28
朝起きて、酒のせいではないと思った。通話履歴の一番上にある伊藤の名前が、依子の心を満たす。
次の日になって、一時の気の迷いでもないと思った。相変わらず心に伊藤が居座っている。
きっとそうだ。これが答えだ。自分は、藤代ではなく伊藤を選んだのだ。
それを証明するかのように、藤代を思い出せば鋭い痛みが襲ってきた。これから先彼を傷つけなくてはいけないことへの、恐れなのだと思った。
そして依子は自分を信じることにした。
「わたし、伊藤君のことが好き、かも」
新幹線に揺られながら依子が言えば、香織は一瞬怪訝そうな顔を見せた。そしてすぐに言葉の意味に気付いたようで、まるで立ちあがらんばかりの勢いで「本当!? 依ちゃん、わかったの!?」と詰め寄ってくる。
「……うん、多分。もう迷わない、と信じたい」
「な、なんかちょっと頼りないけど……でもいいよ。良かった、私嬉しいよ」
そう言う香織の目には涙が浮かんでいる。
そこまで!? と依子が驚けば「だって……」と香織は一粒の涙をこぼしながら笑った。
「だって、依ちゃん本当につらそうだったもん。でももうこれで安心。伊藤さんなら絶対大事にしてくれるよ」
「……うん」
伊藤に会いたい。
東京に着いたらすぐに会いに行きたい。そして心が定まったと伝えたい。今まで待たせてごめんと謝りたい。
……しかし、そう思いはしても、依子は伊藤には連絡を入れなかった。
伊藤に会うより先に、藤代とけじめをつけなければいけない。それは今から既に気を重くすることだったが、避けては通れないことだった。
「……依ちゃん?」
依子の表情が陰ったことに気付いたのか、香織の表情もつられている。それを見て苦笑しながら「ちょっと藤代さんのこと考えてたの」と言えば、香織は納得した様子でうなずいた。
「そっか。そうだよね……」
頑張ってね、という重々しい励ましにうなずきで応え、依子は買ってあった缶コーヒーのプルトップを開けた。
藤代への想いがなくなったわけではない。今まで向いていた気持ちを直ちにゼロにすることはできない。ただそれ以上に、伊藤を想っている自分がいる。それだけの話であり、それが恋愛においては一番大事なことだった。
缶コーヒーを飲みながら藤代を思い浮かべる。その表情は穏やかだったが、それが一層不安をかきたてた。
藤代には金曜日、酒が入る前に言おうと決めた。
毎週約束をしていない状態は相変わらずだったが、会うことは暗黙の了解になっている。今週もおそらくそうで、依子は藤代のあがる時間に合わせようとまで考えていた。
どう言おう。どう伝えよう。そんなことを日がな一日考えながら金曜日の仕事をこなす。しかし定時を過ぎて少し立った時、依子の目論見はもろくも崩れ去ることになった。
「西~、ちょっと良いかぁ」
不意に背後で聞こえた低いながらも陽気な声に、依子は背筋がぴんと伸びた。この声には聞きおぼえがある。一つ上のフロアにいる営業部長だ。快活で明るい人柄は、上層部の人間にしては話しやすい方だが、それでも緊張しないわけがない。
静かに振り向いて様子を伺えば、部長が課長の西の肩に手を置いているところだった。
「今晩暇だったら付き合わないか? なんか急に焼き肉食いたくなってさ~」
こう部長から誘われて断る人間を、今まで見たことがない。西は二つ返事で承諾し、それに嬉しそうにうなずいた部長は、次に藤代に視線を流した。
あ、まずい流れだ。そう思うと同時に「藤代も一緒にどうだ?」と、彼にも声がかかっている。
そこで依子は体勢を戻し、誰にも気付かれないように息をついた。
「あれ、俺も宜しいんですか? うれしいなぁ」
普段の口調で藤代が答えている。
これは困った事態になった。飲み会の後に呼び出されたとして、酔っている状態の藤代に話すことはできるだろうか。
大事な話だから、素面の時にしたいのに。
……どうしたものか。
依子はもう一度溜息をついて、片付けをすることにした。
その後、藤代からの電話は十時半頃にかかってきた。それに依子は最初出なかった。心を定めたならば、もうこういう形では会わない方が良い。寝てしまっていて電話に気付かなかったことにしようと思っていた。
しかし、その日の藤代はあきらめなかった。
一度止んだと思っても、まだすぐにかかってくる。
その着信が五度目になった時、耐えきれなくなって依子は電話に出た。
「……ごめんね、寝てたんだと思うけど」
そう前置きする藤代の声が、いつになくげっそりと疲れている。部長との飲み会で何かがあったことが察せられ、依子は息をのんだ。
これから平吉で会いたい、少しで良いから来て欲しいという藤代に、とうとう依子は「行けません」の一言が言えなかった。身支度を整えてリビングをのぞけば、香織は依子の姿を見て一度瞬きをした。
「これから出かけるの? ……藤代?」
「うん。仕事関係で何かあったみたいで、話を聞いて欲しいって」
だからってこんな時間に出かけるなんて。依ちゃんは伊藤さんを好きなんじゃないの?
眉をひそめた香織は、きっとこう言いたいのだろう。それでも何も言わずにいるのは、依子を信じたいと思っているからだろうか。
依子は薄く笑って「お願い、何も言わないで。分かってるから」と香織に願った。香織はしばらくの間困った表情のまま逡巡していたが、小さく息をついてうなずく。
「……わかった。気をつけてね。あんまり帰ってこなかったら電話するからね」
「うん。ありがとう。あんまり遅くならないようにするから」
そして依子はリビングを出た。最後まで香織が不安げな視線を向けているのに気付いたが、依子は振り向くことはしなかった。
心配をかけて申し訳ないと思いながらも、平吉への道を足早に進む。夏のぬるい夜風にあおられながら、軽く汗ばんだ状態で店に着けば、入口前で藤代が佇んでいた。依子を見つけて片手をあげた藤代の顔色は平常通りで、その表情も穏やか。けれどどこか違う。藤代の纏う空気がぼんやりともやがかっているように感じる。
「お疲れ。悪いね、無理させて」
「いえ……。あの、何かありました?」
「うん。まあ……大したことじゃないんだけどさ。詳しくは中に入ったら聞いてくれる?」
そうして入った平吉の個室にて、早々に藤代は部長との飲み会の顛末を教えてくれた。何でも始めはたわいもない話をしながら肉を焼いていたのだが、段々と藤代と西の課に配属された新入社員の話題に移り、ちくちくと嫌味を言われ続けたとのことだ。明るく快活なイメージを部長には抱いていただけに、そんな陰険なことをするのは意外だった。それを言えば、藤代は「ホントだよね。豹変するタイプだったみたいよ」と苦笑する。
「いやー、しつこかった。新卒は毎日何してるのか、何を教えてるのか、数字が上がらないのは何故か、とか。笑いながら痛いとこついてくるかんじね。西さんも俺も色々説明はしたけど、あれは絶対納得してないね」
大げさなほど深く息を吐いて、藤代はテーブルに突っ伏した。よほど部長の嫌味が堪えたらしい。
「……部長、怖いわー」
その呟きの弱々しさに心底同情しながら、依子は海鮮サラダを藤代の取り皿に取り分けた。どうぞ、と進めれば藤代も顔を上げる。その表情には疲れが宿り、一気に彼を老けこませていた。そこから藤代の受けたストレスの大きさが測り知れ、一層依子の憐憫の情をかきたてる。
確かに、四月から入った新入社員は営業成績が芳しくない。教育担当である藤代や、課長の西、そして先輩社員となる宮本が懸命に彼女に発破をかけているものの、それがあまり報われていないのが現状だった。
入社してきてまだ数カ月。されど数カ月。他の新卒社員が段々と売上を出し始める時期に、彼女だけまだ大した売上がない。それは歴代の新卒社員と比べても低いもので、藤代も何度も危機感を抱いている様子を依子の前で見せていた。
「……わたしから見て、藤代さんは頑張ってると思います。西課長だって、宮本君だって、みんなであの子を成長させようと働きかけてるじゃないですか。あとは彼女自身の問題な気がしますけど……」
精一杯のフォローをいれれば、ようやく藤代は微笑んだ。ありがとう、と言う声音の弱々しい響きに、依子も力なく微笑む。
少しずつでも彼を元気づけたいと思うと同時に、依子は今日は言わないことにしようと決めた。弱っている藤代に追い打ちをかけたくない。また日を改めよう。
そう思いながら依子は必死で藤代を慰め、励まし続けたのだった。
その甲斐あって、平吉を出る頃には藤代は何とかいつもの調子を取り戻していた。どこか吹っ切れた様子で、根気強くやっていくしかないよねと藤代は笑う。
「大丈夫ですよ! 藤代さんならきっとできます」
最後に力強く鼓舞したのは、これが最後かもしれないという後ろめたさから。これから先、自分がどこまで藤代の力になれるかはわからないからこそ、今できることは全てしたかった。
「ありがと。蓮見がいてくれて良かったよ」
藤代は微笑み、「じゃあ帰ろうか」と依子の手をとった。それはとても自然な流れだったが、依子はその手を柔らかくほどく。
「あの……手はちょっと……すみません」
小さく頭を下げれば、藤代は目を細めた。
「なんで? こないだは良かったのに?」
怪訝そうな表情で、藤代が一歩を踏み出す。それに合わせて、依子は一歩後退する。
それを受けた藤代は、口を真一文字に結んだまま、依子の真意を探るかのような視線を向けた。一気に二人の間の空気が緊迫したものに変わり、依子の背筋に寒気が走る。
伊藤への気持ちに気付いた以上、藤代の手をとってはいけない。それはとっさの感情だったが、それを行動に移せば藤代に気付かれることまでは思い至らなかった。
今日話すのはやめようと思っていたならば、いつも通りの振りをしなくてはならなかったのに。
依子は自分の行動が、引き金を引いたことを悟った。
藤代は無言で依子を見つめていたが、急に大股で依子へと踏み込み、再度その手をとった。思わず振り払おうとするも、彼はそれを許さない。
「……蓮見も、本当に正直だね」
顔を上げれば、微笑む藤代と目が合う。その目に浮かぶ寂しさは、彼が依子の変化に気付いたことを表していた。
「本当は聞きたくないけど聞いてあげるよ。俺のことなんて、どうでも良くなったんでしょ?」
「違います! どうでも良くなんてありません! ……でも」
「でも?」
「……わかったんです。伊藤君に惹かれてることに……」
つないだ手が熱い。どんどん熱を帯びていると感じるのは気のせいではないだろう。
依子は藤代を見ることができず、けれど手を振りほどくこともできず、立ちつくした。二人の間に沈黙が落ち、急にまわりの音が耳に響いてくる。少し離れた大通りからの車の音、人々の喧騒、そして平吉の中からは客のざわめきが、どこか遠くへいきかけた依子の意識を呼び戻した。それは藤代も同じだったようで、我に返った様子で依子の手を引いた。
「……場所変えようか。確か近くに公園あったよね」
そして藤代は依子の返事を待たずに歩き出す。向かったのは住宅街の中にある小さな公園だった。帰り道にいつも通る公園なので藤代も覚えていたようだ。ブランコと滑り台、そしてベンチが一つという小さな公園は、真夜中ということもあって誰もいない。
そのベンチに並んで座ってもなお、藤代は依子の手を離さなかった。
「じゃあ聞こうか。蓮見は俺じゃなくて伊藤君を選んだってこと?」
「……はい」
いつか、藤代に伊藤とのことを詰問された時のことを思い出す。あの時と同じ低い声は、彼が感情を抑えているのが感じられた。
「なんで? 俺より伊藤君のどこが良いの?」
「……わかりません。どこがっていうのがあるわけじゃないんです。……でも、前に藤代さんが言ってた『直感』て言うのが当てはまる気がします。考えて出した結果というより、ふとそう感じたんです」
依子の言葉に藤代はしばらく反応しなかったが、やがてその手を解放した。そしてベンチから立ち上がり、大きく伸びをする。
「……そっか。感じちゃったかぁ」
限界まで伸ばした手をおろした後、藤代は依子を見た。
「もうそれは覆ることはないの?」
「……はい」
「……それじゃあ仕方ないね」
いつもの穏やかな口調で、何でもないことのように藤代は言ったが、その目には光るものが浮かんでいた。悲しみの深さを思い知り、依子は頭を下げる。
「……ごめんなさい」
謝ってもどうしようもないし、きっと藤代は喜んだりしない。そうわかっていても、そうせずにはいられなかった。
自分の目にも涙が浮かび、それだけはだめだと顔を上げる。懸命に歯をくいしばればそれは引っ込んだが、藤代がそんな依子を微笑みを浮かべたまま見つめているから、依子はやはり泣きそうになった。
どんな言葉をかけても、全ては言い訳にしかならない。
ずっと藤代を想っていたことも、選んでもらえた時は嬉しかったことも、嘘ではない。けれど全ては過去になってしまったのだから。
藤代はゆったりとした動作で、再び依子の隣に腰かけた。その視線は依子ではなく前方に向けられ、目の前のブランコを見ているのか、それともその向こうにある紺色の夏空を見ているのか。どこか遠くへ向けられた視線はそのままに、まるで一人ごとのように「ねぇ蓮見」と藤代は依子を呼んだ。
「……はい」
薄明かりに浮かぶ横顔がゆっくりと動く。依子をとらえる藤代の視線は、今までにないくらい心細さに揺れていた。
「好きだった、って言ってくれない? 過去形で良いし、一回で良いから」
ざわりと胸に突風が吹く。
その願いは切なく残酷なもので、依子の胸を締め付けた。
「……わたし……」
口を開けば、声は震えていた。藤代は微笑んで、依子を見つめている。
その目に吸い込まれたいと願ったのは、そう遠い昔のことではない。今もくすぶる想いがこみあげて、あふれる涙とともに依子は言った。
「……ずっと好きでした。藤代さんのことを、本当に、ずっと……」
瞬間、藤代はこれ以上ない力で依子を抱きしめた。次々にこぼれる涙が、即座に藤代のワイシャツにしみ込んでいく。
「……ありがとう。俺もずっと。ずっと好きだったよ。長い間、待たせてごめんね」
そう呟く藤代の声も震えていて、依子は必死でしがみつきながら声をあげて泣いた。
どうして人の気持ちは変わるんだろうね。
藤代は言った。
それは自分に向けて言ったようでもあり、依子に対して聞いたようでもあった。
何故変わるのか。
あんなに焦がれた気持ちは、どこへいくのか。
その答えは分からない。
押し黙る依子に、藤代は笑う。
そして、依子の家の前で最後に一つだけキスを落として、彼は依子の前から去った。
もう金曜日に藤代と平吉へ行くことはない。
彼が依子をからかうことも、試すことも、仕事の愚痴を言うことも、ない。
手をつなぐことも、キスをすることも、抱き合うことだって、ない。
全ては失われ、過去の中にしか存在しないものとなる。
その喪失感に、依子は泣いた。
玄関のドアを開ければ、まだ起きていたらしい香織が駆け寄ってくる。何か言っているのは分かるが、依子には何も入ってこなかった。
ただただ涙が流れ落ち、嗚咽をもらし、依子はそこにうずくまった。
すぐに香織が持ってきてくれたバスタオルに顔をうずめれば、まるで叫び声のような泣き声が出る。
そうしてずっと依子は泣いていた。