目を細め、藤代は依子のことを思い浮かべた。そろそろ帰りの新幹線に乗る頃だろうか。
藤代の頼んだものは、きちんと買ってきてくれているだろうか。
その時のやりとりを思い出し、藤代は一人微笑んだ。
会社規定のお盆休みに有給をつなげるかどうかは、個人の自由である。藤代は例年はそうせずに月初や月末などに有給を使って夏休みを作っていた。けれど今年そうしなかったのは、依子に合わせたからだ。
彼女がお盆とつなげて九連休にすると言ったから、藤代もそうした。せっかくだからどこかに一緒に出かけたいと思っていた。
その矢先に『帰省する』と言われて、がっかりしないわけがない。
大げさに肩を落とした藤代に、焦ったように依子は言った。
『お土産買ってきますから』
その言葉に藤代は息を吹き返し、『じゃあ銘菓と地酒をお願いね』と頼んだのだ。
『地酒ですか?』
戸惑う依子に藤代は『だって蓮見の実家の方って酒蔵多いでしょ』と返せば、『そうですけど……』と困ったような表情をする。
『大丈夫、俺日本酒なら何でもいけるクチだから。そっちのお代はしっかり払うから、奮発してきてもいいよ』
それでもなお依子は渋っていたが、藤代が最終的には押し切った。どんな銘柄でも、どんな味でも、依子が選んでくれるならば何でも良かった。
それを口実に部屋に誘うのも良いな、なんて邪な考えも抱いていると、ちょうど携帯電話が鳴った。しかも着信の相手は依子である。
もしかして酒選びに困ってるのかなぁなんて笑いながら電話をとる。
「もしもし」
「あ、もしもし。蓮見です。今大丈夫ですか?」
「うん大丈夫だよ。もうこっち戻ってきたの?」
「……あ、はい……あの、突然なんですけど、今日の夜あいてますか?」
それは本当に突然の誘いだった。そして初めての誘いだった。
「あいてるよ。あいてるけど……どうしたの? 明日会社だし、早めに休まなくて平気?」
「はい、大丈夫です。実は……二人じゃなくて……えーと……」
依子の声がどんどん尻すぼみになっていき、語尾もあやしくなる。言いにくいことを言わなくてはならないという雰囲気がこれ以上ないくらいに伝わってきて、藤代は苦笑いしながら助け舟を出すことにした。
「なに? 二人じゃないってことは、誰か他の人も呼ぶってこと?」
「……はい、……わたしの大学時代の友達と……」
ここで依子は止まった。更に言いにくい人物名が控えているのだろう。彼女がここまで言い淀むとしたら、おそらく……。
藤代は何となく身構えながら、依子の言葉を待った。
「……前に話した、伊藤君とその友達なんですけど……」
やっぱりと藤代は思い、確かにそのメンバーじゃ依子は言い辛いだろうとも思った。彼女も本意ではないのだろう。声にそれがにじみ出ている。
どうして急にライバルと顔を合わせなくてはならないのだろう。全く会いたいと思えない相手なだけに、藤代は思い切り顔をしかめた。
しかし、か細い声の依子に対して、無下に断ることもできない。表情は険しいままだったが、声だけは優しく……と気を配って返事をする。
「それはまた不思議というか……妙な意図を感じるメンバーだね。俺はいいけど……蓮見は大丈夫?」
藤代の言葉に、依子からは沈黙が返ってきた。
あれ? と思い耳をすませば「……ありがとうございます」と小さな声が聞こえる。
そして「詳しいことはメールします」という言葉とともに電話は切れた。そこに残る『蓮見依子』の文字を眺めながら、藤代は小さく息をついた。
「……これは正念場かな」
言葉は言霊となって藤代の中にしみ込む。
武者震いのような震えを一瞬感じた後、彼は大きく伸びをした。
依子からメールで指定されたのは、新宿にある中華料理屋だった。何故中華……と思わないでもなかったが、席に案内されて納得した。がやがやとにぎわうテーブル席を抜けて、奥にある個室に入れば、依子と見知らぬ男女が円卓についていた。
なるほど円卓が良かったわけね。と笑みをこぼし、藤代は男性に視線を向ける。彼が噂の『伊藤君』だろうか。イマドキの若者然とした風貌は、依子からの話で作り上げていたイメージとは少しずれていて、藤代は首をかすかに傾げて聞いた。
「……きみが伊藤君?」
話しかけられた男は「いやっ、違います違います。俺は伊藤の友達で、早田と言います」と大げさな手ぶりで否定した。
「あ、そうなんだ。早田君ね」
了解と呟いて、藤代は女性に目を向ける。美人だなという第一印象以上に、気の強そうな眉が目についた。とは言えそんなことはおくびにも出さず、藤代は笑顔をつくる。
「はじめまして、藤代です」
いわゆる営業スマイルで挨拶すれば、女性は口の端を上げてそれに応えた。
「はじめまして、松本悠季です。今日は来てくれてありがとうございます」
物おじせずにまっすぐ向けられる視線は、やはり彼女の意思の強さを感じさせた。こういう強気な子、大学時代にもいたなぁと藤代は妙に懐かしく思い出す。
「えーと、それで、俺はどこに座っていいのかな?」
依子をはさむように早田と悠季が座っている。二人はさながら依子を守る騎士といったところだろうか。
「こっちへどうぞ」
悠季に隣の席を示され、藤代は素直にそれをしたがった。席について改めて依子の顔を見ると、不安そうな表情をしている。彼女は藤代が入った時からずっとそうだ。彼女の感じている恐れがどんな類のものなのか、藤代には分からない。けれど、そんな顔はしないで欲しい。願いをこめて微笑めば、彼女ははっとしたように瞬きを繰り返した。
「多分よ……伊藤もすぐ来ると思います」
そう言う早田の言葉にうなずき、先にメニューを見せてもらう。国産ビールもいいけど、せっかく中華なら向こうのビールにしようか……そんなことをのんびり考えていると、早田が「あ、よっちゃん」と声をあげた。
それを合図に振り向けば、個室の入口で固まる男が一人。
ああ、これが伊藤君か。
理知的な顔立ちに、すらりとした立ち姿。藤代のイメージ通りの男がそこに立っていた。
「……これは一体……」
困惑を顔に浮かべ、伊藤は藤代を見た。目が合えばどこか通じるところがあるのか、彼ははっとした表情に変わる。
「はじめまして、伊藤君。藤代です」
先に挨拶してみせれば、伊藤は「……はじめまして、伊藤です」と小さく会釈した。そうして最後の一席に座る。それは早田の隣であり、藤代の隣でもあった。
「今日の会はあたしが企画したの。ちょっと思うところがあってね」
伊藤が疑念を発する前に、悠季が先を制した。伊藤は無言で眉を寄せる。しかし何も言うことはなく、早田が渡すメニューに視線を落とした。
そしてまずは全員で酒を注文し、乾杯をすることにした。なんでもコース料理を頼んであるということで、酒とともに前菜も運ばれてくる。
「じゃ、乾杯」
盛り上がりに欠ける乾杯をした後、早速悠季が口を開いた。
「今日は急に呼び出したのに、来てくれてありがとうございます」
藤代に視線を向けた後、悠季は伊藤にもそれを移す。
「よっちゃんも。だまして呼び出してごめんね」
伊藤の呼び名が『よっちゃん』であることに多少の違和感を覚えながらも、藤代はビールを口に運んだ。もしかして依子も伊藤のことをそう呼んでいるのだろうか。……それは嫌だな、とはっきり思う。
そんなことを考えている内に、悠季の視線は広く藤代と伊藤に向けられていた。
「まず二人に言っておきたいことがあるんです。今週、依子は帰省してません」
いきなり何を言いだすんだろう。そう思いながら依子を見れば、彼女はうつむいている。そして小さく「……ごめんなさい」と呟いた。
「どうしてだか分かりますか」
ちょうどそれを考えようとしていたところに、悠季の声が割って入る。彼女は何故だか最初からファイティングモードのようだ。思考を邪魔されて藤代は小さく眉を寄せたが、すぐにそれを直してへらりと笑った。
「さあ。急に言われても分からないな。少し考える時間をくれる?」
最初からこの不穏な空気。
この飲み会、嫌な予感しかしないな、と藤代は小さく息をついた。