【IF:29】 どうか俺にください
藤代編28話から派生した『もしもあの時の伊藤が、かなり思いつめていたら……』というIFバージョンです。28話の次の話としてお読みいただくと、場面がつながります。
今回は伊藤視点で書きました。
本編とは少し彼の性格が変わっているのでご注意ください。
更に言えば、本編の余韻は消し去る勢いですので、そちらもご注意ください。
その揺れる瞳を見て、伊藤は自分の中に希望の火が灯るのを感じた。
かすかでも迷ってくれれば可能性はある、と考えていたからだ。
伊藤の視線の強さに気圧されたのか、依子は後ずさったまま視線をそらす。彼女はゆるく首を横に振り「……ごめんなさい」と小さく呟いた。
「伊藤君の気持ちは嬉しいけど……」
自分は今藤代と付き合っているし、彼が好きだから。
告げられた言葉は、伊藤が事前に予測していた内容と同じだった。彼女ならそう言うと思っていた。そしてきっと、笑うのだ。それは悲しそうに、ひっそりと。
依子のその表情が、伊藤は嫌いだった。
無理をして笑っているのがあからさまで、胸が痛む。そして同時に、相手の男へ憎悪にも似た気持ちがわきあがるのを止められない。
彼女にそんな顔をさせる奴が、どうして彼女の心を奪っているのか。
何度、憤りに胸を焦がしたことか。
そして今、目の前で依子は伊藤が恐れていた表情を作った。伊藤に気遣うような視線を向け、再度謝った彼女は立ち上がる。
その手を無言でつかめば、びくりと彼女の身体が強張った。
「待ってください」
地を這うような声で伊藤は依子を呼びとめ、その手を強く引いた。依子は目を見開きつつもそれに素直に従い、再びベンチに腰をおろす。
「言ったはずです。俺ももう限界だって」
「……伊藤君」
「ずっと諦めようと思ってました。蓮見さんが幸せならそれで良いって思いこんで……。でもそうじゃないですよね。蓮見さんの幸せは、そこに本当にあるんですか。遠慮と不安で成り立つ関係は、あなたを救ってるんですか?」
彼女を責めたいわけじゃない。けれど心とは裏腹に、責めるような調子になった。
「……そんなふうに、言わないで」
依子は気まずそうに伊藤から視線をそらし、膝の上で手を握り締める。その手が震えているのを見てとり、伊藤はそれを両手であたためるように包み込んだ。依子が反応を示すより早く、強く外側から握り締めて言葉を紡ぐ。
「ずっと蓮見さんを見てました。蓮見さんはいつもあの人のことを考えていたけれど、それは嫌われないように必死で取り繕うためですよね」
「違う!」
「違いません。だから、いつまでたっても相手を信じきれない。自分と同じように、相手も偽りの姿を見せているって思ってしまうからじゃないんですか」
「そんなこと……」
依子は必死で首を振って否定する。その様子は痛々しく、自分の言葉が刃となって彼女の心に切り込んだ証拠だった。しかしそれこそ伊藤の望むところだったのだ。たとえ彼女の心をえぐることになったとしても、伊藤は依子の本心が知りたかった。
じっと見つめる伊藤に対して、依子はうつむいたまま震えている。目尻から涙が一筋こぼれたのを見て、伊藤は彼女を自分の内側に引き入れた。瞬間彼女は抵抗したが、それ以上の力を腕にこめれば次第におとなしくなっていった。
「……俺は、蓮見さんにはまっすぐ感情を出して欲しいんです。そんな蓮見さんを見たいんです。無理して笑っているのを見ると、俺も苦しくなるんです」
優しく背中をさすりながら伝えれば、それが引き金になったらしく本格的な嗚咽がもれてくる。
ようやく、泣かせることができた。
高揚する気持ちを必死で落ち着かせながら、伊藤は何も言わずに依子を抱きしめ続けた。細かく震える身体に愛しさがこみあげ、ようやく念願叶ったことに伊藤も少し震えた。
依子がひとしきり泣いて呼吸を整え始めた頃、伊藤は「……ひどいことを言って、すみません」と低く告げた。
でもこうでもしないと、あなたは我慢するでしょう。
真意は飲みこみ、伊藤は優しく依子を解放する。落ち着くのを見計らったつもりだったが、彼女はうつむいたまま答えなかった。小さくしゃくりあげる音が聞こえる。
「家まで送ります」
「……いい。大丈夫」
依子はバッグからハンカチを取り出して、目元にあてた。アイメイクと目の腫れを気にしているのだろう。そのうちに手鏡で目元を確認して、大きな溜息をついている。
「大丈夫ですよ。そんなに跡ついてません」
苦笑しながら伊藤が伝えれば、依子は「そんなことない……」と悲しそうに呟く。伊藤から見ればそう目元が崩れた気はしないのだが、おそらく依子にとっては小さな変化も大きな問題なのだろう。
「気になるなら、俺が電車でも目元隠してあげますから」
こうやって、と自分の手を依子の目元にかざせば、彼女は口だけで笑った。
「それ、かえって怪しいから」
小さな笑い声が漏れたことに安堵していると、彼女のバッグの中で携帯電話が震える音がした。さっと彼女の顔色が変わる。それをつかもうとバッグをさぐる依子の手首を、伊藤は押さえつけるように握った。
「今日はまだ、俺に時間をください。お願いですから……」
懇願するように言えば、また先ほどのように依子の瞳は揺れた。
彼女は本当に優しい。
人を拒絶することに慣れていないのが、手に取るようにわかる。
依子は迷う視線を、伊藤とバッグに交互に向けていたが、しばらく主張していた携帯電話の音が止まった瞬間に軽く息を吐いた。
「……わかった。でも今日だけだから。わたし、本当に伊藤君とは……」
「ありがとうございます」
依子の言葉を遮って、伊藤は立ち上がった。これ以上何度も断りの言葉を聞かされてはたまらない。依子は眉尻を下げ、それに従う。不承不承といった雰囲気がありありと伝わったが、それでもかまわなかった。
歩き出そうとする伊藤に「少し待って」と言いながら、依子は思案顔でメールを作り始めた。険しい表情の理由は、うまい言い訳が思いつかないからか、彼氏よりも振った相手を優先することに罪悪感がわいているからか。どちらの理由かはわからなかったが、伊藤にとっては、今この瞬間自分が選ばれたということだけが重要だった。
ぽつりぽつりと言葉を交わしながら新宿駅までの道を歩き、電車に乗る。ほどなく電車は依子の最寄駅につき、伊藤はこみあげる懐かしい思いとともに依子の部屋を目指した。
去年まではずっとここを拠点として日々を過ごしていた。それが遥か遠いことのように思える。
大学時代に、もしかしたら依子とすれ違うことだってあったのかもしれない。その頃に出会っても、自分は自分で彼女がいたが、それでももっと早く出会いたかったと今は思う。
せめて、彼女があの男にからめとられる前に、と。
目的地のアパートに着き、部屋の前までと伊藤が主張すると、依子は困った顔をしながらも玄関先までの帯同を許してくれた。
鍵を使ってドアを開け「ちょっと待っててね」と伊藤に告げて、依子は一人部屋に入って行く。
薄く開いたドアの隙間を何とはなしに眺めていると、依子はすぐに戻ってきた。手にはパックの野菜ジュースが握られている。
「大したものじゃないけど、送ってくれたお礼。帰り道にでも飲んでね」
はい、と差し出され、片手で受け取る。冷蔵庫に入っていたのだろう。パックはとても冷えていて、触発されるように喉が渇きを訴えてきた。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げれば、依子は微笑む。
そういうところが好きなのだ。じんわりと実感し、伊藤も笑みを浮かべた。
彼女がくれる優しさに、向けられる笑顔に、想いと期待を積み重ねてきた。いつかそれが満たされた時には想いを告げようと考えていた過去の自分が本当に憎らしい。そんな悠長なことを言わずに、気付いた時点で彼女を求めればよかったのに。
満たされるなんて、この距離で感じられるわけがないのだ。
「……すみません」
それは何に対する謝罪なのか。伊藤自身にもよくわからなかったが、動くことに迷いはなかった。ドアを開け放ち、すばやくその身を中に入れる。
「伊藤君!?」
あわてた様子で依子も玄関に入ってくる。それを見計らってドアを後ろ手で閉めると、困惑した表情の依子が自分を見上げていた。二人で暮らす部屋と言えど、玄関はそう広くない。今日一番の至近距離に、伊藤の胸がどくりと一度鳴った。
「……今日は、もう一人の蓮見さんはいないんですか?」
もらったばかりの野菜ジュースを靴箱の上に置き、ひそやかな声でたずねれば、依子の顔は強張り首を横に振る。
「……いるよ。もう寝てるだけ」
「そうですか」
その言葉の真偽は分からない。五分五分だな、と自分の中の冷静な部分が分析する。しかし、伊藤にとって香織がいるかどうかは大きな問題ではなかった。いたらいたでかまわないし、いないなら……。
考えるのを止めて、伊藤は依子を抱きしめた。先ほどの倍くらいの力で、それこそ彼女をしめつける強さで。
腕の中で「ぎゃっ」とくぐもった声がする。
「お願いします。俺を選んでください。蓮見さんを不安にさせないって約束します」
「……だめ。離して、伊藤君……」
「嫌だったら、もっと本気で抵抗してください。声をあげてもかまいません」
「だって……そんなことしたら、香織が起きて……」
「そんなのどうだって良いです」
このチャンスを逃せば、きっと依子は自分を遠ざける。彼女の中に根強く居座るあの男への、忠義心にも似た想いにとらわれて。
焦りは渇望となり、猛烈な渇きと飢えが伊藤を突き動かしていた。
もう抑えることができない。
「お願いです。止めるなら蓮見さんが止めてください。俺なんて対象外だって、迷惑だって言ってください」
吐き捨てるような呟きに、依子が息を飲んだのがわかった。息を殺して、依子の反応を待つ。彼女は抵抗もせず身じろぎもしないが、伊藤は腕の力をゆるめなかった。
そうしながら、ふと自分が獣のようだと自嘲気味に思う。
まるで、満月の夜にいきなり変身する狼男のようだ。まわりから草食系とばかり言われてきた自分が狼というのも変な話だが、血が沸騰するような感覚は獣を連想させる。
これまでずっと彼女の前では優しく冷静な男でいたというのに、この変貌。自分で自分がおかしくて笑ってしまう。
「……そんなこと、言えない……」
随分と長い間の後で、消えそうな声で依子はつぶやいた。その言葉を確かに伊藤の耳は拾い、また一度心臓がはねる。
「お願い、迷わせないで……」
その答えは、伊藤にとってはイエスと同義だった。
隙があるなら、つけいる。
そう決めていたのだから。
何かに憑かれたように、何かに酔ったように、伊藤は依子をドアにおさえつけてその唇を奪った。
依子は小さく嫌がって顔を左右に振ろうとしたが、それすらスパイスとなって伊藤を追い立てる。
蓮見さん。
心の中で呼びかける。
俺の前では、何も隠さなくて良いんです。
むき出しの感情を見せてください。
そして、その全てを俺にください。
伊藤のそんな懸想は情熱的な行動となって、惑う依子を飲みこんでいった。
……そして始まるドロドロ展開。という【IF編】でした。
今後の展開はご想像におまかせします。
伊藤を救済したいと思って書き始めたはずなのに、全然そうならなかったような……(*_*;
この【IF編】では伊藤の性格がかなり振り切れています。
本編の彼が理性で抑え込んだところを、自ら解放してる感じですね。
普段がまん強い人のタガが外れると、こんなになっちゃうということでご理解いただけるかな……そうだといいな……。
伊藤のイメージが崩れてしまったという方がいたら、本当にすみません。
これはあくまでも「もしも」のパラレルワールド話なので、
この後の【伊藤編】ではもっと爽やかなヒーローになるはず!です。




