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「蓮見さんが例の会社の人と付き合ってると知って、俺もあきらめようとはしたんです。これからは友人として、困った時には力になろうって思ってました。でも……」
ここで伊藤は体勢を元に戻した。彼が身を乗り出した距離はほんのわずかなものだったが、それでも離れたことで依子の緊張がとける。こわばった背筋を伸ばした依子を見て、伊藤は微笑みを浮かべた。
「俺も蓮見さんと同じだったんです。ずっと自分の気持ちを抑えこんでました。友人で良い、それで満足しなくてはいけないって、そればかり言い聞かせて」
自分の本心を、理性で抑え込むこと。依子が藤代に対してそうしていたように、伊藤も依子に対してそうしていたのだ。
思えば、藤代と付き合っていると知ってからの彼は、ずっと依子と適度な距離を保っていた。依子の話にじっくりと耳を傾け、忌憚なき言葉で反応をくれ、そして彼女を思いやってくれた。それはまさに彼が言う『友人』の姿そのもので、だから依子は伊藤が自分に想いを寄せているという可能性を否定したし、安心して相談事も話せていた。
けれど、その自然に見えた姿は、ひとえに彼の努力によるものだったのだ。
実際、依子が藤代の話をしているとき、伊藤はどんな気持ちだったのだろう。想像すらかなわず、依子は顔をしかめた。
伊藤は微笑みを崩さないまま「そんな顔をしないでください」と優しく言った。
「自分でもびっくりしてるんです。すぐに割り切れると思ってましたから……」
一度おどけて苦笑してみせた後、伊藤は真顔になった。眼鏡越しの目に、光が灯ったように感じる。それはいつか感じたものと同じで、おそらく伊藤が依子を異性として意識している時の色だった。
「だから、考えてみてはくれませんか。いきなり付き合ってくれとは言いません。少しずつで良いから、俺のことも見て欲しいんです」
「伊藤君……でも」
伊藤のことは、好ましく思っている。
真面目で優しく、それでいて客観的に物事を見ることができる頼もしさもある。結婚したら堅実な家庭を築きそうという第一印象は今も変わっていない。
けれど、自分は今藤代と付き合っているのだ。
確かに悩んでいるし、今はかみあっていない。けれど、伊藤が自分を好きだからと言って、藤代の手を離す気にはなれない。
依子は伊藤から視線を外し、首を横に振った。そのまま視線を一度正面にある百貨店のディスプレイに逃がす。ウインドウの中では桜が咲き、若草色のワンピースを着たマネキンがガラステーブルに頬杖をついている。
それを眺めて一瞬の逃避をした後、依子は再度伊藤に向き直った。
「伊藤君の気持ちは嬉しいけど、わたしは今藤代さんと付き合ってるし、別れたいと思ってるわけじゃないから……」
「そういうことじゃないんです」
依子が自らを奮い立たせて放った言葉に、伊藤はかぶりを振った。あくまで穏やかな表情のままだが、視線はまっすぐ依子を射抜き、逃がさないとでも言いたげなものだった。
「蓮見さんが今あの人のことを好きなのはわかってます。……俺は、そこにくいこめませんか? 万に一つの可能性もないですか?」
そんなふうに聞かれたら困る。
依子は答えにつまって、視線をそらした。
現在自分が大事にすべき人はわかっている。しかし、伊藤を恋愛対象外と言い切るには魅力を知りすぎてもいた。
言葉を選ぼうにも伊藤の視線に全て暴かれる気がしてくる。何に迷っているかはわからずとも、依子が答えあぐねていることくらい、伊藤にはお見通しだろう。
それでもずっと沈黙を続けるわけにはいかない。
まるで酸欠の金魚のように何度も浅い呼吸を繰り返した後で、依子は「ごめんなさい」と呟いた。
さまよわせた視線を伊藤と合わせる勇気は出ないまま、自分の膝においた手を見る。いつのまにか握りこぶしを作っていた両手は、かすかに震えていた。
依子がそれに気づくのと同時に、脇から伊藤の手がさっと出てきて片方のこぶしを包む。
急に感じた体温に依子はびくりと体を震わせた。
「本当ですか」
伊藤は依子が手を引き抜こうとするのが分かっていたのだろう。強い力で彼女の手を握って言った。
尋ねる形をとっているものの、彼自身は答えを知っている口ぶりだった。
「本当に、それが蓮見さんの答えですか」
本当だと言う代わりに、依子は首肯した。伊藤が顔をゆがめる。
「……こんな時まで、嘘は言わないでください」
「嘘なんかじゃないよ」
「じゃあどうしてそんな顔をするんですか」
伊藤の言う『そんな顔』がどんな顔を示すのかはわからない。けれど、それを深く考える前に依子は顔をそらした。いまだこぶしごとがっちりつかまれたままの手を、再度抜こうと試みる。
これ以上伊藤と話していると、言わなくていいことを言ってしまう気がした。危機感が心中で警報を鳴らし、離れよと耳の奥でこだまする。
「伊藤君、お願い。離して」
「離しません」
にべもない伊藤の言葉に、口でやりあっても状況は変わらないことを悟る。
であれば、自由な方の手を使って強引にも離れようと試みるべきだろうか。それほどの熱意を見せない限り、伊藤の心には響かない気がした。
その時、バッグの中で携帯電話が震える音がする。
天の助け! そう思いながら、自由な方の手をバッグに入れた。振動する携帯電話はすぐに見つかり、バッグから取り出す。
着信は藤代からだった。
ある程度予想はしていたものの、本人の名前を見てほっとする気持ちがわきあがる。
伊藤も画面に表示された名前を見て、苦い表情ながらも依子の手を離した。
「……どうぞ」
不本意極まりないと言った顔ではあったが、依子に電話をとるよう促してくれる。こんな時でも彼は律儀で、やはり優しい。依子は小さく礼をして立ち上がった。ベンチから少し離れた位置に移動しながら、電話をとる。
「もしもし」
『あ、もしもし。今あがったよ。友達との話は終わった? まだ新宿だったりする?』
藤代の声は平素と変わらない。少し声がかすれているのは、社内の空気が乾燥していたせいだろう。疲れはにじんでいたが声にはハリがあり、依子を安心させた。
「……はい、まだいます。友達も一緒で」
『あ、そうなんだ。結構長いね。もうすぐ終わりそうなら待ってるけど』
「えーと……、それが、その……」
『ん? まだかかるの? 食事中?』
「いえ、そういうわけじゃないんです。……あの、じゃあ、待っててもらっていいですか?」
『いいよ。今どこ? どうせなら近くで待つよ』
依子が場所を伝えると、藤代の反応は少し鈍かった。
『……ふーん。そこにいるんだ。わかった。じゃあ俺も南口の方に向かうよ』
「はい、お願いします」
電話を切って伊藤のところへ戻ると、彼はディスプレイに向けていた顔を依子へ移した。その目はどこか遠くを見ているようで、視線が合った瞬間から遠ざかっていくような心地がした。
「あの人が迎えに来るんですか?」
淡々とした問いかけに、依子はうなづいた。伊藤はそうですかと呟き、立ち上がった。
「……じゃあ行きましょう。待ち合わせ場所まで送ります」
何でもないことのように言い切り、伊藤はバッグをつかんだ。依子の分のカップと自分のカップを合わせてまとめて持つと、依子の返事を待たずに歩き出す。
唐突な伊藤の行動に、依子は言葉もそこそこに彼の後を追いかけることしかできなかった。
お互い無言で遊歩道を駅に向かって歩く。
来た時よりも同じ方向を目指す人が多く、おかげで随分と気はまぎれたが、沈黙の流れる間がひどく長く感じた。
煌々と輝く駅が段々近づいてきた頃、伊藤がぽつりとつぶやく。
「……しばらくしたら、改めて今日の答えを聞かせてください」
依子は無言で伊藤を見上げる。彼は歩みを止めないまま、一度だけ依子を見て微笑んだ後、すぐにまた視線を前に向けた。
「少し俺に、頭を冷やす時間をください」
冷静になったら、何が見えるのだろうか。
伊藤をどう思っているか、考えて見極めた先には何があるのか。
底知れない不安を隠し、依子は「わかった」と小さく答えた。