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その手をとれば  作者: ななのこ
第2章 想いに眩みし分岐点 【伊藤編】
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20

 どうなるんだろうと不安が大きかった伊藤との関係は、驚くほど穏やかに依子の中で変化していった。

 何だかんだ言いつつ、土曜日か日曜日のどちらかは伊藤と会うようになり、さまざまな場所へ出かける。水族館やプラネタリウムといったテーマパーク的な場所の他に買い物や映画など、回を重ねるごとに週末に伊藤に会うことが恒例行事として位置づけられるようになっていった。

 伊藤はいつも自然体で、不自然に距離を詰めようとすることもない。だから依子も無理することなく、彼と一緒にいられた。

 

 そして季節はあっと言う間に夏に移り、七月の三連休初日。梅雨もあけてよく晴れた朝、依子は最寄駅前のロータリーで伊藤を待っていた。

 今日は以前話していた横浜の動物園に行く予定で、伊藤が車で迎えに来ることになっている。最初「車で行きましょう」と言われた時は、依子は聞き間違いかと思った。聞けば家の車をよく運転していて、大学時代はそれで仲間とともに遠出することもあったそうだ。

 前の計画通り悠季と早田も誘ったのだが、二人とも都合がつかなかった。早田はアパレルショップに勤めているため休日に休むことが難しいという理由だったのだが、悠季は「お邪魔するわけにはいかないよ~」と完全にこっちに気を遣っていた。そんなことないと依子がいくら言っても聞かなかったため、結局伊藤と二人で行くことにしたのだ。

 

 伊藤から車種と色は聞いていたものの、実際にそれが目の前に停まるまで依子は気付かなかった。急に視界に飛び込んできたシルバーのコンパクトカーは国内大手メーカーの車種で、条件すべてに当てはまっている。きっとそうだと思い近づけば、助手席のドアが軽く開いた。


「お待たせしました」


 聞きおぼえのある声に安心して、その身を助手席にすべらせれば、運転席には伊藤がいる。その姿は普段以上に落ち着いて見え、身にまとう雰囲気もそれに合わせて違う気がする。まるで年上みたいだと、依子の心臓が一度はねた。


「おはよう。今日は宜しくね」


 シートベルトをしめながら言うと、伊藤は微笑んだ。


「こちらこそ。あんまり道混んでないと良いですね」


 言いながら伊藤が車を発進させる。その手なれた様子に、依子は伊藤の新たな一面を知った。


 三連休初日ということで道はそこそこ混んでいたが、渋滞に巻き込まれるというほどでもなく、開園三十分後には動物園に着くことができた。伊藤の運転技術は安定していて、急ブレーキや急発進もなく、乗っていて心地良かった。


 動物園は入口から既に混雑していた。元々それは織り込み済みだったので、依子も伊藤も「やっぱりだね」と笑い合い入園する。園内はファミリー層が多く、そこかしこで子どもが走りまわったり、目の前の動物にはしゃいでいた。それが活気を生み出していて、依子自身も何となく気分が高揚してくるほどだった。


 伊藤は園内マップを見ながら、依子を案内した。動物の所在だけでなく本日行われるイベントもチェックしていて「この時間にゾウのところに行けば水浴びが見られますよ」だの「ライオンの食事、もうすぐですよ」と先導する姿は、まるでガイドのようだった。見たい動物を告げれば、即座にコースを定めてくれる。


「伊藤君、すごいね」


 歩きながら依子は感嘆の意を告げた。伊藤は「そうですか?」と不思議そうな表情で首をかしげる。


「だって、いつどこに行けば何が見られるか、完全に把握してるんだもん。ね、事前に調べてきたわけじゃないんでしょ?」

「はい。今このマップを見ただけですけど……」

「それって理系だから? 情報処理能力が高すぎるよ」

「そ、そこまでですかね」

「だってわたし絶対そこまで把握できないもん! 地図だって読むの苦手な方だし……」

「あぁ、女性は多いですよね」


 女性、とひとくくりにしているが、それはつまり前の彼女のことだろうか。それとも、サークル仲間の女性だろうか。

 伊藤の言葉にひっかかりを覚え、依子はそれをごまかすように咳払いを一つした。

 幸い伊藤には気づかれなかったようで、ほっと胸をなでおろす。

 そして、依子は軽く頭を振って、動物たちの姿に視線を向けたのだった。







 動物園での時間は、思った以上にあっと言う間に過ぎた。

 園内はかなり広かったが、ゆっくりと歩いてまわってほとんどの動物を見ることができた。結果わかったのは、伊藤は割と小動物系が好きで、依子は逆に大きいサイズの動物が好きだということだった。お互い気になる動物の前では、滞在時間が長くなる。それに気付いたのは伊藤で「何だか面白いですね」とおかしそうに笑った。


「動物園楽しかったね。足がすごいことになってる」


 夕方過ぎて退園し、再び伊藤の家の車の助手席におさまった依子は、自分のふくらはぎをさわった。疲れてパンパンだし、むくんでいる。


「前にみんなで走った時みたい」

「確かに今日は一日中歩いてましたからね。帰ったらゆっくり風呂につかって、よく揉むといいですよ」


 言いながら伊藤はエンジンをかけた。そして何かに気付いたかのように空を一度見上げ、依子を向く。


「すみません。ダッシュボードから眼鏡ケースとってもらえますか?」

「うん。……はい、これかな」


 要請に従い眼鏡ケースを伊藤に渡せば、お礼とともにそれが開けられる。中にはサングラスがあった。


「西日がきつそうなんで」


 そう言って伊藤が眼鏡を交換する。その様子から、依子は目が離せなかった。伊藤のサングラス姿は新鮮で、まるで別人のようだ。それをそのまま伝えると、伊藤も「よく言われます」と口の端を上げた。

 目が見えないだけでこんなにも印象が変わるものなのか。

 呆けた様子で見つめる依子に、伊藤はしばらくして呟いた。


「あの……ちょっと恥ずかしいんで、あんまり見ないでもらえますか」


 心なしか耳が赤い。

 おそらく彼はこんなにも依子が興味を示すとは思わなかったのだろう。気まずさからか一瞬サングラスを外したが、もう一度太陽の位置を確認して、再度かけなおした。


「よく似合ってるよ」


 依子はそれだけ言って、自分もシートベルトを締めた。照れる伊藤をもう少し見たかったが、彼にはこれから運転してもらわなくてはならない。


「……どうも」


 伊藤はぼそりと告げて、ギアを入れた。もう一度だけとこっそり伊藤を見たら、今度は耳だけでなく頬まで真っ赤になっていた。

 






「……蓮見さん、もうすぐ着きます」


 低い伊藤の声にはっと意識が浮上する。

 おぼろげな視界がまずダッシュボードをうつし、ついで頭を動かせば伊藤の横顔がある。そして目の前に広がる景色は、何となく見おぼえがある近所のものだった。

 あの後横浜近辺で食事をし、まっすぐ家路をたどる中で眠ってしまったようだ。高速に入ったところまでは覚えているから、そこからずっと寝ていたらしい。


「ご、ごめん。寝ちゃった」

「いいんです。今日は疲れたでしょうから。……あの、停めるのはまた駅前で大丈夫ですか? あと五分くらいで着くと思います」

「あ……うん」


 答えながら時刻を確認する。八時を過ぎた時間は、まだ宵の口だ。伊藤と二人で会っていて、この時間に別れたことはない。

 一抹の寂しさがよぎり、それが間髪いれずにふくらんでくる。

 まだ一緒にいたい、と感じたのは初めてだった。

 それに戸惑いを覚えたが、迷っていてはすぐに駅に着いてしまう。そうしたら伊藤は依子をおろして、帰っていくのだ。


「……あの、まだ時間あるなら、もうちょっと……ファミレスでも寄って行かない?」


 緊張でいくぶんか声が小さめになったが、伊藤には聞こえただろうか。

 おそるおそる依子が伊藤を見ると、彼も依子に一瞬だけ視線を向けた。その視線は優しいもので、嬉しいと彼自身の気持ちを言葉以上に依子に告げてくる。


「もう少し先に確かファミレスがあったと思います。そこで良いですか?」

「うん」


 不思議と満たされた気持ちで、依子は一度目を閉じた。目を閉じると、目を開けている時以上に近くに、伊藤の気配を感じる。それは車の低いエンジン音と重なって、心地良いものだった。


 国道沿いのファミレスは夕食の時間帯を過ぎていたからかすいていた。ボックス席に通されメニューを眺めれば、飛び込んでくるのはデザートのページだ。シャーベットやアイスはもちろん、パフェやあんみつにも心惹かれる。

 それは伊藤も同じだったようで、同じページを食い入るように見つめている。

 吟味してるなぁと微笑ましい気持ちで見つめれば、その視線に気付いたのか伊藤が顔を上げた。目が合ったことに少し驚いた様子を見せた後、上目遣いで依子を伺う。


「……俺、頼みますよ」

「うん、そうだと思ってた」


 実は甘党なんです、と恥ずかしげに教えてくれたのは、確か二度目のデートでプラネタリウムに出かけた時だった。その近くに絶品のケーキ店があると言ったら、伊藤の方から「行きましょう」と熱意を見せたのだ。人気店なのでしばらく待つことになったが、伊藤はそれをものともしなかった。

 そして結構待った後で念願のケーキを食した時の彼は、まさに至福の表情をしていて、不覚にもときめいてしまったのだ。

 

「わたし、プリンパフェ」

「俺はブルーベリータルトにします」


 そして一緒にコーヒーを頼み、二人で夜のデザートを楽しんだ。小一時間ほど話しこみ、今度こそ依子は駅前に送ってもらう。まだもう少し……と思ってしまった気持ちは隠して、笑顔で手を振れば伊藤も微笑みで応えた。

 車が去って行ってからも、依子はその姿を追うようにしばらくそこに立っていた。

 今日一日の自分の心について、帰ってから検証が必要である。

 揺り動かされていると自覚すれば、伊藤の顔がちらつく。驚くほど自然に心に染み入ってきた彼の存在は、すぐには消えそうになかった。

 こうして伊藤とのデートを積み重ねていけば、藤代ではなく彼を選ぶ日がくるのだろうか。

 依子にはまだ判断がつかない。

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