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その手をとれば  作者: ななのこ
第2章 想いに眩みし分岐点 【伊藤編】
35/54

18

 次の日目覚めた時には、伊藤からのメールが届いていた。


『昨晩は大変心配かけました。無事家に着きました』


 受信時刻は六時半。ということは、漫画喫茶コースだったのだろう。依子は目覚めたばかりの頭をフル回転させて返信をつくる。


『安心しました。今日はゆっくり休んでね。昨日は楽しかったです。ありがとう』


 少し淡泊かなと思ったが、伊藤はそう気にしないだろう。言いたいことが伝われば良い。

 そして少しハッキリした頭で思い出すのは、昨日のやりとり。


 冷静に考えれば、依子は伊藤に告白されたのだ。

 お互い酔っていたし、特に伊藤の方はそれが激しかったわけだが、彼が冗談で言ったわけではないことくらい理解している。伝えるつもりがあったかどうかは別だが、彼の本心はあれで間違いないのだろう。


 今頃伊藤は自宅で眠っているのだろうか。二日酔いになっていないだろうか。あの告白のことを、覚えているだろうか。

 伊藤について思いをはせれば、知らず頬が熱くなり、依子は頭を振って立ち上がった。







 連休四日目は特に予定がなかったので、のんびりと家で過ごした。そして連休最終日。朝も早い時間から、依子は原宿駅に降り立っていた。

 休日の朝八時という時間帯は、さすがに昼は賑わうこの街でも人はまばらである。

 依子はあくびを何回も繰り返しながら、前日に悠季からきたメールを読み返した。


『突然だけど、明日暇? 早田が急に休みとれたらしく、ランニングに誘われたんだけど、依子も一緒に行かない? ていうか行こう。確か予定ないって言ってたよね? もちろんよっちゃんも誘ってるよ!』


 このタイムリーな誘いをどうしたら良いだろうかと、最初は少し迷った。けれど結局依子は行くことにして、こうして朝も早くから原宿にいるのである。


「お早うございます」


 ……こうなることも、予測のうち。

 依子は心の中でつぶやいて、携帯電話から顔をあげた。目の前には伊藤が立っている。当たり前だが、彼はいつも通りの涼やかな表情である。顔色も平常通り、目が据わっていることもない。


「おはよう、伊藤君」

「一昨日は本当に心配かけました」


 伊藤が気まずそうに頭を下げる。それを依子は「大丈夫だよ」と笑顔で制した。


「むしろわたしは送ってもらって助かったし。あの後大丈夫だった? 漫画喫茶行ったの?」

「はい。結局終電間に合わなかったんで、始発で帰りました」

「いや、ほんとお疲れ様でした……」


 あんなことになるならば、もっと早めにあの店を出れば良かった。これは何度も思ったことである。あの四杯目で止めておけば、伊藤も無事で済んだだろう。もしかしたら、あの告白だってなかったかもしれない。

 依子の思考を読んだかのように、伊藤は「俺がしたくてしたことです」と言った。その言葉通り、彼には後悔も迷いも見えない。


「……ありがとう」

「いえ」


 そのまましばらく見つめあっていたが、依子は気持ちを切り替えて「そういえば」と自分のスニーカーを指してみせた。


「ランニング用の靴持ってないから、ただのスニーカーで来たんだけど、これで良いかな?」


 今日履いているのは、持っている中で一番底が柔らかくクッション性がありそうなものだ。一応スポーツメーカーが出しているものなので、これなら良いかと思って履いてきた。

 これじゃあ駄目だと言われたら、今日はランニングではなくウォーキングをするしかない。

 伊藤は不意をつかれたようだったが、すぐに視線を依子の足元に向ける。


「大丈夫ですよ。十分です」

「そっか、良かった」


 伊藤も頭を切り替えたらしく「今はちょうど新緑がきれいな時期ですから、走るのも楽しいと思いますよ」と依子に微笑んだ。


 程なくして早田と悠季もやってきて、まずは原宿駅の近くにあるランニングステーションに案内された。この通称『ランステ』は、使用料を払って、ロッカーやシャワーを借りられる施設である。

 依子も悠季もここで走るための格好に着替えた。お互い大学時代の体育で着ていたTシャツにハーフパンツである。懐かしいねと笑い合い更衣室を出ると、男性陣は既に支度を終えて待っていた。

 早田も伊藤もTシャツにハーフパンツだったが、一つ違うのはその下にスパッツのようなものを履いていることだった。


「わ、何これ。スパッツ? そういえばランナーの人ってこういうの履いてるよね」


 興味深そうに悠季が聞けば、早田は笑って「これ履くと走りやすいんですよ~」と教えてくれる。伊藤もそれにうなずき「疲労軽減効果もあるんです」と補足説明をくれた。


「蓮見さん、帽子ないんですか?」


 悠季と同じく二人のスパッツに目が釘付けになっていた依子は、伊藤の声にはっと顔を上げた。見れば自分以外の三人はみなキャップをかぶっている。


「ないよ。持ってないし……」


 もしや必要だったのだろうか。そういえば、日差しもきつい季節になってきている。日焼け止めは塗っているが、それでは間に合わないだろうか。

 不安そうに顔をしかめる依子に、伊藤は「じゃあ俺ので良ければ」と自分のキャップを依子に差し出した。


「今日は天気も良いですから、あった方が良いですよ。俺はなくても平気なんで」

「でも……」

「よっちゃん優しい! さすが! 蓮見さん、せっかくだし借りた方がいいですよ。まじで今日の太陽暴力的ですから」


 遠慮する依子に、横から早田が口を出す。悠季も「日焼けは女の敵だよ!」と依子の背中を押し、依子はじゃあと伊藤のキャップを受け取った。少しサイズを調整すれば、しっかりかぶることができる。ふわりと伊藤の香りが漂い、依子は顔色を変えないようにするのに苦労した。

 






 原宿駅からほど近い公園は広く、ランニングコースもいくつかある。その中でお勧めだと言うコースをまずは四人で走った。

 運動するのは大学を卒業して以来という依子と悠季に合わせて、最初の一周は早田と伊藤もゆっくり走って先導してくれる。

 まだ朝も早い時間と思っていたが、公園内には多くのランナーがいた。そのペースは、速い人もいればゆっくりの人もいて、割と自由な雰囲気が感じられた。

 

「これで大体2キロ半ないくらいです」


 しゃべっている間にいつのまにか一周目が終わり、元の地点に戻ってきていた。そこで伊藤に言われて、依子も悠季も顔を見合わせる。そんなに走ってきたとは思っていなかったのだ。

 あふれる緑の中を走ることは、事前に思っていた以上に楽しかった。体育のように自分の限界を求められることもなく、ゆったりとできたからかもしれない。


「次はもう二人で走ってきなよ。あたしたちはのんびり楽しんで走るからさ」


 一度大きくのびをした後で、悠季があっけらかんとした口調で早田に言った。ちょうど依子もそう思っていたところだったので「そうだよ」と同意を示す。


「えー……せっかく一緒に来てるんだし」


 と早田は不満そうだったが、「いいからいいから」と悠季に押し切られ、伊藤とともに駆けて行った。走り出したと思ったら彼らの姿はすぐに見えなくなる。彼らのスピードはまわりのランナーの中でもトップクラスで、依子と悠季はお互い唖然とした表情で顔を見合わせたのだった。


「いや、まじであの二人アスリートだね」

「……うん」


 おそらく自分たちはすぐに周回遅れにされるのだろう。そう笑いあいながら、依子と悠季もランニングを再開した。

 二周目はまだ話に花を咲かせながら走ることができた。しかし三周目にはもう疲労がすさまじく、お互い暗黙の了解で途中からはウォーキングに切り替えた。それでもぽつりぽつりとしか会話は交わせなかったのだから、もう限界だった。


 三周目を終えスタート地点脇の芝生に座りこめば、どっと疲れが出て身体が重く感じる。持ってきたスポーツドリンクをものすごい勢いで飲み干し、ようやく人心地ついた。


「いやー疲れた! あたしたち、かなり頑張ったね」


 悠季が首にかけたタオルで汗を拭きながら笑う。依子はそれに一も二もなく同意した。


「ほんと! 良い汗かけたよ」

「これは明日絶対筋肉痛だわ。ていうかもう既にふくらはぎパンパンだし」

「わたしも……」


 自分でふくらはぎを揉みながら、目の前のランニングコースに目を向ける。人の流れをぼんやりと眺めていると、早田と伊藤の二人が走ってくるのが見えた。

 二人とも均整のとれた走り方で、軽やかである。特に伊藤は背筋を伸ばした状態のまま、ぶれることなく手足を動かしていて、その姿は素直にきれいだと感じた。まるで彼の性格が走る姿勢にもそのまま表れているようだ。

 まっすぐでぶれない。

 それは依子から見たらとても眩しいものだった。







「じゃ、あたしと早田はこれから買い物行くから」


 再びのランステでシャワーと着替えを済ませ、四人でランチを食べた後。その店を出るなり、悠季はおもむろに言い放った。依子と伊藤を交互に見て笑顔を作る悠季に、隣の早田もにやついている。

 何となく釈然としない思いを抱いたものの、依子が何かを言う前に二人は「じゃっ」と颯爽と表参道方面へと去って行った。

 この唐突感には、既視感を感じる。

 それは伊藤も同じだったらしく、依子が顔を見上げれば彼は苦笑で応えた。


「この間の逆ですね」

「……意趣返しのつもりかな」

「さあ、どうでしょう。……でもちょうど良かったです。蓮見さんに話があったんで」

「うん、そうだよね。……そうだと思ってた」

 

 依子がそう伝えれば、伊藤は微笑んだ。

 彼が曖昧なままで物事を終わらせるわけがないのだ。

 依子は覚悟を決めて、伊藤とともに原宿の街に一歩を踏み出した。

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