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どこか落ち着いて話せる場所ということで選ばれたのは、先ほどまで走っていた公園だった。
散歩道の中にあるベンチに腰掛ければ、走っている時には気付かなかったさまざまな植物の姿が目に入り、知らず心を落ち着かせた。どの木も青々とした葉を生い茂らせ、それらが揺れる姿は既に初夏の香りを運んでくるかのようである。
「この間の夜に言ったこと、覚えてますか?」
伊藤は前置きもなく、そう切り込んできた。まず本題から入るというのは、伊藤の癖なのだろうか。それとも理系だから、合理的だとか?
脇道にそれた感想を端に追いやりながら、依子はうなずく。
依子の胸中など知らない伊藤は、真面目な表情で自分もうなずき「あの時は酔っぱらっていたので、改めて言います」と、ここで前口上を述べた。
「俺は蓮見さんが好きです。付き合いたいと思ってます」
まるで告白のお手本のような気持ちの伝え方だった。簡潔で明瞭だからこそ、依子の心にストレートに響く。
嬉しい、と思う。
あの夜だってそう思った。
けれど同時に浮かぶ藤代の顔が、依子をうなずかせることを良しとしない。
「……ごめんなさい。伊藤君の気持ちは嬉しいけど、他に好きな人がいます」
小さく頭を下げて伝えれば、伊藤は特に驚いた様子もショックを受けた様子もなくうなずいた。依子がそう言うことを予測していたのだろう。
「蓮見さんがそうだっていうのは知ってます。……でもあの時、蓮見さん言いましたよね。『まだわからない』って。それは、俺にもまだ可能性があるってことなんじゃないですか?」
わからない、なんて言っただろうか。
首をかしげれば、伊藤は「あの時です」と繰り返す。
「蓮見さんが俺に泊まっていかないかと聞いてくれた後、俺言いましたよね。『良いんですか』って。その答えが『まだわからない』でした」
「あっ……あぁ……そうだったね」
伊藤の言葉で、依子はあの時の自分を思い出した。確かに『わからない』と言ったが、それに伊藤の言うような意図があったかどうかははっきりしない。思わず出た言葉だったから、依子自身にも判別がつかなかった。
でも『あり得ない』とは思わなかった。そして『嫌』でもなかった。
「……俺のこと試してくれませんか?」
いやでも、それでも、と考え出していた依子は、伊藤の言葉を聞いて我に返った。空耳だったかもしれないと聞き返せば、もう一度同じ言葉がかけられる。
「試す? 伊藤君を?」
「はい。俺に可能性があるかどうか、見極めて欲しいんです。まだ知り合って日も浅いですし、俺自身も蓮見さんのことをわかってない部分もありますし」
「……試すって言っても、どうやって?」
「蓮見さんがその人としていることを、俺ともしてくれませんか?……そうすれば、同じ土俵に立てる気がするんです」
「それって、伊藤君と藤代さんを比べろってこと?」
「はい」
こともなげに伊藤はうなずくが、依子にはその提案はにわかには飲みこみ辛いものだった。
自分自身が現在そんな立場にいるのである。藤代は、それこそ現在進行形で彼女と自分を比べている。そうされるのがどんなに辛く満たされないか身をもって知っているだけに、それと同じことを自分が伊藤にするなんて考えられない。
依子は「そんなことできないよ」と拒絶の意を表した。
「たとえ試したとしても……伊藤君を好きにならないことだってあり得るんだよ」
「そんなの承知の上です。俺は今ここで振られる方が嫌です」
「でも……」
依子は伊藤の申し出にどう答えたら良いかわからず、足元に視線を落とした。
「お願いします。どんな結果になっても後悔はしません」
力強い言葉に引かれるように伊藤を見れば、彼の強い視線にとらわれた。目をそらしたくてもそうできない何かがあり、依子を困惑させる。断らないといけないのに、はっきりと言うことができない。
……しかしそれはきっと、自分が心のどこかで断りたくないと思っている証だった。
そう気付いてしまった依子は、それでもしばらく逡巡してから、諦めにも似た境地で「わかった」とか細い声で伝えた。
「本当ですか!」
途端ぱっと花が開くようにほころんだ伊藤の顔が眩しく、依子は頬を赤らめた。そんなに嬉しそうにされると、どうして良いのかわからない。依子は目をそらしながら言った。
「……でも、藤代さんとしてることなんて、ただ金曜日に飲みに行くことしかないんだよ」
まるですねたような口調になったことが、自分でも解せなかった。
伊藤は意に介した様子もなく、微笑みながら一つの提案をする。
「じゃあ、俺には週末のどちらかをくれませんか。予定がある週はなしでかまわないので、暇な時には俺との時間を作ってもらえませんか?」
それって毎週デートするってこと?
と聞き返そうとして、すぐに愚問だったと依子の中に飲みこんだ。
当たり前だ。何を試すかと言えば、恋愛対象たりえるかということなのだから。
依子はまた少しの間をとった後、静かにうなずいた。
「……うん。毎週は無理かもしれないけど……」
「ありがとうございます」
伊藤は浮かれた様子を隠しもしないまま「宜しくお願いします」と機嫌良く言った。その表情からは普段のポーカーフェイスの欠片も見られず、それを眺めていた依子も自然に微笑みを浮かべてしまう。
何だかんだ言っても、年相応の青年に見える。
きっと伊藤に言えば怒るか凹むかするだろうからそれは心にしまい、依子も「宜しくお願いします」と頭を下げた。
こうして依子と伊藤は『お試し』の関係になり、五連休は終了した。そして待っているのは、五連勤の現実である。その月曜日の朝、依子は心の底からの重い溜息をついた。おそらく誰しもが似たような気持ちだったようで、初日は社内の各所でのぼやきが重なりあうように聞こえてきたほどだ。
金曜日。何とか五日間を乗り切り、もう限界と早めにあがった依子のもとに、間髪いれずに藤代から連絡が入った。彼も今日はあがるらしい。
一緒に新宿駅から電車に乗り、まっすぐ平吉へ向かう。
そう間があいていないはずなのに、随分と久しぶりに藤代に会った気がした。
「いやー、ビールがうまい! ほんと今週は疲れたね」
「そうですね。休みボケって恐ろしいです」
「あれはもうどうしようもないよね。俺なんて月曜はネクタイするの忘れて出社するとこだったよ」
あははと明るく笑う藤代に軽く突っ込みつつ、依子はその顔を眺めた。彼はこうして自分と一緒にいる時、どんなことを考えているのだろう。
今まで気にもしていなかったことが、頭に浮かぶ。
いつ、どんな時に、彼女と自分を比べるのだろう。
次いで浮かんだ伊藤の顔は、依子に動揺を誘った。
「あれ? どうかした?」
ビール片手に不思議そうに聞かれ、依子はごまかすようにウーロンハイを飲んだ。苦い喉越しが伊藤の顔も、不穏な考えもかき消す。とん、と少し強めにジョッキを置いてから、依子は藤代にメニューを差し出した。
「今日は何だかお腹すいたんで、食べ物多めに頼んでもいいですか?」
「もちろんオッケー。じゃあ揚げ物二種類くらいいっちゃおうよ」
楽しそうにメニューを吟味する藤代に合わせながら、依子は自分の中の変化を感じ取っていた。
それは小さな異物が自分の中にあるような感覚で、違和感といってもかすかなもの。
しかし、これが賽が投げられたということなのだ。
ある意味では、自分も今藤代を試す立場にいるということに、依子はひっそりと震えた。