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その手をとれば  作者: ななのこ
第3章 芽吹きを目指す冬の道 【藤代編】
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 その日の夜は、気を張っていたのかベッドに入った途端すぐに眠りに引き込まれた。

 次の木曜日は、朝から藤代と伊藤の顔が交互にちらつき、仕事に支障をきたした。

 金曜日にいたっては、暇さえあれば彼らそれぞれとの思い出が走馬灯のように浮かんでは消えていき、自分の席で叫びそうなほどだった。


 太田からは『顔が壮絶すぎる』との苦言とともにココアを差し入れてもらい、同僚の営業事務からは黙ってチョコレートを差し出され、依子は何とか金曜日を乗りきった。仕事に片はついていなかったが、太田からの命令であがらされる。それでも夜は大分更けた時間だった。


 会社を出る前にちらりと振り返り、まだパソコンに向かう藤代の背中を視界に入れる。距離をとろうという言葉通り、彼からは何のアクションもない。会社で目が合えば微笑んでくれる。けれど、それだけでは気持ちは満たされなかった。


 心身ともに疲れている自覚はあったが、依子はすぐに電車には乗らず、駅直結のビル内にあるコーヒーショップに寄ることにした。家に帰るよりこういう場所で考える方が、頭の中が整理できそうな気がしたのである。

 たっぷりサイズのコーヒーとサンドイッチ、更にチョコデニッシュも購入した。こんな夕食の日があったって良いだろうと心の中で呟き、カウンター席に座る。


 この店に伊藤と来たのは、ちょうど一年程前のことだ。

 ガラスの向こうを行き交う人々を眺めながら、もうそんなに時間がたったのかと少しの驚きとともにあの時を思いだす。ここで伊藤に初めて藤代の話をしたのだ。その時彼に言われた言葉は、今でも覚えている。


『恋愛に、あらかじめ最適な選択とわかっているものはないと思います』


 その達観した物言いに、本当に年下だろうかと思ったものだ。けれど伊藤の言葉はもっともで、しっかりと自分が納得するまで考えることが重要だと気付かせてくれた。


 伊藤の良いところなど、いくらでもあげることができる。優しくて真面目で、もし付き合えばきっと依子を不安にさせることはない。

 

 それでも、どんなに伊藤を思い出しても、直後にちらつくのは藤代の顔だった。

 藤代は自分と伊藤を天秤にかけて良いと言っていたが、その結果はこの三日間変わらなかった。

 確かに伊藤の告白を嬉しく思ったし、揺れる自分の気持ちも自覚していた。それでも、藤代と別れて伊藤を選ぶことを想像できなかった。

 

 藤代のどこが好きなのかと問われれば、依子には言葉が浮かばない。最初は人をくったようなひょうひょうとしたところに惹かれた。軽妙洒脱な語り口に引き込まれた。彼はいつでも笑顔で依子に接しその真意を読ませず、それを知りたくて近づきたかった。


「……そうか」


 ぽつりと声がもれて、依子はあわててごまかすためにコーヒーを一口飲んだ。コーヒーの苦味で、頭が更にクリアになる。


 知りたい、と思ったのが始まりだったのだ。

 そう遠い昔のことでもないのに、いつの間にか忘れていた。

 

 付き合い出せば、それまで隠されていた面が見えてくるのかと思っていた。

 しかし、そうではなかった。藤代は、寂しいと感じる暇もないほどに、かなりの時間を依子のためにあてて傍にいてくれた。長い時を過ごすようになっても、彼はずっと優しかった。いつも笑い、穏やかで、依子に楽しい時間ばかりをくれた。


 だから不安だったのだ。

 楽しい時間しかないことが、彼の本心を隠しているように感じられた。優しい態度もどこか薄っぺらいものに感じ、ちょっとしたことで失われるような気さえした。

 

 藤代の微笑みの向こうに何があるのか、それとも何もないのか。知りたいと願っていたはずなのに、その柔らかさに包まれているうちにほだされていたのだ。

 上辺をなぞるだけの付き合いから、信頼関係が生まれるわけがない。


 谷口との関係を疑った時の藤代の反応に、ようやく本心が見えたと嬉しく思った気持ちを思い出す。あの時確かに、藤代を傷つけた悲しみと対になるように、彼の心を暴いたほの暗い喜びがわきあがっていた。


 あんなふうに傷つけて本心を引きだすのではなく、彼が自然な形で本当の部分を見せられるようにしたい。そのためにはきっと、彼だけではなく自分自身が変わる必要がある。

 依子だって、これまで藤代に対して上辺しか見せてこなかったのだから。


 ……気付けた今なら、きっと踏み出せる。


 まるで目が覚めたような気持ちで、その勢いのまま依子はサンドイッチを平らげた。デニッシュは持ち帰ることにして席を立つ。コーヒーは半分ほど残っていたが、惜しい気持ちは露ほどもわかず、返却口にトレイを持って行った。


 早く言いたい。

 藤代に会って、伝えたい。

 店を出てすぐに依子は藤代に電話をかけた。依子が会社を出てから一時間弱。もうそろそろ藤代もあがる頃だろう。

 コール音数回で藤代は電話に出た。彼が声を発するより先に、まわりの喧騒が聞こえてきて、もう会社の外にいることが伺える。


「もしもし。どうしたの?」

「お疲れ様です。あの、今ってどこですか?」

「今? 駅ついたとこだよ」


 駅といっても新宿駅ではなく、藤代の最寄駅だそうだ。

 藤代は依子があがって間をもたずに自分もあがったようだ。めいっぱい残業するのだと思っていたので、もうそこまで帰っていることに驚く。

 けれど、いっそ都合がいいかもしれない。

 思いなおして、依子は一度咳払いしてから藤代に言った。


「わたし今まだ新宿なんですけど、これからそちらへ行ってもいいですか? どうしても、今日会いたいんです」


 依子の主張に、藤代からは無言が返ってきた。電話での無言は、なかなか恐怖心をあおる。先ほどからの勢いが急速にそがれそうになるのを、何とか持ちこたえようと自分を叱咤する。


「……いいけど、どうしたの?」


 いぶかしむ声ではあったが了承を得られて、依子は笑顔を作った。藤代には見えていないのはわかっていたが、弾む声で気づいて欲しい。


「ありがとうございます! じゃあ今から電車に乗ります」


 そして電話を切ると、依子は駅構内へ向かって走り出した。







 改札を抜けたところで、すぐに藤代の姿が目に入った。きっと藤代は待っていてくれると思っていた。依子は笑みを浮かべ、早足で藤代に近づく。


「お待たせしました。待っていてくれて、ありがとうございます」

「いえいえ。俺も今ちょうど牛丼食べ終わってここ来たとこだから、タイミングばっちり」

「そうですか」


 それなら良かったと依子は微笑み、藤代の手に自分のそれを絡ませた。普段、依子から手をつなぐことが少ないためか、藤代は少し驚いた表情になる。


「藤代さん、わたし分かったんです」

「わかった……って何が?」

「どうして、わたしが藤代さんを信じきれなかったか、です」


 依子の言葉に藤代は目を見開いた。

 予想から大きく外れた内容だったのだろう。虚をつかれた藤代の表情に、依子は大きくうなづいた。


「あのですね……」

「あ、ちょっとストップ。とりあえず歩きながら話そう。ね?」


 藤代は少し焦った様子で、依子の手を引いた。依子に異論はない。それに合わせて歩きながら、先ほどコーヒーショップで発見した事実を披露する。

 お互い良い面ばかりを見せながら付き合っていたこと。だから信頼関係が築けず、不安を感じていたこと。

 歩きながら会話をしていたので視線は前方に向けながらだったが、依子は藤代がきちんと自分の言葉に耳を傾けていることを感じていた。ちらりと隣を伺えば、思った通り真面目な表情の横顔が目に映る。


「わたし、藤代さんのこともっと知りたいんです。どんなこと考えてるのかとか、どんなことで怒るのかとか……。いつも笑ってばかりじゃなくて良いんです。疲れてたら疲れてる顔してください。その方がよっぽどわたしは嬉しいです」


 藤代からの相槌はなかったが、依子は構わず続けた。本気で伝えたいことがあるとこうも気ばかり焦るものなのかと、この時依子は初めて知った。


「前に藤代さんもわたしに『もっと自分を出して良い』って言ってくれましたよね。なのにずっと、藤代さんに対して変なところを見せないようにしてきました。藤代さんを困らせたり、怒らせたりして、嫌われるのが怖くて……。でも、これからはちゃんと出すようにします。お互い少しずつでも色んな面を出していければ、きっとわたしが感じている不安も消えていく気がするんです」


 次の言葉を出す前に、依子は深呼吸した。最後は藤代の顔を見なくてはと彼を見上げると、彼もちょうど依子に視線を向けたところだった。その表情には色々な感情が浮かんでいて、彼の複雑な想いを表していた。戸惑いや喜び、そして不安……だろうか。見つめながら、依子自身も心配になる。しかし、ここでひるんではいけない。固い決意を思い出し、依子は口を開いた。


「わたしは、これから先も藤代さんと付き合っていきたいです」


 緊張がそのまま声質にも反映されたが、そこを取り繕う余裕はない。重々しい雰囲気にしてしまった自覚はあったが、どうしようもない。

 藤代は依子を見つめたまま、しばらく表情を動かさなかった。


 彼は自分を待つと言ってくれたから、こうして強引に会いに行って、開口一番で主張を始めたわけだが、もしもこの数日で気持ちが変わっていたとしたら……。

 背筋が凍りついた瞬間、藤代がもらした笑い声がそれを打ち破った。彼はくっと控えめに吹き出した後、バッグを持った方の手で口元を押さえている。そんなにおかしいことを言っただろうかと憮然とする依子にすまなそうに眉を下げて「……降参」と呟いた。


「どういうことですか?」


 依子の問いに藤代は「答えは家に着いてからね」と笑い、それからは明らかにスピードを上げて家路をたどった。なかば引っ張られるような形で玄関に入った依子は、靴を脱ぐ暇もなく熱烈な抱擁を受けた。バッグが取り上げられ、玄関の上に置かれる。


 これが彼の答え……。

 おそらく自分が恐れたことにはならなそうだとほっとしながら、依子も両手を藤代の背にまわした。

 しばらく藤代は無言でそうしていたが、やがてぽつりと言葉をもらした。


「……どうして依子は、いつも俺が欲しい言葉ばっかりくれるの?」


 震えるささやきに、依子は目を細める。


「本心です」

「……ありがとう」


 深く響く感謝の言葉に、目の奥が熱くなる。

 自分の言葉が、藤代の心の奥に触れることができたのだとわかった。


「俺も、ずっと考えてたんだ。依子の不安をどうやったら解消できるのか」


 言うなり藤代は依子の肩をつかみ、身をかがめた。合わせた視線の向こうで、藤代は柔らかく微笑んでいる。


「依子の言う通り、俺達もっとお互いを知る必要があるよね。俺も色々とかっこつけたりして見せてなかったとこあるし……。そういうので不安にさせてたんだから、改めないとね。だから依子には俺の全部を見せるよ」


 藤代も依子と似たようなことを考えていたのだ。それが嬉しくて、依子は自然と笑顔になった。藤代は依子の反応に満足そうにうなづいて「だからね」と続けた。


「一緒に暮らそう。……もちろん、結婚を前提にして」


 降って湧いたような言葉に、依子は笑顔のまま固まった。


「だって、一緒に住めば隠し事なんてなくなるでしょ。もしもまだ結婚が考えられないなら、ただの同棲って形でも良いよ」


 依子の反応は織り込み済みだったようで、藤代は驚いた様子も見せずに淡々とその提案をした。「適当に言ってるわけじゃないよ」と念を押されうなづくも、いまだ依子の頭の中は『結婚』の二文字が嵐のように乱舞している。

 信じられない、とまでは言わないが、急だ。

 けれど、それが藤代の出した答えであり、彼なりの誠意の表し方なのだ。

 少しずつ、そこまで想ってくれているという実感がわいてきて、依子の顔の緊張もとけていった。


「ありがとうございます」

「……返事は?」


 聞きながら藤代が顔を寄せてくる。依子が口を開いたところでキスをされ、それからしばらくは返事どころじゃない状態となり、玄関には濃厚な二人の息遣いだけが響いた。


「……やっぱり、答えはもう少し待ってからでいいや」


 藤代の呟きに、息が上がった依子はかろうじて「はい」と答え、彼の胸に身体ごと預けた。柔らかく包まれた腕の中はあたたかく、ようやく彼にたどり着いたのだと思った。

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