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その手をとれば  作者: ななのこ
第3章 芽吹きを目指す冬の道 【藤代編】
32/54

32 (藤代編end)

 よく晴れた空の下、依子と伊藤は新宿駅からほどよく歩いた場所にある庭園にやってきていた。

 土曜日のそこは早咲きの桜を楽しむ人たちで賑わっている。散歩道を歩いたり、見事に咲いた桜を眺めたり、レジャーシートを敷いてのんびりしたりと、それぞれが思い思いに春の訪れを楽しんでいた。

 

 話があると連絡した依子に、この場所を指定したのは伊藤である。


『春の花が見ごろですから』


 そう提案され、もっと簡単な場所で会おうと思っていた依子は迷ったが、結局はそれに乗ることにした。

 桜の開花宣言はまだだったが、庭園内は各種の桜がもう既に咲き誇っている。枝垂しだれ桜の優雅な姿には知らず溜息がこぼれる。花見の名所と言われるのもうなずける。今まだつぼみの桜が一斉に咲いたら、それはもう迫力がある程の美しさとなるだろう。


「桜って色んな種類があるんだね」


 園内のガイドマップを見ながら呆けたように依子が呟くと、伊藤は嬉しそうにうなずいた。この庭園の外側を走ることも多いらしく、その後は決まってここで休憩していくそうだ。


 依子と伊藤も多くの人と同じように、散歩道をゆったりと進む。春の風がひらりと気まぐれに吹いては二人のもとに花びらをとどけ、それに微笑み合いながらも、依子はタイミングをはかっていた。

 こうして春の散歩も楽しいが、それに気を取られてはいつまでも伊藤に何も言えなくなってしまう。いいかげんもう言わなくてはと覚悟を決めて、依子はガイドマップをバッグにしまい伊藤に視線を向けた。


「あのね、伊藤君、こないだの話なんだけど」

「はい」


 伊藤は依子が口を開くのを待っていたのだろう。散歩道から外れ、太い幹をもつ木の下に依子を誘導した。まわりに桜の木がないからか人気も少なく、大事な話をするにはうってつけに思える。向かい合ってから伊藤は「お願いします」と依子に続きを促した。


 しばらく沈黙した後で、依子は「ごめんなさい」と頭を下げた。


「やっぱり伊藤君の気持ちには応えられません」


 伊藤からはしばらく反応がなかった。伺うように視線を上げると、伊藤は穏やかな表情で依子を見ている。


「……あの人と、付き合い続けるんですね」


 静かな声は、ともすると聞き逃しそうだったが、かすかに震えていた。自分のせいで伊藤を二度も悲しませることが、どうしようもなく切ない。

 それでも、選ぶというのはそういうことなのだ。藤代の手をとった依子にできることは、伊藤に引導を渡すことしかない。


「うん。やっぱりわたしは藤代さんが好きだから。……今までお互い良い面しか見せてこなかったけど、これからはどんな面でも見せていこうって話になったの。そうすれば、少しずつでも信じていける気がするから……」

「そうですか」


 伊藤は依子の言葉に微笑んだ。

 数日前のように食い下がることはなく、彼も彼で依子の答えに納得しようとしているのだろう。その気持ちを想像すると胸の痛みが強まるが、それを表に出さないようにして、依子も微笑んだ。


「……最後に一度だけ、握手してもらえますか?」


 最後、という言葉に、彼の決意がにじみ出る。

 依子も覚悟はしていたが、その言葉の重みに涙腺が刺激された。

 もう悠季や早田とともに飲みに行くことはないのだ。はしゃぐ早田をたしなめる伊藤を見られないし、悠季に突っ込まれて憮然とする伊藤も見られない。楽しい時間が失われることは大きな悲しみを伴い、依子は一度うつむいた。

 そのまま無言で、差し出された伊藤の手を軽く握る。


「蓮見さん」

「……何?」

「ありがとうございました」


 ここで、その言葉は反則だ。

 依子は我慢できず、一度嗚咽をもらした。

 それを合図にしたのか、伊藤が依子を柔らかく包む。「だめ」と依子が両手をつっぱっても、伊藤は動じなかった。


「蓮見さんなら、そう言うと思いました」


 頭上で軽く笑う声がする。


「でも、最後くらい無理を通させてもらいます」

「……伊藤君」

「……ずっと好きでした。もっと早く、俺も自分の気持ちを伝えれば良かった。何度も後悔しました」


 依子は抵抗をやめた。

 けれど、手を伊藤の背にまわすこともしない。

 ただただ、伊藤の腕の中でそっと息をしていた。深く呼吸していれば、涙がこぼれ落ちるのをとどめることができる。


「どうか……幸せに」


 その言葉の余韻もないままに、伊藤は依子を解放した。微笑む彼の目尻は少し赤い。けれど、依子はそれに気付かないふりをした。


「ありがとう」


 そう伝えると、伊藤は「こちらこそ」とうなずく。

 いつか依子がきれいだと感じた微笑みで、伊藤が別れの言葉を紡ぐ。そして、二人でそれぞれ別の方向への一歩を踏み出した。

 泣いてはいけない。振り返ってはいけない。

 依子はそればかりを念仏のように唱えて、ひたすらに足を動かした。





 


 藤代に連絡をいれたのは、庭園を出てから三十分程たってからだった。駅へ向かう途中の喫茶店で、依子は自分を落ちつける必要があったのだ。

 

 伊藤を選ばなかったことを後悔はしていない。

 だからこそ、藤代の前には吹っ切れた顔で出て行きたかった。

 それは『どんな面でも見せよう』という話を早速無視していることになるが、それでも伊藤のことで悲しい気持ちを藤代に慰めてもらうというのは、何か違うような気がした。


 もう大丈夫だと思って藤代に電話をすると、彼はちょうど仕事が終わりそうと弾んだ声で依子に告げた。

 彼は今、会社にて積もりに積もった仕事を休日返上で片付けているところだったのだ。


『お恥ずかしながら……』


 昨晩、頭をかきながら藤代は依子に告白した。

 自分もこの二日間まるで仕事に身が入らず、データ処理や要確認の書類が山積みなのだ、と。


『あの日距離をとろうなんて言ったけどさ、帰ってから後悔の嵐よ。しかも依子も結構まわりから心配されてたでしょ。あれを背中で聞いてた俺のいたたまれなさといったら……もうまじ針のムシロですよ。やっぱり取り消そうかなーとか思ったんだけど、さすがにそれはカッコ悪いかと思って自重したり……まあこんな感じで、俺も悶々としてたわけ』


 会社での藤代は、それこそ平常運転に見えた。涼しい顔で業務をこなし、いつものように冗談をふるまう姿に、依子は恨めしい気持ちを抱いたほどだった。それが、その内側ではそんなことが起こっていたとは……。

 相当やせがまんしてたんだなと思うと、自然と笑みがこぼれる。吹き出した依子を見て藤代は口をとがらせ、そっぽを向いた。そのすねる様子がおかしくてまた笑えば、藤代はますますふてくされてしまい、気を取り直してもらうのに苦労したのだ。


 待ち合わせ場所に向かいながらその時のやり取りを思い出し、ふと笑みがこぼれる。

 そんな自分に依子は安心した。

 そしてそこからは、先ほどとは違う心持ちで前だけを見て歩いたのだった。







 藤代は、伊藤とのことをあれこれとは聞いてこなかった。

 きちんとけじめをつけてきたという報告に対して「お疲れ様」と優しく言った藤代を見て、もしかしたら彼はお見通しなのかもしれないなとぼんやり思った。

 依子が伊藤に迷ったことも、別れを悲しんだことも。

 けれど、それを越えて依子が藤代を選んだことも。


 新宿で軽く食事をして、藤代の部屋に帰ってくる。DVDでも観ようかという話になり、依子はリビングの棚を物色していた。そうしながら、もう一つ藤代とけじめをつけなくてはならないことについて考えを巡らせる。

 

 伊藤と別れた後に過ごした喫茶店で、依子はある事実を思い出したのだ。

 これは早めに藤代に言っておかないと、またこじれそうな予感がする。

 気もそぞろに依子は一枚のアクション映画を選び、それを藤代に渡す前に話を切り出した。


「……あの、昨日の話なんですけど」

「ん? プロポーズの返事?」


 ソファにゆったり座る藤代は、聞きながらも察している顔である。軽く手招きして依子をそばに寄せると、彼女の肩をゆったりと抱いた。ひとまずDVDをローテーブルに置き、依子も藤代のあいている手に両手を添える。


「はい。……あの、わたし、まだ藤代さんとは一緒に暮らせません」

「えっ、そうなの!?」


 依子の言葉に、逆に依子の手をつかみなおして、藤代は彼女を見た。完全に予想外、とその顔が伝えてくる。その藤代の反応に申し訳ない気持ちになりつつ、依子は昼間喫茶店で気づいたことを告げることにした。


「実は今の部屋、こないだ更新したばっかりなんです。だから急に引っ越すのはちょっと……。そんなこと言ったら香織も困るだろうし……」


 依子の言葉に藤代の目が細まる。


「おーおー、それはまた現実的な理由をありがとう。……それで、結婚の方はどうなの? もしかして、それも保留?」


 目の奥に鋭い光をたたえながら、藤代はあくまでにこやかに依子にたずねた。笑っているけど笑っていない。その顔の迫力に依子は後ずさりながらもうなずく。


「……いいですか?」

「良くない!」


 はじかれたように藤代は依子の肩をつかみ、咆哮した。


「良くない! 全然良くないよ! 昨日の言葉は嘘だったの!?」


 藤代から飛び出した言葉に、依子は目をむく。結婚しますとか一緒に暮らしますなんてことは、一言も言っていないはずだ。


「昨日の言葉って何ですか!?」

「ベッドで言ってたじゃん。『ずっと一緒にいてください』とか『もう離さないでください』とか情熱的にさぁ。その上、いつもは許してくれないあんな……」

「ぎゃーっ! 言わないでください! 恥ずかしいです! ていうか、それそういう意味じゃないですから!」


 急に昨晩のことを思い出させられ、依子は両手で顔を覆った。めくるめく夜の営みは既に霞がかっているが、確かに自分も感極まって色々な言葉を発したのは覚えている。

 そこから言質げんちをとられるなんて!

 叫び出したい気持ちを抑えて、依子は荒く息をした。顔が火を噴くほどに熱い。


「俺なんて、今からだったら秋頃に挙式できるかなとか、その時期の新婚旅行ならどこが良いかなとか……。西さんへの報告まで考えてたのに~」


 早口でまくしたてられる内容にめまいがする。

 藤代の思考の飛躍っぷりに頭が痛い。

 この人もしかして妄想癖があるんだろうか。そうでないとしたら、楽観的すぎるのか。


「いくらなんでも気が早すぎです!」


 依子も負けじと叫び、ねめつけるような視線を送れば、藤代は苦笑して両手をあげた。降参のポーズである。


「ストップストップ! 怒らないで、冗談だって。……いいよ、俺待つから」


 急にトーンダウンした藤代は、先ほどとは百八十度違う表情で柔らかくうなずいた。真面目な表情への切り替えが早すぎて、いまだ息が上がっている依子とは対照的である。それをくやしく感じながら、依子も息を整えることに専念した。

 藤代はそれを手伝うかのように、柔らかい手つきで依子の頭をなでる。


「依子を困らせたいわけじゃないんだ。結婚って言ったのも、俺の気持ちを知って欲しかったからっていうのが大きいし。だから気にしなくていいよ」


 まるで子供を落ち着かせるかのようなゆったりとした調子で藤代は言った。

 その表情は柔らかいものだったが、彼が無理しているのが手にとるように分かる。前の彼女へプロポーズして苦い思いを味わった彼が、そんな軽い気持ちで再び結婚の話を切り出すわけがないのだ。

 

 しばらく藤代のされるがままになっていた依子だが、意を決して顔を上げる。


「藤代さん……わたし、藤代さんにプロポーズされて、急でびっくりしたけどすごく嬉しかったんです」

「うん」

「……だから、一年後にもう一回言ってもらえませんか? 一年後なら引っ越しもできますし……結婚だって、きっと……」

「きっと?」


 言いながら藤代の表情がみるみる明るいものになっていった。

 その先は察して欲しいという依子の願いはどうも黙殺されたようで、彼はひたすらに依子からの言葉を待っている。にやにやと笑っていて、絶対にわかっているはずなのが憎たらしい。


「……続きはその時です!」


 そう言うなり、依子は照れ隠しに藤代の胸に飛びついた。「わっ」と頭上で声があがるが、しっかりと背中に両手がまわされる。


「わかったよ。じゃあ一年後にもう一回ね」

「……お願いします」


 腕に力をこめると、藤代も同じだけ抱きしめる力を強めた。目を閉じて藤代の胸に顔をすりよせれば、いつのまにか慣れ親しんでいた彼の香りが依子を包む。それをめいっぱい吸い込んで、依子は小さく微笑みをこぼした。

 幸せってこういうことなのかもしれない。

 しみじみと依子が感じていると、藤代が明るい声で言った。


「しっかし俺ってプロポーズ運ないよねぇ」


 そのあっけらかんとした響きに、依子も笑って「そうですね」と返す。


「ちょっと、そこフォロー入れてくれないの~」


 不満気に言いつつも、腕はしっかりと依子を包み込む藤代が、とてもかわいい人に思えてくる。これまで彼に対して『かわいい』なんて印象を抱いたことがなかっただけに、その心境の変化に依子は驚いた。

 けれど、きっとこれからはこんなことも多くなるのだろう。

 逆に、藤代が依子に抱く印象も変化していくかもしれない。


 それを恐れる気持ちはまだあるけれど、今はこの身をゆだね、依子は未来を夢見ることにした。

 きっと大丈夫。

 新しい気持ちで向き合い始められた今だからか、自然にそう思えた。

これにて【藤代編】は完結となります。

今までお読みくださった皆様には深く感謝しています。

本当にありがとうございました。


この後は【IF編】と称して、本編から派生した別展開の話を書く予定です。

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