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その手をとれば  作者: ななのこ
第2章 想いに眩みし分岐点 【伊藤編】
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ここからは【伊藤編】です。

第1章16話の続きとなります。

 飲みすぎた、というより飲ませすぎた。

 依子は目の前で真っ赤な顔をしている伊藤を見て、心底反省した。

 あの後調子に乗って5杯目の酒を頼み、それを飲み終わった頃には伊藤の目は据わり始めていたように思う。


「大体蓮見さんは優しすぎます。何でもかんでも相手に合わせていたら、ストレスがたまりすぎて身体壊しますよ」


 突拍子もなく告げられた言葉に、依子はただ目を点にして伊藤を見つめることしかできなかった。相槌がなかったことを気にしたのか、伊藤が手を伸ばし依子の手をつつく。


「聞いてるんですか、蓮見さん」


 そしてじろりとねめつけるようにした伊藤の目を見て、これはまずいとようやく判断したのであった。初めて会った合コンの時の早田の言葉が思い出される。


『よっちゃん、酔うともっと面白くなりますからね』


 もしかして、今の姿がそれなのだろうか。だとしたら、これは面白いというより……。


「蓮見さん?」


 再度せかされて、依子は苦笑いを浮かべた。 


「き、聞いてるよ。心配ありがとう。でもとりあえずわたしは大丈夫だから」

「そうやっていつも大丈夫って言いますけど、全然そう見えません」

「……そうかな」

「言ってくれないのは、俺が年下で頼りないからですか?」

「え?」


 伊藤は至極真面目な表情のまま、依子の答えを待っている。そこに微かな不安を見てとり、依子がまず感じたのは驚きだった。伊藤が年のことを気にしているなんて、考えたこともなかったから。

 依子は「そんなことないよ」と明るく言って、首を横に振った。


「伊藤君のこと頼りないなんて思ったことないよ。むしろ年下ってことも忘れがち。それくらいしっかりしてると思ってるよ」

「……そうですか。ありがとう、ございます」


 少し恥ずかしそうに、目線をそらしながら言う伊藤は、顔が赤いのも手伝ってとてもかわいらしく見えた。こんなふうにはにかむ姿など、今まで見たこともない。お酒の力ってすごいと思わずにはいられなかった。

 伊藤は「それなら」と横を向いたままで呟き、その視線を依子に戻した。


「それなら、俺をもっと頼ってください。愚痴でも何でも聞きますから」


 年下にこんなに心配をかける自分って一体……と思わなくもなかったが、依子はうなずきお礼を言った。純粋に、伊藤がこうして自分を思って言ってくれたことは嬉しい。

 伊藤も依子の反応に満足した様子で微笑んだ。


 それを見て、依子は良い頃合いだと踏んだ。


「じゃあそろそろお会計してもらおうか」


 言いながら店員を呼ぼうとスイッチに手を伸ばすと、「待ってください」と伊藤にその手を掴まれる。


「まだ飲めます。時間もあります」


 見れば、伊藤の目がまた据わっている。


「いや、どう見ても伊藤君限界だから。わたしももうお腹いっぱいだしね。また今度行こうよ」


 ね? と笑みを作りながら伊藤の気をそらし、依子はつかまれていない方の手でスイッチを押した。これ以上ここにいたらまずいという危機感ゆえの行動は素早かった。

 すぐに店員はやってきて、伊藤も最初は不満気な顔をしつつも会計に協力してくれる。ここも出すと彼は言い張ったが、そこは依子が割り勘を勝ち取った。

 

 伊藤のことを支えた方がいいだろうかと心配した依子だったが、案外彼の足取りはしっかりしていた。きっちり依子を店の入口まで先導し、外に出た瞬間に「家まで送ります」と高らかに宣言する。


「いや、大丈夫だよ。一人で帰れるから」


 依子が動じず断ると、伊藤は依子の顔をわざわざのぞきこんで言った。


「駄目です。もうこんな時間ですから心配です」


 既に十一時を過ぎていたので、伊藤が『こんな時間』というのもわかる。しかし依子と伊藤は路線が違う。依子を家まで送って行ったら、それこそ彼が電車をなくし家に帰れなくなってしまう。そこまでして送ってもらうなんて、申し訳なさすぎた。


「大丈夫だって。電車たくさんあるし、心配なら駅からはタクシー乗ることにするよ。それなら安心でしょ?」

「いいえ。電車で何が起こるか分かりません」

「起こらないから! 今まで変な目にあったことないし」

「今日がその日かもしれないです」

「いやだって、伊藤君がわざわざうちまで来ちゃったら、それこそ伊藤君が帰れなくなるよ」

「大丈夫です。終電逃したら、圭吾のところにでも行きます」

「だめだめ、今日香織が泊まってるもん」

「……それなら、漫画喫茶に行きます」

「そこまでしてもらうほどの距離じゃないから!」


 なかなか折れない伊藤に依子は疲れてきた。

 先ほどから薄々と感じていたことだが、酔っぱらった伊藤は普段の二倍以上は感情的で頑固である。

 はたから見れば面白いんだろうけど、相手をする方にとっては、ちょっと面倒くさいものがある。

 押し問答の合間を縫って、依子は小さく息をついた。らちが明かないと思ったのは伊藤も同じだったらしく、むんずと強引に依子の手をつかむ。


「じゃあ俺が蓮見さんに好きだって言えば、送らせてくれますか?」

「……はい?」


 依子は伊藤の言葉についていけず、思い切り顔をしかめた。

 今、彼は何て言っただろうか。好きだと言った?

 その内容もそうだが、それと家まで送ることと何の関係があると言うのか。


「あの……それ、関係あるの?」


 素直にそう質問すると、伊藤はしたり顔でうなずいた。


「俺にとって蓮見さんは特別な人なんです。好きなんです。だから心配で、こんなに遅い時間になったら家まで送りたいと思うのも普通のことでしょう?」

「あ……うん、そっか。……それは、ありがとう……」


 さらりと流したくなるが、伊藤の言葉の破壊力は大きかった。今度は依子の顔が真っ赤になる番である。

 こんな路上で、しかも一応通行人もちらほら過ぎる中、告白を受けることになるとは……。

 はっと気づいてまわりに視線をまわせば、今まさにすれ違おうとした女性の微笑みが視界に飛び込んでくる。完全に周囲に聞こえていると気付かされ、依子の頬の温度がまた上がった。


「わ、わかったから! じゃあお願いします。送ってください。だから早く行こう!」


 もう一秒たりともこの場にいたくない。逃げ出したい。恥ずかしい。

 さまざまな思いが入り乱れて、依子は伊藤の返事を待たずに歩き出した。手はつかまれたままなので、自然と伊藤もついてくることとなる。

 伊藤はそれはそれは嬉しそうに「はい」と笑い、依子の手をつかみ直した。一気に疲れた依子はそれを振り払う気力もなく、うなだれたまま新宿駅までの道のりを歩いたのだった。



 




 ちょうど日付が変わる時刻。依子が自分の家に着いた時間である。隣にはもちろん伊藤がいる。彼の表情は使命を果たしたと言わんばかりの凛々しいものだったが、その顔色は真っ青だった。

 伊藤の顔色は、電車に乗ってしばらくすると、みるみるうちに白くなった。そして時折口元を手で覆う仕草をするものだから、依子の方はハラハラし通しである。持っていたお茶を無理やり飲ませ何とか気を保ってもらったが、降りた瞬間にホームにあるベンチに迷わず直行した。

 幸い伊藤は外の風にあたることで吐き気はおさまったようだが、依子の部屋までの道のりは少しつらそうだった。

 これでは電車はもちろん、漫画喫茶に送り出すのも気が引ける。

 依子は「玄関入るまで……」と言いかけた伊藤の袖を引いた。


「……うち来る?」


 そう聞けば、彼が目を開く。


「今からどこか移動するの、つらいでしょう」

「駄目です!」


 どこにそんな元気が、とびっくりするくらい張りのある声だった。伊藤は眉を怒らせて、依子を見下ろす。


「蓮見さん、俺がさっき言ったこともう忘れたんですか。好きだって言ったんですよ。そんな男を家にあげたら、どうなるかわかってるんですか」

「だって……伊藤君、今にも倒れそうだし」

「俺は大丈夫です。酔いは走れば抜けますから。……それとも、蓮見さんは良いってことですか?」


 後半部分を急に低い声でささやかれ、依子は固まった。肝心なところで言葉足らずとは思ったが、伊藤の言わんとしていることはわかり依子はうつむく。また頬に熱が集まってくる。


「急だったし……そんなすぐには分からないよ」

「それなら簡単に家にあげたらだめです。俺のことは心配しなくていいですから」


 見上げれば、伊藤は微笑んでいた。顔色は悪いままだが、その表情はしっかりとしてきているように見える。


「じゃあ、今日はありがとうございました。蓮見さんもゆっくり休んでくださいね」

「……本当に大丈夫?」

「はい」


 見たところ、確かに伊藤は落ち着いてきているようだ。これ以上依子が言い募っても彼は首を縦には振らないだろうし、もし家に泊まって過ちが起こってもいけない。せめてと、依子はバッグの中のお茶を伊藤に渡した。残りは半分ほどになっていたが、ないよりはましだろう。


「じゃあこれ、持って行って。あと、できれば家についたらすぐ連絡ちょうだい。何時になってもいいよ。……心配だから」

「……はい。ありがとうございます」


 その後、玄関に入るのを見届けるという伊藤の主張に依子が折れ、彼の視線を感じながら玄関を開けた。半身を入れた状態で振り向くと、伊藤は満足げに微笑んで手を振っている。それに手を振り返して、依子は部屋の中に入った。

 ぱたんとドアを閉じて、ひとつ呼吸をして、再度ドアを開ける。

 伊藤は背を向けて歩き出していた。その後ろ姿を見つめながら、依子はまた一つ息を吐いた。

 どこか残念に思っている気持ちを押しだすように。後ろ髪ひかれる気持ちを、なかったことにするように。

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