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新宿という街は便利な街である。大抵の望みは叶えてくれる。何をしたいか、何を食べたいか、一人一人のニーズに応える場所が必ずある。
依子と伊藤もそう労することなく、目的の場所へとたどりつくことができた。人目を阻む塀の奥の入口を抜け、パネルに示された部屋の画像から、伊藤は『ナチュラル』と名前がついた部屋を選んだ。依子はホテルの外観を見たときから緊張していたが、伊藤の方はそうでもないようで、スムーズに会計をすませると依子を部屋まで案内する。
その部屋は壁が木目だったり、ベッドカバーにリネンが使われていたりと、まるでコテージのような雰囲気だった。とは言え、部屋の中央に鎮座する広いベッドや、磨りガラスの向こうに見える浴室は、しっかりと『そういう目的』のホテルであることを主張している。
お互いにシャワーをすませて、バスローブ姿で向き合えば、いよいよその目的を果たす時の到来である。
依子の緊張は最大級のものになっていた。せっかくシャワーを浴びたばかりだと言うのに、部屋は快適な温度だと言うのに、汗をかきそうになってくる。
ベッドの脇に立ったまま強張った表情の依子を見て、目の前に立つ伊藤は苦笑した。
「……蓮見さん、緊張しすぎです」
「いやだって……そりゃ緊張するでしょ」
「気持ちはわかりますけど……。酒でも飲んで勢いつけますか?」
言いながら伊藤が部屋に備え付けの冷蔵庫を確認しに行く。
「ビールとカクテルありますよ」
欲しい、と言おうとして、依子は思いとどまった。今たった一杯飲んだところで酔えるとも思えない。
「いや、飲まなくて大丈夫。……照明落として良い?」
「はい」
煌々と照らされた中で、肌をさらすのは恥ずかしすぎる。依子はベッドの枕もとにある電気の調節スイッチをいじって、段々と光をしぼっていった。薄明るいところから、もっと暗くしようとしたところで背後からの手に阻まれる。
気付けば、伊藤が背中からかぶさるように、依子の傍にきていた。
「これ以上暗くしたら、何も見えません」
耳元でささやかれ、身体が強張る。
「で、でも、あんまり明るいと……」
「大丈夫です。眼鏡をとれば、大して見えませんから」
そんなものだろうか……と思った途端に、背後から抱きしめられる。湯上りの伊藤はしっとりとした肌心地だった。
「好きです」
他に誰も聞く人などいないのに、伊藤は声をひそめて依子に告げた。大事な秘密を打ち明けるように、おごそかな雰囲気すら醸し出して。
わたしも好きです、と言えたら良いのに。
依子は伊藤の腕に自分の手をそえながら「ありがとう」とだけ答えた。
それと同時に、こんな交わりを彼は本当に求めているのだろうか、と依子は急に不安になった。
想いを与えあうことができないのに、身体だけを重ねることに意味はあるのか。伊藤は後悔しないと言ったが、本当は傷付いてしまうのではないだろうか。
迷いは沈黙を落としたが、そのまま伊藤の手がバスローブの合わせにもぐり込んできたところで、依子の思考は完全にストップした。そしてそれからは、伊藤の心配など頭からかき消え、依子は自分の身が翻弄される恥ずかしさに悶えたのだった。
隣から規則正しい呼吸音が聞こえてくる。きっと眠ったのだとあたりをつけて、依子は目を開いた。振動で彼に気付かれないように細心の注意を払いながら、身を起こす。そして、仰向けで目を閉じている伊藤の顔を暗がりで眺めた。
あどけないその寝顔は、健やかで年相応の青年だ。目を開けばその目には鋭い知性が宿るのを知っているだけに、今の彼からはどこかゆるんだ柔らかさを感じる。
恐れていた罪悪感は、ついにやってこなかった。それ以上に、これでフィフティフィフティだという安堵にも似た気持ちが胸をついた。
いつのまに、こんなおかしな関係になってしまったのだろうか。
依子は、自分をとりわけ貞淑だと思ったことはないが、こんな短期間に二人の男性と関係をもつなんて、考えもしない事態だった。
けれど元を正せば、煮え切らない自分が招いた事態であるのは明白である。
二人のためにも、自分のためにも、早く答えを出さなければ。
小さく溜息をつけば、ぴくりと伊藤のまぶたが動いた。
「……眠れないんですか?」
伊藤が細く目を開けて、依子に声をかける。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いえ。うとうとしてただけですから」
依子の上ずった声を気にした様子もなく、伊藤はゆったりとした動作で起き上がった。少しはだけたバスローブからのぞく胸元にドキッとしてしまい、あわてて目線を外す。それをごまかすように依子は伊藤に声をかけた。
「……伊藤君、大丈夫?」
「それは普通俺の方が聞くことのような気がしますけど……。どういう意味ですか?」
「……後悔してないかなって思って」
細い声でつぶやけば、伊藤が小さく息をついたのがわかった。
「全くしてません。……蓮見さんは、そうなんですか?」
「わたしもしてない」
顔をあげて目を合わせれば、暗がりでも伊藤が神妙な顔をしているのが分かった。眼鏡をかけていない分、いつもより焦点があっていない感じはあるが、それでも彼は変わらずにまっすぐ視線を向けてくる。
「……後悔するかと思ったの。だって伊藤君、こういうことには心が伴わないとだめなタイプでしょう?」
「そうですね、それはそうです」
「だから……」
「でもこれは俺が望んだことです。それに……そう言うなら、蓮見さんもそうなんじゃないですか?」
「……そうだと思ってたけど……でも実際なんか中途半端な気持ちのままで流されてるから……」
「流されても良いと思えるくらいには、想いがあるからなんじゃないですか」
そう言うと伊藤は笑みを浮かべ、サイドボードに置いてあった眼鏡をかけた。そして依子の肩に手をまわし、そっと引き寄せる。されるがまま伊藤の胸元に頬をつけ、依子は「……そうかな」といぶかしんだ。
「あの人と俺と、それがどれくらいの比率かは分かりません。……もちろん、俺の方が勝ったらいいなと思ってますけどね」
伊藤の声が自分の深いところに響く。
それは依子の中途半端な態度をすべて受け入れ、その上認める言葉だった。
許されているという感覚が、どうしようもない心の澱をかきだしてくれるようで、依子は涙がこぼれてきた。
伊藤のバスローブに涙をしみこませるように顔を押しつけながら、依子は彼の背中に手をまわした。強く抱き締めれば、伊藤も同じようにそれを返してくれる。
「伊藤君……良い人過ぎるよ……」
涙とともに、嗚咽とともに呟けば、伊藤が頭上で笑う気配がした。
「本当に良い人なら、横恋慕なんてしません」
その言葉にくすりと笑えば、伊藤はぽんぽんと依子の背を叩いた。子どもをあやすような態度にまるで自分が彼の妹にでもなった気分になる。
「眠れないなら、一緒に映画でも観ましょうか。あ、もちろん健全なやつですよ」
「……うん。じゃあそうする」
最後に彼の胸に顔をこすりつけた後、依子は伊藤の顔を見上げた。優しい表情で自分を見下ろす伊藤に愛しさがこみあげてくる。その衝動のままに、依子は彼に口づけた。軽く触れ合わせただけのそれでも、伊藤には予想外だったらしい。
目を見開き固まる姿に、依子は泣き笑いの表情で「ありがとう」と言った。
深夜から映画を観たことで朝が遅くなり、依子と伊藤は結局チェックアウトぎりぎりの時間までホテルに滞在した。その後ブランチと称して、駅前のコーヒーショップでサンドイッチを食べ、家路につく。
何となく気だるい身体を引きずるようにして、部屋のドアを開ければ、香織の靴がそろえて置いてあった。「ただいま」と声をかければ「おかえりー」と間延びした声がリビングから返ってくる。
「珍しいね、早く帰ってくるの」
リビングのドアを開けて声をかければ、ソファに座っていた香織が振り向いた。
「だって、圭吾と喧嘩したんだもん」
ぶうと頬をふくらませる様子に苦笑しながら「あらら、どうしたの?」と水を向けてやる。香織の表情から、そう深刻な喧嘩でないことは見て取れた。普段から仲が良い二人でも、たまにはこうして痴話喧嘩もするのだ。
「圭吾ったらさー。せっかく一次試験終わったのに、遊ぶより実技の練習した方が良いとかいって、すごいノリ悪いんだもん! 試験前には、終わったら旅行行こうって言ってたくせに、実際終わったらそんなこと言ったっけ? とかとぼけてるし」
香織も圭吾も、七月の半ばに教員採用試験の一次試験を受けている。それまではひたすら勉強勉強の日々だったのを見ていただけに、それが済んだら遊びたいという香織の気持ちは容易に想像できた。まだ試験結果は出ていないが、二次試験は面接と実技だけなので、香織が夏休みらしい過ごし方をしたいというのもわかる。ただ、そうはできないのが圭吾なのだろう。そういう真面目なところは、彼と伊藤は似ている気がする。
「まあまあ」
依子は香織をなだめながら、なんてかわいい喧嘩だろうかと微笑ましい気持ちで相槌を打った。何だかんだ言いつつ明日には仲直りしてるだろうなと思ったが、それはおくびにも出さず香織の愚痴をひたすら聞き続ける。それがひと段落すれば気が済んだのか、彼女は大分すっきりとした面持ちになっていた。
「そういえば、依ちゃんの方は? 昨日誰とお泊まりしてきたの?」
キッチンで麦茶を飲んでいたところの問いだったので、驚きで勢いがつき麦茶が器官に入ってしまった。げほげほと荒い咳を繰り返しながら香織を見れば、にやにやと笑う顔は暗に「伊藤さんでしょ?」と予測をつけているようだ。彼女は依子が伊藤に告白されたことも、毎週末デートしていることも知っている。
「……伊藤君、だけど」
息もたえだえになりながらそう言えば、香織は「やっぱり!」と飛び上がらんばかりに喜んだ。
「ついに! ついに依ちゃん、伊藤さんと付き合うことにしたんだね!」
飛び跳ねるような軽やかさで香織が依子のもとにやってくる。香織がそう思うのはごく自然なことだ。異性と一晩を過ごすというのは、そういうことだ。
「……あのね、残念ながら、付き合ってません」
「えー!? なんで!? もしかしてふられちゃった!?」
「ふられてもいないけど……」
どう伝えようかと思っていると、香織は「まだ藤代にぐずぐずしてるの!?」と眉を怒らせ始めた。
「依ちゃんてば、いつまでも伊藤さんのこと生殺しにしてたら、他の人にとられちゃうよ! 伊藤さんほどの人なら、きっと引く手あまたなんだから」
「……うん、そうだよね」
優しくて誠実で、仕事だってきっと真面目にしている。そんな伊藤なのだから、彼を想う女性の一人や二人いたっておかしくない。別に会社でだって、大学時代の仲間でだって、彼のまわりに女性がいないわけではないのだろうから。
きっと伊藤が離れていったら、自分は悲しむだろう。
それこそ失恋したと感じて涙を流すに違いない。
けれど、それは藤代でも同じことが言えた。
「……二人とも好きって、やっぱおかしいよね」
溜息とともに吐き出せば、香織からの反応がない。彼女なら「そうだよ! もう依ちゃん、はっきりしないとだめだよ!」くらい言ってくるだろうに……と不思議に思えば、香織は眉尻を下げて依子を見つめていた。
「……泣かないで、依ちゃん」
そっと呟かれた言葉に、依子は笑う。
「泣いてないよ」
そう言った拍子に、ほろりと涙が一粒こぼれた。




