30
遊歩道の終わりが見えてきたあたりで、依子は藤代の姿を見つけた。植栽の手前にあるコンクリート塀に腰かけて、藤代は携帯電話に視線を落としている。植栽に設置されたほのかな明かりに照らされる彼を見て、依子は一度つばを飲み込んだ。
決してやましいことをしたわけではない。ただ、だからと言って後ろめたさを感じないということもなかった。
藤代は依子の姿を見つけると、片手をあげた後に近づいてきた。一瞬依子の隣を歩く伊藤に視線を向けたのがわかったが、彼は普段通りの穏やかな表情である。
「すみません、お待たせしました」
依子は藤代と顔を合わせてすぐに伊藤を紹介した。二人の間に立ち、こちらが……と手を伊藤に向ける。
「伊藤君です。悠季と飲みに行く時のメンバーで……」
そこまで言ったところで、藤代は得心した顔でうなずいた。彼には定例会のメンバーの名前は伝えてある。だから伊藤と言っただけで、おそらくピンときたはずだ。
「君が伊藤君かぁ。はじめまして、藤代です」
にこやかな藤代と対照的に、伊藤は硬い表情である。声も硬いままで、挨拶もそこそこに「今日は急に蓮見さんを連れ出してすみません」と藤代に向かって軽く頭を下げた。
「いえいえ。もう用事は終わった?」
藤代の問いに、伊藤は「はい」とうなずく。そうしながらも、伊藤は挑むような目つきで藤代から視線を外さない。それを藤代は微笑みで受け流し、依子の手をとった。
「じゃあ俺達は帰ろうか」
伊藤のことが気になったが、これ以上ここに三人でいるとまずいことになりそうな予感がする。依子は藤代の手を軽く握り返して、同意を示した。
そして伊藤に視線を向けると、彼は口を真一文字に結んで依子を見ていた。寂しいと訴えかけてくるように見えるのは、さきほどの話の余韻があるからだろうか。依子は伊藤に何か声をかけようとしたが、結局のところ気のきいたことは何も思いつかない。
だからせめてと笑った。
笑って、と心で念じながら、伊藤に声をかける。
「伊藤君、ラテありがとう」
「あれくらい、いいんです。今日はありがとうございました」
伊藤に浮かんだ小さな笑みを見て、依子は安堵した。知らず緊迫していた空気がいくぶんか柔らいだ気がする。そのまま依子は藤代に引かれるように新宿を後にした。
帰りの電車で藤代から色々と聞かれると思っていたが、意外にも彼はそうしなかった。依子が食事をしていないことを確かめたくらいである。ラーメンを食べようという話になり、藤代とともに最寄駅のラーメン屋の戸をあけた。
仕事がいよいよ佳境だという話や四月になったらどこかにまた出かけようという計画。普段話すことと変わらない話題とともにいつものラーメンを食す。
藤代は、聞かないのだろうか。
依子がそう思い始めた時。それを狙ったかのように藤代が依子に水を向けた。
「伊藤君、何の用だったの?」
きた。
依子は一度息を吸い、ごまかしの言葉を喉元で準備した。
『悠季と早田の距離を縮めるための相談をしていた』
伊藤と二人で会う口実としては、これが一番信憑性が高いと踏んでいた。
悠季と早田の微妙な関係について、依子は何度も話題にあげている。じれったい二人の関係を一歩進めるために、自分と伊藤で一肌脱ぐことにした。違和感はないはずだ。
けれど、いざそれを言う段になって、依子に迷いが生じた。
嘘をついてどうなると言うのだろう。藤代に対して誠実でいたいと思うならば、正直に話すところなのではないか。
けれど、だからと言って伊藤に告白されたと言った時の藤代の反応が怖かった。
そのためらいを読みとったのか、藤代は笑顔で「当ててあげようか」と言った。そして依子の答えを待たずに、彼女の耳元に口を寄せる。
「好きです。彼氏と別れて俺と付き合ってください」
ひそやかな吐息とともに告げられた言葉に、依子は絶句する。吐息の近さと言葉の甘さに震え、顔に血をのぼらせて一歩引くと、からからと藤代は笑った。
「……良いセンいってた?」
依子は茫然とうなずき「どうしてわかったんですか?」と呟きを落とす。藤代は無言で笑みを深めた。
「古今東西、男が女を呼び出す理由は告白しかないかなって思ってさ。それに伊藤君、俺に対してはツンツン、依子にはデレデレでわかりやすかったもん。……わざと俺に気付かせたかったのかもしれないけどね」
「……すごい読みですね」
藤代に対する伊藤の態度は、確かにそうとらえられてもおかしくないものだった。彼の放つ緊迫感は、友達の彼氏に対峙するにしては鬼気迫るものがあった。
「あの、でも断りましたから」
「うん」
依子の言葉を聞いても藤代はにこやかな笑顔のままだった。それがかえって彼の感情を隠しているように見える。
信じてもらえていないような気がして、依子はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「断りました。本当です。伊藤君の気持ちには応えられないって……」
「大丈夫だよ」
藤代はゆっくりうなずき、依子の肩をぽんぽんと軽く叩いた。それはまるで会社で後輩を元気づけるような仕草で、複雑な気持ちになる。
そして藤代はそれ以上は声をかけることなく残りのラーメンをすすり出した。それを見て、依子もかけるべき言葉を見失い、藤代にならった。
ラーメン屋を出てから、家まで送ると藤代は依子の部屋に進路をとった。ゆるく握られた手を強めに握り返しても、藤代は微笑むだけだ。その態度に依子の中で不安がぽつりぽつりと生まれ出す。
「藤代さん……」
「ん?」
つないだ手をもう一度強く握って、依子は藤代を見た。彼は泰然とした表情のまま依子を見ている。
「怒ってますか?」
「まさか。怒ることなんてないよ」
「だって……何だかよそよそしい気がします」
強く握れば、同じかそれ以上の力で握り返してくれるのが普段の藤代だ。ラーメン屋での話の切り方といい、依子を戸惑わせるには十分の態度である。
「気にしすぎだよ。眉間のしわ、伸ばしてあげて」
いたずらっぽく笑われ、依子は無理やりに笑顔を作って見せた。よしと藤代はうなずく。
「怒ってるんじゃないんだ。ただ、今度は俺が天秤にかけられる番なんだなって思ってただけ」
「そんなこと……」
既に大通りを抜けて住宅街を歩いているので、やけに声と足音が響く。街灯が藤代の横顔を淡く照らし、その表情に影を落としている。先ほどと同じ明かりだというのに、今は彼の表情に闇が見え隠れしていた。
「……本当は、迷う隙なんてあげたくないんだ。でもそれじゃあいつまでも俺たちだって堂々巡りだと思わない? だから、少しだけ時間をあげるよ」
藤代の言葉の意味がわからない。
どうしてそんなことを言うのだろう。これは婉曲的に離れたいと言われているのだろうか。依子は思い切り眉根を寄せて「わかりません」と主張した。
「それは……距離を置きたいってことですか?」
「うん。……一週間でどうかな」
「どうしてですか」
焦燥感が腹の底から這い上がってくる。どくんどくんと心臓がうるさく主張しはじめて、依子の顔に血がのぼってきた。気付けば足は止まっていて、藤代を見つめる眼差しにも熱がこもる。
藤代の表情がぼやけてきて、一度依子はその涙をぬぐった。
「伊藤君のことは断ったって言ったじゃないですか……。どうしてそんなことになるんですか。わたしは……わたしは、藤代さんと……」
言った瞬間に強く手を引かれ、依子は藤代の腕の中にいた。藤代のバッグのかたい感触を背中に感じる。
「その気持ちが、一週間後も同じであることを願ってるよ」
低く落とされた藤代の声は、悲痛な響きに満ちている。彼としても本意ではないのだと、ようやく依子にも伝わった。それでも何故、と思う気持ちは消え去らない。
「……思えば、依子はずっと俺に合わせてくれてたでしょ。それも好意の一つの形だと思うけど、無理させたくないんだ。だから、もう一度よく考えて、できれば俺を選び直して欲しい」
「それが……藤代さんの考えた、二人にとって一番良いことなんですか?」
「……うん。今度は俺に依子を待たせて」
納得はできない。藤代と離れたくないという気持ちは強く、依子は気をぬくと声をあげて泣いてしまいそうだった。
けれど、結局依子は藤代の腕の中でうなずいた。
藤代の言うように、堂々巡りから抜け出すためには自分の気持ちを見極める必要があると、依子自身どこかで感じていた。
「いつも振りまわしてごめんね」
呟きとともに、藤代は依子に口づけた。それは往来でするにはいささか情熱的すぎるもので、人気がない住宅街であるとは言え、唇が解放された時には依子は恥ずかしさで真っ赤になっていた。藤代の顔も少し上気しているのが、暗がりでも見てとれる。彼はしばらく依子を見つめていたが、不意に頬をゆるませた。
「涙止まったね」
その安心した声に、依子は「おかげさまで」と苦笑してみせる。
「藤代さん、いつも突然です」
「だってそういうのが好きなんだもん。サプライズって楽しいでしょ」
「楽しいのだけが良いです」
「……悲しませるようなサプライズはこれで最後にする。約束するよ」
引き締まった藤代の表情に、依子も真顔に戻ってうなずいた。
そして残りの帰路を、二人は穏やかに歩んでいった。