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その手をとれば  作者: ななのこ
第2章 想いに眩みし分岐点 【伊藤編】
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 その夜はベッドに入った途端、すぐに眠りに引き込まれた。よっぽど疲れていたのだろうと、次の日の朝も遅い時間に目覚めた依子はぼんやり思う。けれど、心地良い疲れだった。

 伊藤と会うといつもそうだ。

 明るい空の下を一緒に歩くデートは、健全な気持ちをもたらしてくれる。

 藤代との逢瀬がいつも夜で閉鎖的な空間なのとは対照的である。

 

 大きな欠伸をして、何気なく携帯電話を確認すれば赤いランプが点滅している。誰かから着信があったようだ。伊藤だろうかという予想は、あっさり外れた。着信は藤代からだった。

 日付を越えてすぐの時間に電話がかかってきていたようだ。深い眠りの中で気付かなかった。

 藤代から休日に連絡がくることは初めてで、依子の胸が一度高鳴る。まだ少しかけ直すには早いかもしれないと思い、十時を過ぎるまでは待った。しかしコール音が数回こだまして、留守電に切り替わる。

 何の用か気になったが、どうすることもできない。

 せめてと、電話に出られなかったことの謝罪と何かあったのかとたずねる内容のメールを送信する。再び藤代から着信があったのは、その一時間後だった。


「あ、もしもし。蓮見? 急なんだけど今日暇? 渡したいものがあるんだけど、出てこれる?」


 のんびりした調子はいつもと変わらない。けれどそれが昼間で休日であるだけで、こうもそわそわするものなのか。依子は落ち着かない気持ちで「はい、大丈夫です」と返事をする。


 そして唐突に日曜の逢瀬が決まった。場所は藤代の最寄駅、時間は夕方。物を渡すついでに美味しいケーキ屋に連れて行ってくれるそうだ。

 依子は不思議な気持ちで、藤代の最寄駅で彼を待った。そこは依子の最寄駅よりも少し栄えている。駅を出てすぐのバスのロータリーは広く、それを囲む商業ビルも華やかだ。日曜日だからか家族連れや若者が多い。

 

「お待たせ」


 藤代は紺色のTシャツに細身のチノパンというカジュアルな格好で、依子の前に姿を現した。手には少し大きめの紙袋を持っており、おそらくその中身が依子に渡したいものなのだろう。それを出会ってすぐに渡す気はないらしく「まずケーキ食べよう」と駅前の商業ビルの二階に案内された。そのケーキ屋はタルトが評判らしく、店先のショーケースには季節の果物がこぼれんばかりに盛りつけられたタルトが並んでいる。その輝きに、依子は目を見張った。どれも全て美味しそうである。

 伊藤が見たら狂喜しそうだな。

 ふと思い、はっと藤代の顔を見上げる。

 現在一緒にいる相手を間違えるところだった、と背中が冷や汗を流す。藤代は依子の視線を受けて不思議そうだったが、微笑みを浮かべて店に入って行った。


「これあげる」


 依子はマンゴータルト、藤代は桃のタルトをそれぞれ注文した後、藤代が持っていた紙袋をテーブルにのせた。近くでみると厚手のそれには、紺色でさる外資系ホテルの名前が印刷されている。

 いぶかしむ依子にかまわずに、藤代は「中見ていいよ」と紙袋を押しだす。受け取って中をのぞきこめば、オレンジ色の化粧箱が見えた。箱の上面に金色の蝶が二羽連れだって飛ぶ姿が刻印され、上品な趣である。


「昨日大学時代の仲間の結婚式でね。その時もらった引き菓子。俺ひとりじゃ食べきれないから蓮見にあげるよ」

「え、いいんですか? こんな高級そうなもの……」

「いいのいいの。一緒に住んでる子とでも食べて。中身はバームクーヘンだってさ」

「……ありがとうございます。じゃあ、大事に食べさせてもらいますね」


 良いんだろうかと思いつつ、依子はそれを受け取った。藤代は満足そうにうなずく。


「本当はブーケもあげようと思ってたんだけど、さすがに一日たったら元気なくなっちゃったからやめといた」

「……それは残念です」


 小さく呟けば、しっかりと聞こえたらしい藤代が「じゃあ今度があったらすぐに届けに行くよ」と笑った。

 それに笑い返しながら、大学時代の……ということは彼女も来たのだろうか、と思い至る。

 藤代の表情からそれが分かるはずもなく、依子は目線を外した。

 ……きっといたのだろう。そう思っていた方が、きっと自分にとって楽な道だ。


 それからすぐにきたタルトは、絶品だった。マンゴーのみずみずしさとカスタードクリームの相性が抜群に良くて、食べ終わるのがもったいないと思うほどだった。一緒に頼んだコーヒーの苦みもタルトの甘さを引きたてていて、夢中になってしまう。

 この店、後でショップカードをもらおう。もし他にも店舗があるようなら、伊藤と今度一緒に……。

 それは自然な思考の流れだったが、また依子ははっとする。かすかな罪悪感が胸をさした。気付かないふりをして藤代を見れば、彼はちょうど依子を見ていたようで視線がばっちり合ってしまう。

 微笑んでいるのはいつもの表情だったが、どこか違う気がする。ぴりっとした空気すら感じて、依子は曖昧に微笑んでコーヒーに視線を落とした。その苦みが今はありがたい。

 

「ね、蓮見は今日この後も暇? もしそうなら、ちょっと付き合って欲しいんだけど」


 藤代の言葉に再び顔をあげれば、彼の表情は変わらないながらも先ほどの緊張感は消えていた。それに安心して肯定の意をあらわせば、彼は顔をほころばせた。

 そうして同じビル内の紳士服店で藤代のワイシャツとネクタイを買うのに付き合い、レンタル店へのDVD返却にも付き合えば、十分に日が傾き始める時間となっていた。


 こんなふうに藤代のプライベートに分け入ることは初めてで、依子は終始戸惑いを隠せなかった。

 藤代の行動はいつも読めないが、今日は特にそうだ。頭にいくつもの『?』を浮かべつつ彼についていき、そして依子は最終的に駅前の居酒屋にて藤代と向かい合っていた。

 そこは平吉と似た感じの店で、初めて入ったとは言え、何となく親近感を感じられた。お互い平日と似たようなペースで飲み進めれば、段々と酔いがまわって独特の浮遊感に包まれる。

 藤代が改まって依子に声をかけたのはその時だった。


「そういえばさ~」

「はい?」


 三杯目の焼酎を飲み干そうかとしていた依子は、一度グラスをテーブルに置いて藤代を見た。彼の視線に何かしら含むものを感じ、胸騒ぎがする。


「蓮見、オトコできたでしょ」


 とっさに依子は答えられなかった。飲み物を口に含んでいなくて良かったと心底思う。もしそうだったら、吹き出すところだった。

 そして唐突に理解する。

 藤代が今日呼び出したのは、引き菓子を渡したかったからでも、ケーキを食べたかったからでもない。これを聞くためだったのだ。


「あれ、当たっちゃった」


 藤代は驚いた様子もなく、焼酎を飲んだ。その目は笑っているが鋭い。まるでこれから叱られるのではないかという気分にさせられ、依子はあわてて首を横に振った。


「ち、違います。別に、付き合ってるわけじゃ……」

「でもいるんでしょ。似たようなのが」


 藤代の目を見ていられなくて、依子はうつむき首肯した。

 伊藤とのことが藤代を裏切ることになるかどうかはグレーゾーンである。しかし、彼が知って喜ぶはずはないと思っていた。

 事実、目の前の藤代はおもしろくなさそうに顔をゆがめている。


「やっぱそうだったんだ~。最近なんか付き合い悪かったもんね。俺の勘も捨てたもんじゃないなぁ」


 藤代が言うほど、依子は彼からの誘いを断ったりはしていない。ただ次の日伊藤と会う予定がある場合などは、確かに普段より早めに切り上げるようにしていた、かもしれない。そのあたりで藤代は感づいたのだろうか。

 男の勘、怖すぎる。


「蓮見ってばいつのまにそんな魔性の女になったの」

「そんなこと……」

「別にいいけど、俺が言えた義理じゃないし」


 別にいいなんて言いながら、藤代はまるで納得していない様子である。依子は汗をかきながら、この状況をどうすればいいのか分からず混乱の局地にあった。


「もちろん教えてくれるよね? 二人のなれそめ」

「なれそめなんて……」


 言いながら顔をあげて依子は、藤代の視線を受けて身をすくませた。藤代の目は燃えていた。それは、依子でも気付ける嫉妬の炎だった。

 藤代が伊藤に嫉妬している。

 その事実に、依子は驚きを感じずにはいられなかった。彼がそんな独占欲のような感情を見せるなんて、想像したこともなかったのだ。


 たどたどしく、言葉が足りないながらも伊藤とのことを白状させられ、依子は大きくうなだれた。

 悪いことをしているわけではないはずなのに、この叱られている気分は一体何なんだろう。


「……ふーん。伊藤君、ねぇ」


 ごくりと焼酎を飲みほす藤代の、喉が鳴る音がやけに響く。


「ねぇ、蓮見。俺のことは試してくれないの?」


 にやりと笑う藤代に、依子は何も言えなかった。藤代はしばらく依子を見つめていたが、やがて「行こうか」と立ち上がる。そうして依子の答えを待たずに、会計へと向かってしまった。

 あっけにとられた依子は、あわててその後を追った。


 店を出てから、藤代は依子の手をとった。その手は熱く、先ほどの嫉妬の目を思い出させる。夏だというのに依子は身震いした。藤代は何となく上機嫌な様子でこっちと手を引く。


「……あの、どこ行くんですか?」


 藤代は何も言わず駅とは反対方向へ歩き出す。依子の質問に答えはなく、なかば強引に手を引かれ大通りを抜けたところで、依子はようやく藤代の行き先に気がついた。


「わたし、帰りますから……」

「駄目だよ」

「駄目って……藤代さん」


 どうしよう、と眉尻を下げて、依子は藤代の横顔を見る。彼は怒ってはいないようだったが、有無を言わせない雰囲気があった。 

 こんなふうに依子の気持ちを気にかけない藤代は見たことがない。彼はいつも何かしかけたとしても、依子が首を横にふればそこで引いてくれた。何が彼を変えたのか。それが伊藤の存在だというのは痛いほどに感じたが、でも彼がそんなにこだわるなんて、まるで……。

 胸騒ぎにも似た予感が胸を駆け巡り、依子の心臓が早く鼓動を打つ。


「……もしかして今向かってるのって……」

「お察しの通り、俺の部屋」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 焦って手をふりほどこうとする依子にかまわず藤代は彼女を引っ張っていく。彼の力は強く、結局そのままずるずると依子は藤代の部屋へと連行されることになった。

 玄関の厚い扉がしまってしまえば、あとは藤代の独壇場である。

 依子は満足な言葉を発することもできず、藤代の荒っぽい口づけを受けることとなった。


「……ねぇ、俺のこと待っててくれるって言ってたよね?」


 まるで吐息のようなささやきに、依子の身がすくむ。確かに言った。覚えている。

 けれど、あの時とは何かが変わってしまっていることに、ここでようやく依子も気がついた。

 この数カ月で依子の心に居場所を作った人物が浮かべば、藤代もまるでそれを感じ取ったかのように依子をきつく抱きしめた。

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