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その手をとれば  作者: ななのこ
第2章 想いに眩みし分岐点 【伊藤編】
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22

 こんな激情は知らない。

 息苦しいほどの抱擁の中、依子は聞こえてくる藤代の鼓動に耳をすませた。そのテンポは速く、彼の熱情をそのまま表しているようだ。振りほどくこともできないままじっとしていると、藤代が先ほどよりは落ち着いた声音で呟きを落とした。


「……そういえば、言い忘れてた。彼女と別れたよ」


 その内容に依子は目を見開き「本当ですか!?」と声を荒げた。発声した瞬間の空気の振動が、ダイレクトに藤代に伝わったようで、少し力がゆるむ。

 顔をのぞきこまれたので、依子は再度勢いこんでたずねた。


「別れたんですか!? 本当に!? どうして急に……」


 まるで解せないという依子の気持ちは、言葉だけでなく表情でも如実に語っていたようで、藤代は首をかしげ苦笑した。


「そんなに驚くことかな?」

「そりゃ驚きます! だって藤代さん……絶対別れないと思ってたから」

「それは心外だな。……俺にはもう、蓮見しかいないよ」


 まるでそれは決意を述べるかのようだった。藤代の苦しそうな表情を見上げながら、そこに藤代の気持ちをたぐりよせる一筋の糸が見えた気がした。


 おそらく藤代は心を定めたのだ。

 彼は、彼女ではなく依子を選んだ。自意識過剰ではない、と思う。

 けれど肝心の依子に迷いが生じているとすれば、それは怒りも感じるだろう。


 話は終わりとばかりに、藤代が再度依子に顔を近づけてくる。それを避けるようにして手を伸ばし、藤代の胸を突っ張りながら「……少し、考える時間をくれませんか」と請う。告げられた事実をかみくだく時間と、彼が自分に向ける気持ちについて整理したい。ここで流される前に、しっかりと考えたかった。


 もちろん、藤代の言葉が嬉しくないわけじゃない。ずっとそうなればいいと思っていた。彼女ではなく自分を選んで欲しいと望んでいた。

 それでも、手放しで喜ぶ前に伊藤の顔がちらつく。彼の存在感が依子の中で頭角を現していて、依子を立ち止まらせるのだ。


 藤代は、依子の腰に手をまわしたまま、しばらく黙っていた。その力加減は柔らかくなっていたが、依子の腕は緊張し通しである。こんな防御など、その気になった彼の前ではいとも簡単に崩されるだろう。

 たっぷり十数えても沈黙は続き、おそるおそる顔を見上げれば、藤代は依子に笑ってみせた。


「いいよ。待ってあげる。でも、条件がひとつ」

「……何ですか?」

「今晩は付き合って」


 言うなり、藤代は依子の手をつかみ強く引いた。自身は器用にスニーカーを脱いで部屋へと入っていく。


「あ、ちょっと藤代さん、靴……」


 そう声をかけても彼は依子が靴を脱ごうが履いたままだろうが気にするそぶりもなく、その勢いをゆるめない。何とか玄関にあがる前に靴を脱ぎ捨て、引きずられるようにして直線の廊下を進めば、その先にはリビングがあった。

 黒を基調としたシンプルなリビングを見渡す間もなく、ソファーに無理やり座らせられる。


「……約束破ったの、俺怒ってるんだよ」


 そして藤代はそこで依子を押し倒した。一度は引いたように見えた藤代の劣情がまた鎌首をもたげている。


「いや、怒ってるんじゃないか。……失意のどん底。そんな感じ。わかる?」


 そんな大げさな、と言える雰囲気ではない。依子はごくりと喉をならして、真上にある藤代の顔を見つめた。この状況はまずいとわかっているが、今の彼から逃げられる気もしない。


「だから、今日はなぐさめて」

「……あの、でも藤代さん。待って欲しいって言ったのは、そういうことも含めてで……」

「知ってるよ。……蓮見は、俺とするの嫌?」

「……こんなふうになし崩しなのは……嫌です」


 藤代は依子を見下ろしたまま、少し考える素振りを見せた。一瞬肩を押さえる力がゆるんだので、そこを外そうとすれば再度力がこめられる。それと同時に彼の口角が上がった。


「じゃあ、自分勝手な男のせいにしていいよ」


 そして藤代は先ほどの苦しいような表情を一瞬見せた後で、依子にかみつくようなキスを落としたのだった。







 浮気。二股。横恋慕。

 藤代と伊藤と自分。

 浮かぶ言葉や人を指折り数えて、依子は藤代の部屋の天井を見上げていた。隣では藤代が穏やかな寝息をたてている。


 好きだ。本当はずっと好きだった。これからはそばにいて欲しい。大事にするから。

 行為の間ずっと熱のこもったささやきを受ければ、感じるのは喜びだった。いつから拒絶がポーズになったのか、依子は思いだせない。最終的には自らも求めていた。

 藤代から求められることに幸福を感じ、しばらくはその余韻でぼんやりしていた。

 しかしそれが過ぎ去れば、途端に伊藤の顔が浮かぶ。罪悪感の大きさに押しつぶされそうになった。

 これからどうしよう。

 途方に暮れた気持ちを抱えたまま、それでも依子は眠りに引きこまれた。

 

 そして目が覚めたとき、隣に藤代はいなかった。あれは夢だったんだろうか……とぼんやり身体を起こせば、そこは藤代のベッドの上であり、着ているTシャツも彼のものだった。

 

 そうだ現実だと思い直し、依子は溜息をついた。

 そこでタイミングよくドアが開かれる。顔をのぞかせた藤代は、シャワーをすませてきたのかこざっぱりとした様子だった。


「おはよう。シャワー浴びるよね? タオル出しといたよ」

「……ありがとうございます」


 うん、と藤代はうなずきドアを閉めようとする。そこに依子は「あの」と声をかけた。


「どうしたの?」

「どうして……彼女と別れたんですか?」


 朝起きてすぐに質問されると思わなかったのだろう。藤代はドアから顔を半分出した状態のまま、しばらく依子を見つめていた。意図をさぐるような視線を受けて、依子もそれをまっすぐに見返せば、藤代は部屋に入ってきた。ベッドの端に座り、タオルケットを握る依子の手に自分の手を重ねる。


「それは昨日言わなかったっけ? 蓮見のことが好きだってわかったからだよ」


 その言葉に嘘はない。彼は巧妙に事実を隠す能力に長けているが、口に出す言葉に嘘は混ぜない。それはこれまでの付き合いで知っている。

 それでも依子はそれに笑顔で応えることはできず、うつむいた。


「どうしてわかったんですか?」


 今まであんなにのらりくらりとしていた藤代を、何が変えたのだろうか。彼女と別れる決心をしたのは、どうして……。

 依子の疑問に藤代は答えなかった。人差し指を口元にあて「それは内緒だよ」と微笑まれる。


「でも強いて言うなら、直感かなぁ」


 直感ひとつでは、理由としては弱い。それを藤代自身もよく分かっているのだろう。依子の肩を軽く叩いて「そのうち教えるよ」と言った。


「……藤代さんが、よくわかりません」

「そうかな」


 藤代の手が今度は依子の頭に移動し、優しい手つきでなではじめる。彼はそれをそのまましばらく続けた後で「自分ではわかりやすいと思ってるけど」と、穏やかな声音で答えた。


「好きだからああいうこともしたいし、誰にもとられたくない。それって単純なことじゃない?」

「でも……」


 昨晩のような藤代は、どこか彼らしくない。そんな気がするのだ。けれど目の前の藤代はそれを笑って否定した。


「今まで見せたことなかった一面だったってことだよ」


 本当に? 心に広がる灰色のものを無視できず、依子の表情は晴れなかった。


「心配しなくても、彼氏面はしないよ。約束通り、ちゃんと蓮見が答えを出すまで待つから」


 明るく言われ、依子は小さく礼を言って頭を下げた。そして藤代は最後に依子の頭をひとなでした後、今度こそ部屋を出て行った。

 閉じられたドアを見つめ、依子はもう一度深く息を吐いた。







 こんなに簡単に関係とは変わるものなのか。

 依子の率直な感想はそれだった。

 あんなに長い間平行線だったというのに、踏み越えれば百八十度ひっくり返る。


 昼前に自分の部屋に戻り依子がまずしたのは、自分のベッドに寝転がることだった。見慣れた天井に安堵し、目を閉じる。

 藤代の部屋で十分眠ってきたが、心身ともに疲れが抜けていないのか、静かに睡魔がやってくる。

 意識が途切れる前に浮かんでいたのは、伊藤の顔だった。


 伊藤に会いたかった。

 彼に会って、全てを懺悔して、そして……。

 非難されたいのか、それとも許してもらいたいのか。

 よく分からなかったが、彼に自分をさばいてもらいたい。そう痛切に感じた。

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