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その手をとれば  作者: ななのこ
第2章 想いに眩みし分岐点 【伊藤編】
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 翌週の伊藤とのデート先は、博物館だった。都心にあるそこは江戸時代の文化や風俗についての博物館で、時代小説好きの伊藤が以前『気になる場所』としてあげたことがあった。

 そこに行こうと言ったのは依子である。

 江戸時代への興味というよりも、その博物館で伊藤がどんな表情をするのかが見たかった。


 その日の伊藤は、朝から少し気分が高揚しているようだった。いつもより何となく口数が多く、そして肌の血色も良い気がする。そして博物館にていざ見学を始めた瞬間からの伊藤は、覚醒したという表現が当てはまるほどに神経が研ぎ澄まされているようだった。集中して一つ一つの展示品に見入る背中からは、そのうち湯気でも出てきそうだ。

 まわりの客と比べてかなりゆっくりとしたペースで展示コーナーをまわり、広い場所に出たと思ったらそこには当時の街並みを再現したジオラマが広がっていた。伊藤は小さく「おぉ」と感嘆の声をあげ、足早に近づいていく。いくつもの角度からそのジオラマを眺め、まるで目に焼き付けるかのように熱い視線を送る伊藤を、依子は微笑ましい気持ちで見つめた。


 本当に好きなんだなぁ。

 時代小説が好きなのか、江戸時代が好きなのか。

 そのへんはよく分からないが、今日はこの場所にして本当に良かったと思う。伊藤が心底楽しめる場所が、最後にはふさわしい。

 そう考えたところで胸の奥が小さく痛む。

 今日は朝からずっとそうだ。小さな針で刺されているかのような痛みが断続的におそってくる。それは、伊藤が笑えば笑うほどに強まっていた。

 その波がひくのを待ってから、依子は静かに伊藤に近づいた。彼は依子がそばに来たことに気付く様子はなかったが、かまわずに依子はその手を伊藤の手にからませる。


 はっと息をのんだ表情で伊藤は依子を振り返ったのが分かったが、依子はうつむいたままだった。無言でその手をゆるく握れば、「蓮見さん?」と伊藤が小さな声でたずねてくる。


「駄目かな?」


 うつむいたまま同じようにたずねれば、答えだとばかりに伊藤も依子の手を握り返した。顔を上げれば、彼は微笑んでいる。


「このジオラマ、すごく精巧で見ごたえがありますね」


 伊藤が気を遣ってくれているのを感じ、依子は感謝しながらうなずいた。そしてたわいもない話をしながら、依子と伊藤は手をつないだまま博物館を見学したのだった。







 さすがに博物館だけで一日を過ごすことはできず、その後二人は新宿に移動した。駅からほど近い居酒屋で飲んでいる時に、依子が「話がある」と切り出せば、伊藤は心得たようにうなずいた。


「今日は何だかいつもと違いましたもんね。何かあったんだろうと思ってました」


 伊藤が察してくれたことがありがたい。ついでに、この席が個室であることも本当に都合が良い。

 依子は一呼吸おいて、口を開き、伊藤の目を見て、また口を閉じた。

 伊藤の優しい視線を受けて、喉元にせりあがるのは恐怖にも似た感情だった。

 今から言うことを受けて、伊藤がどう反応を示すのかが怖い。ずっと言おうと考えていたことで、もう覚悟も決めたはずなのに、完全に怖気づいている。


 自分が、藤代との間にあったことを隠しながら伊藤に会えるような性格だったらよかった。ほんの少しは、そうできる気がしていたのだ。今日、伊藤に会うまでは。

 彼の顔を見た瞬間、やはり自分は断罪されるべきだとの思いがこみあげた。

 言わずには一緒にいられない。それが伊藤を傷つけ遠ざけるとしても、彼を欺くことはできそうにない。


 酒の力に頼りたくないと、まだ一杯目の段階で切り出したことを依子は早くも後悔した。こんなほぼ素面の状態じゃ、言えない。

 けれど、言わないわけにもいかない。


 膝の上で握ったこぶしに知らず力がこもる。つばを飲み込み、いざと顔をあげれば、心配そうな伊藤の視線とぶつかった。


「……無理しなくても良いんですよ」


 気遣う伊藤の目はまっすぐ見られず、依子は手元の皿に視線を落とした。皿の上にある出し巻き卵をにらみつけるようにしながら、ようやく口を開く。


「……わたし、藤代さんと、したの」

「え?」


 聞き返されてももう一度言う勇気はなく、依子は早口で続けた。


「藤代さん、彼女と別れたんだって。それでわたしと付き合いたいって言って、でもわたし迷って、そしたら藤代さんが……」


 一気にそこまでしゃべって、息をつく。大きく息を吸いながら伊藤を見れば、その表情は真顔になっていた。


「……まさか、無理やり?」

「……ううん」


 聞き返されはしたが、伊藤はきちんと依子の小声を拾ってくれていた。それに安堵し、そして依子は頭を下げた。


「軽くてごめんなさい。わたし伊藤君に好かれる資格ありません」


 そう言い切った途端涙がこみ上げる。それを必死でおしとどめながら、依子は顔を上げた。伊藤の顔は怖くて見れなかったから、彼の着ている生成り色のTシャツの襟元に視線を向ける。


 もしも伊藤から非難されたら、ただ謝って立ち上がるしかない。脇に置いたバッグをひっそりとたぐりよせ、伊藤の言葉を待つ。ちらりと伺えば、彼は手を口元にあてて考えていた。その視線は依子ではなく、どこか下方へ向けられている。

 何を考えているんだろう。

 依子がぼんやりとそれを眺めていると、思考が終わった伊藤と目が合った。


「……あの、それで、蓮見さんはあの人と付き合うことにしたんですか?」


 それは普段の伊藤の聞き方で、依子を非難する響きも怒っている素振りもなかった。あれ、と依子は思いながら、それに否定を示す。


「ううん。あの、変な言い方だけど、一晩限りというか……そういう位置づけ、かな」

「どうして付き合うことにしなかったんですか?」

「だって……」


 あなたがわたしを引きとめたから。

 そう言いたかったが、どう伝えればいいかわからず、依子はうつむいた。結局伊藤には「迷ったから」とだけ告げる。


「その迷いというのは、あの人と俺とどちらを好きかまだ分からないってことですか?」

「……うん」

「もしかして、結構罪の意識みたいなのを感じてます?」

「……それは、もう」


 まるで仕事の面接を受けているようだ、とぼんやり思う。伊藤の質問には感情が見えず、淡々と事実確認につとめている印象だ。伊藤がどんな反応をするか、何通りかは想像していたが、こういうパターンは考えていなかった。


「蓮見さん」

「……はい」


 返事をしたものの、伊藤からの続きがない。不思議に思っていると、彼はジョッキに三分の一ほど残っていたビールを飲みほした。彼にしては雑な手付きで口元の泡をぬぐった後、依子を見る。


「……じゃあ、俺ともしてみますか?」


 その衝撃発言に、依子は瞬時に耳まで赤くなる。対する伊藤も顔は赤かったが、彼の方が何倍も冷静な表情をしていた。


「ど、どうして、そんなことに……」


 依子の反応に伊藤は苦笑してみせた。


「そうすれば、蓮見さんの感じている罪悪感を消せるんじゃないかと思って」


 続きはちょっと待ってくださいね、と伊藤は断り、ビールを注文した。それがやってきて、一口喉をうるおした後「あのですね……」と依子を見る。


「蓮見さんとあの人との間にあったことは、確かにショックなんですけど……それ以上に俺は、蓮見さんがそういうことがあってもまだ迷ってくれてるってことにびっくりしてるんです」

「……どういうこと?」


 依子の腑に落ちない表情に対して、伊藤は困ったように笑う。わかってほしかった、とでも言いたげな表情だったが、依子は伊藤にもっと詳しく説明してほしかった。


「……それだけ俺が蓮見さんに近づけてるのが分かったってことです」


 そして伊藤は微笑んだ。嬉しそうな表情に胸をつかれる。何故だか泣きそうになって、依子はあわてて自分もウーロンハイを飲んだ。







 何となくうやむやまなままでその話は立ち消えた。その後は普段と変わらないペースで酒と会話を楽しみ、店を出た時には依子の方が酔いがまわっていた。朝からの緊張で知らないところで疲れがたまっていたのだろう。

 自然とつないだ手から、伊藤のあたたかい何かが流れこんでくる気がする。それをゆったりと感じながら、息を吐くように依子は呟いた。


「伊藤君は、なんでこんなに優しいの」

「……そうですか?」


 駅方面に進路を取りながら、伊藤が歩き出す。それに依子もついていきながら、隣の伊藤を見上げた。


「だって、普通なら軽蔑して終わるところじゃないかな」

「蓮見さんは俺にそうして欲しかったんですか?」

「……それは嫌だったけど、でも仕方ないと思ってた」

「言ったはずです」


 そう言う伊藤の手に力がこもる。


「どんな結果になっても後悔しないって。俺から蓮見さんの手を離すようなことはしません」


 低い声で告げられた決意表明が依子の中にしみ込んでいく。どう答えれば良いのか迷っているうちに、伊藤は依子の顔をのぞきこんだ。


「だから蓮見さんはしっかり見極めてください。俺とあの人と二人分の想いを背負ってきついこともあるかと思いますが、頑張ってください」

「……はい」


 わかりました、先生。と言いたくなったところを、寸前でとどめる。自分だって当事者だというのに、完全に中立な立場からのアドバイスだったので、不謹慎ながらも笑みがこみあげてきた。この公正さが伊藤らしいと思う。


「伊藤君、ありがとう」


 依子の表情に明るいものを感じ取ったのか、伊藤も満足そうにうなずいた。

 そうしてしばらく歩けば、駅に近づくにつれて、人が増えてくる。だれしもが赤ら顔で、週末特有の陽気な空気を作り上げていた。

 その波に飲み込まれようかという一歩手前で、伊藤が依子の手を引いた。

 立ち止ったそこは分かれ道。まっすぐ行けば駅に着くし、曲がれば繁華街が広がっている。その角に邪魔にならないように移動して、伊藤は真面目な面持ちでたずねた。


「さっきの返事、聞かせてもらえませんか?」

「……さっきの返事」


 反芻しながら、思い至ったのはたった一つの言葉。


『俺ともしてみますか?』


 再びの恥ずかしさに依子はとっさに答えられなかった。あの話は依子の中では流れていったものなのだが、伊藤の中ではそうでなかったらしい。


「さっきは少し嘘をつきました」

「……嘘?」

「蓮見さんの罪悪感を消したいっていうのは建前です。本音は、俺がしたいだけです」

「ちょ、直球だね……」

「気のきいたことは言えない性分ですので。……あと、前に言ったことでごり押すとすれば」


 伊藤はここで言葉を区切った。彼自身言おうか迷っているようだったが、割とすぐに意を決したらしい。再び依子に合わせた視線からは、強い光しか感じられなかった。


「あの人と同じことを俺もさせてください。こう言うのは卑怯ですか?」


 卑怯だと、依子は思った。

 けれど、その響きは甘く依子を包み、最終的には首を縦に振ったのだった。

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