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その手をとれば  作者: ななのこ
第3章 ふたつの情動の終着点 【伊藤編】
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 どうして泣くのだろう。

 まるで他人事のように依子は思い、やがて視界は潤みだした。頬に冷たい感触が流れ、一度それを意識すれば、涙は次々にこぼれおちてきた。

 焦る香織の表情が歪んで見える。彼女は「ちょっと待ってて!」と走り去り、すぐにタオルを持って戻ってきた。それを受け取って目にあてる。強く押しつければ押しつけるほどに、目頭が熱くなっていった。


「依ちゃん……」


 戸惑う香織に「ごめんね、すぐ止めるから」と答えながらも、なかなか依子はそうできなかった。

 一体どうしたのだろう。本当に何事か。

 香織以上に依子の方が困惑していた。


「……つらいの?」


 遠慮がちに発せられた問いに、依子は首を振った。


「つらくなんかないよ」


 つらいわけがない。つらいなんて言えない。

 それを言ったら、藤代と伊藤はどうなるのか。待たされている二人の方が、よっぽどつらいと感じているだろう。


 これは生理的なものなのだ、きっとそうだ、と思いこむことにして、依子は涙を止めることよりも深く呼吸をすることに努めた。何度も何度も繰り返し、それに集中することで、ようやく涙も止まってくる。

 もう大丈夫だろうとタオルを外せば、先ほどと同じ場所に香織は立ったまま、依子を心配そうに見つめていた。そんな彼女に微笑みかけて「急にごめんね」と謝れば、彼女は勢いよく首を横に振る。


「いいのいいの。あたしもごめん。言いすぎたよね」

「そんなことないよ。香織の言ったことは当たり前のことだし、わたしも自分でもそう思ってたよ」

「それでも……」


 香織は納得しない様子のまま言葉を切り、しばらく逡巡した後、依子に言った。


「ねぇ依ちゃん。一緒に帰省しない? 今年も確かお盆の週に夏休みでしょ?」

「え?」

「依ちゃん、しばらく藤代からも伊藤さんからも離れてみた方が良いんじゃないかな。少しの間でも二人と離れて考えれば、もしかしたら答えも見つかるかもしれないし。ね、そうしようよ」


 熱意のこもった目ですがられ、依子は曖昧に笑った。確かに、会社で定められた三日間のお盆休みに有給を二日加えて申請しているので、その週は一週間丸々休みである。特に予定もないから香織の提案に乗ることも可能だが……。


「ありがと、香織。じゃあ考えてみるよ」


 すぐに決めることができず保留の意を伝えれば、香織は力強くうなずく。


「うん。あたし依ちゃんが帰るなら、日にち合わせるからね!」

「わかった」


 どうしようかな、と思う。

 香織の言うように、二人と物理的な距離を置いてみれば見えるものがあるのだろうか。

 早く自分の心を知りたい。

 そう願う反面、それを知ればどちらか一方との別れが待っているという事実に、依子は心が冷えるのを感じた。

 






 早く答えを出したい。出さなければいけない。藤代も伊藤も待つと言ってくれているが、だからと言ってそれに甘え過ぎてはいけない。

 そう焦って自分をせきたててみるものの、日々の生活に追われてしまい、あっと言う間に金曜日がやってくる。その夜も普段通りに藤代は依子を平吉に呼び出し、依子はそれに応じた。あの夜のことに藤代は何もふれない。『彼氏面しない』という言葉の通り、以前と同じ距離感で接してくれている。

 ただ一つの変化は、藤代が依子に対しての好意を表すようになったことだ。

 その日もお互いにほどよく酒がまわってきた頃合に、不意に思い出したかように藤代が言った。


「もう俺、別に遠慮することないんだよね~」

「遠慮って、何にですか?」


 依子の問いには、藤代は笑うだけで答えなかった。しかし笑顔はそのままで「俺も今はフリーってこと」と嬉しそうである。


「だから俺とも、週末デートしようよ」


 あっけらかんとした藤代からの誘いに、依子は口に運んだ焼き鳥をぐっと詰まらせてしまった。咳こむ依子にかまわず「あいてる?」と藤代は重ねてたずねてくる。


「……日曜日ならあいてます」


 呼吸を整えた後で答えれば、藤代はうなずいた。


「じゃあ日曜日で決まりね。……で、もしかして土曜日は伊藤君?」


 さすが察しが良い。どんな反応をされるか心配だったが、ごまかせるわけもない。依子が小さくうなずけば、藤代は「ふーん」と案の定面白くなさそうな反応をする。


「どこに行くか決まってるの?」

「え? えーと……表参道です」

「表参道? 買い物?」

「いえ、美味しいタルトのお店があるので、そこに行こうと……」

「なるほどねぇ」


 たっぷり考えた後で、藤代は唐突に笑った。それは不敵な笑みというのがふさわしい表情で、依子の胸をざわつかせる。


「それ俺も一緒に行こうかなぁ。うまいタルト、俺も食べたいし」

「えぇっ!?」


 思わず出してしまった大声に、あわてて口を抑えるがもう遅い。藤代は吹き出して「冗談だよ」と笑った。


「タルト食べながら修羅場っていうのもちょっと嫌だしね。だから俺は日曜まで我慢するよ」


 そう言われてどう返事をすれば良いのか。困った表情の依子に藤代は再度笑い「映画でも行こうか。何か観たいのある?」と聞いた。


「あ、はい。そうですね……映画なら……」


 いくつかの映画名を言うと、藤代はそれを携帯電話で調べ始めた。その様子を眺めながら、藤代の変化に思いを馳せる。

 彼は変わった。彼女と別れたことも、依子を求めたのも唐突で、いまだに自分はそれに対応しきれていない。

 いつから藤代は自分を想ってくれていたのだろう。何が彼を変えたのか、きっかけを教えて欲しい。

 けれど聞いたってまた煙に巻くのだろう。彼はいつだって依子に心を読ませないから。それでいて好意ばかり伝えられたって、どうしたら良いのかわからないというのに。


「今蓮見が言った中なら、俺これが良いかな」


 携帯電話を差し出され、依子の思考は中断する。藤代の穏やかな視線を受け、依子は携帯電話の画面に視線を落とした。

 考えても答えが出るものじゃない。依子は頭を切り替え、藤代と日曜日の計画をたてることに集中した。



 




 週末に、伊藤と藤代のそれぞれと会うのは初めてだ。もしかして依子が心を決めるまでは、ずっとこんな状態が続くのだろうか。……だとしたら、これを二股と言わず何と呼べるだろう。

 土曜日の昼に近い時刻。自嘲的な思いを溜息にのせて、依子は表参道駅から目的のケーキ店へと歩いていた。そこは超のつく人気店なので、とりあえず早く着いた方が受付をすませてしまおうと伊藤と決めたのである。この店には以前一度だけ行ったことがあるが、カフェタイムを外したつもりでも店の前には行列ができていてびっくりしたものだ。

 今日はまずタルトを食べようという強い意気込みで、開店直後を狙っている。普通ならランチの時間なので、少しはすいているだろうという読みだ。


 多くの観葉植物が飾られた外装は、一見するとケーキ店には見えない。しかし重なり合う葉の向こう側にケーキのショーケースが見えることと、店の前に既に数人の列ができていることで、そこが目的地と知れる。腕時計を見ると開店時刻の五分前。この分ならすぐ案内してもらえるだろう。

 大きく安堵して列の最後尾に並べば、ほどなくして伊藤もやってきた。小走りにしか見えない走り方だったが、その速度はすさまじい。道の向こうに姿が見えたと思ったら、あっと言う間に依子の前まで伊藤はやってきた。


「すみません、お待たせしました」

「全然待ってないよ。ていうか……ほんと速いね、走るの」


 依子が感嘆とともに言えば、少しずれた眼鏡をおしあげ伊藤は微笑んだ。うっすらと額にかいた汗をTシャツの袖でぬぐいながら「入れそうですね」とまわりを伺って嬉しそうだ。

 その素直な姿が微笑ましい。

 それまで沈んでいた気持ちが一気に浮上して、依子は自然と口元がゆるむのを感じた。


「お互いのタルト、一口交換しようね」


 依子が提案すれば、伊藤は恥ずかしそうにしながらもうなずいた。その背後で、ケーキ店の扉が開いて店員が明るく声をあげる。ケーキ店の開店である。二人は目を合わせうなずきあい、店内へと歩き出した。







 人気店なだけあって、タルトは本当に美味しかった。伊藤は一口目を食べた後、感動のあまり声をつまらせ「世界観変わりそうな美味しさですね……」と呟いたほどだ。

 依子はグレープフルーツのタルト、伊藤はミックスベリーのタルトを選び、約束通り一口ずつ交換もした。確かに伊藤の言うように、他の店で食べるタルトとは何か違う美味しさを感じる。それがこの店だからなのか、一緒に食べる相手が伊藤だからなのかは分からなかったが、依子は伊藤と同じくらいタルトを楽しんだ。


 そしてカフェを出た後は、周辺を散策することにした。ランニングシューズを買いたいと言う伊藤に付き合って原宿のスポーツブランドの店を見たり、依子は依子で雑貨店に伊藤を引きこんで延々とインテリア小物を物色したりと、気ままな街歩きを楽しむ。

 しかし表参道も原宿も休みとあって人が多く、気をつけないとすぐに伊藤から距離があいてしまう。人をよけながら時に小走りになる依子に、伊藤がすっと手を差し出した。


「……いいですか?」


 おずおずと聞かれ、依子はうなずきそれを握る。そうすれば伊藤は嬉しそうに笑った。


「……今日、気まずかったらどうしようかと思ってたんです」


 依子の手をとり歩きながら、伊藤は呟いた。依子はその横顔を見上げ「大丈夫だったね」と微笑む。

 実は依子も、同じことを考えていた。藤代のように伊藤が変わらない態度をとってくれるのか、そして自分がそれをできるのか。いささか不安を持っていた。

 実際伊藤に会ってすぐにそれが杞憂だとわかったが、同じことを伊藤も感じたのだ。


「わたしも、実はほっとしてる」


 加えて告げれば、伊藤は少し驚いた表情で依子を見た。


「本当ですか?」

「うん」

「そうですか」


 伊藤は安心した様子で息を吐き、依子の手を握り直した。つないだ手からも彼の安堵が染み入るようで、依子の心を温かくする。しかし同時に、申し訳ない気持ちがこみ上げた。罪悪感にも似たそれは、伊藤の優しさや想いを感じるたびに依子を襲った。今までだってそういうことを感じないわけではなかったのに、今日はとりわけそれが強かった。


 伊藤君。

 依子はそっと心の中で呼びかける。

 今こんなふうに楽しくデートしてるけど、明日はわたし藤代さんとデートするんだよ。

 そんな女の、どこが良いの?

 どうしていつもそんなに優しいの?

 

 口にできない言葉は心の中で弾け、儚く消えた。

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