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その手をとれば  作者: ななのこ
第3章 芽吹きを目指す冬の道 【藤代編】
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 依子と藤代の関係は、三月の忙しさにまぎれながら平衡を保っていた。

 表面上はそれまでと変わらない付き合いを続けながらも、お互いどこか探り合うような一瞬がある。

 依子に関して言えば、藤代の反応を気にして言葉を飲み込むことが増えた。傷つけたくない、信じていたい。そう思う気持ちは強いというのに、実際の行動にずれが生じる。

 もどかしい思いにさいなまれ、いっそ考えないようにと依子は仕事に打ち込んだ。終えても終えてもつみあがる書類作成の依頼に、感謝したのは初めてだった。


 この状態を悠季は『不健全』と評した。

 いよいよ内にこもり出した自分の思考に危機感を抱き、悠希に電話をかけたのである。平日の夜遅い時間だったのにも関わらず、彼女はじっくりと依子の話を聞いた。それでの一言である。


『依子が藤代の浮気を心配するのもわかるよ。でもずっと疑いながら付き合って、それで幸せとか感じられるの? 付き合おうって決めたのは依子なんだから、そろそろ覚悟決めた方がいいかもよ。依子に疑われてるって知ってて付き合ってた藤代も、結構つらいものがあったと思うし。これから先も信じられないままなら……いっそ別れた方がいいのかもとあたしは思う』


 悠季の声音は優しく、耳に痛い言葉ばかりだったがすんなりと心に届いた。

 覚悟が足りないことも、藤代に傷を負わせていることも、分かっていた。悠季が言ったことは、そのまま依子が考えていたことでもあった。

 結局どこまでいっても自分と藤代の関係は『不健全』なままなんだなと思うと、少し笑えた。

 

 伊藤から連絡がきたのは、そんな鬱屈とした日々のさ中だった。

 藤代と互いの思いをぶつけあった日から二週間程たった三月後半の水曜日。この日も変わらず残業していた依子は、二十時を前に、軽い気持ちで携帯電話を確認した。すると、伊藤からのメールが入っていたのだ。


『今新宿にいます。仕事帰りに少し会えませんか?』


 受信時刻は三十分程前。

 依子は何度かメールを読みなおし、伊藤の言葉の意図を推し量る。

 これはきっと、二人で会いたいという意味なのだろう。送信相手は依子だけ。悠季の名前も早田の名前も出てこない。完全に依子を狙いうちしている誘いである。


 断らなければ、と思った。

 藤代と付き合っている今、依子は自分に彼以外の男性と二人で会うことを許していない。それを伊藤も知っているはずなのに……。


 溜息を隠して、依子は立ち上がる。自分の席でこのメールに返信するのがためらわれたからだ。誰もいない給湯室でもう一度先ほどの画面を呼び出し、簡潔な返事を送る。


『ごめんね。今日はまだ仕事中。いつ終わるか分からないの』


 嘘ではない。やらなければならない業務は多く、仕事を続けようと思えばいつまでだって、たとえ終電まででも続けられる状態だった。もちろん、キリの良いところでめどをつけて二十一時頃にはあがろうと思っていたが、伊藤には誤解させておいた方が良いだろう。


 返事はすぐにきた。


『大丈夫です、待ってます。少しだけで良いのでお願いします』


 伊藤がこんなふうに強引なのは初めてだった。

 胸騒ぎがする。いつか危惧していたことがまた蘇る。

 ここまでして会いたい理由は何だろう。


 彼は現在進行形で、依子を待っている。その労苦を思うと、会わないと突っぱねることに気遅れした。しかし、初志貫徹して、みんなと一緒にねと諭した方がいいか。

 比較したところでどちらがいいのか判断しかねて、依子は結局返信しないままに席へと戻った。

 仕事が終わったら連絡をいれて、その時に決めようと考えたのだ。それが一番楽な方法だと思ったのだが、時間と伊藤が気になって、仕事がほとんど進まない。


 結局、三十分程かけて雀の涙ほどしか作業が進まなかったところで、依子は諦めた。明日頑張ろうと自分に言い聞かせ、会社を出る。伊藤に連絡して、少しだけだよと念を押して居場所を聞いた。

 同時に藤代にも簡潔にメールを送る。『友人が用事があるようだから、少し会ってから帰る』という内容のものだ。おそらく彼がこれを確認するのは大分先になるだろう。その頃には伊藤とも既に別れている可能性が高い。それでも、藤代に対してこういうことで隠し事をしたくなかった。


 伊藤は、新宿の駅南にあるコーヒーショップで依子を待っていた。その店は代々木方面へ向かう遊歩道沿いにあり、テラス席が多いのが特徴だ。遅めの時間帯の割にはテーブルは六割方埋まっている。皆コーヒーで食休みをしているのだろう。

 春先の少し冷えた空気をものともせず、端の方のテーブルで伊藤は本を読んでいた。そこには持ち帰り用のカップに入った飲み物が二つ置いてあり、依子はあれ?と思う。もしかしたら、悠季か早田もいるのだろうか。


「ごめんね、待たせちゃって」


 依子の声に伊藤がハッと顔を上げる。こうして近くで声をかけるまで、気配に気づかなかったようだ。読書を始めると止まらないと以前言っていたことがあるが、その通りなんだなと思った。読書するなら店内の席の方が明るいだろうにと余計なことも考えた。


「あ、いえ、いいんです。こちらこそ急に呼び出してすみません」


 伊藤は素早く本をバッグにしまうと、眼鏡のずれを直してから立ち上がった。そして片方のカップを依子に差し出す。不思議に思いながらそれを受け取ると、カップはまだ熱く、中のドリンクがいれたてのものであることがわかった。


「仕事お疲れ様です。これ良かったらどうぞ。中身はラテです」


 買ったばかりなので、まだ飲みごろだと思います。そう補足もつけて、伊藤は伺うように依子を見ている。

 まさか自分のために飲み物を買っておいてくれたとは思わなかった。こんなふうな気遣いは初めてだったので言葉を失い目を丸くしていると、その沈黙を『迷惑』と受け取ったのか、伊藤は困った表情で再び頭を下げた。

 

「勝手にすみません。飲まないようなら俺が飲みますので……」

「あ、ううん。嬉しいよ。ラテ好きだし。誰か他の人の分だと思ってたからびっくりしちゃって」


 ありがとうと伝えると、伊藤はほっとした顔で微笑んだ。


「今日は俺だけです。どうしても蓮見さんに伝えたいことがあって……」

「伝えたいこと……」


 とりあえず行きましょうと伊藤に言われ、コーヒーショップを出た。遊歩道をゆったりした速度で歩きながら、伊藤は「松本さんから聞きました」と話を切り出す。

 それは予想していたことだった。伊藤がこんなふうに突然、しかも半ば無理やりにも会おうとしたのは、藤代の件だろうと容易に考えついた。けれど悠季が伊藤に何を話したのか、どうしてそんなことになったのかは分からない。


「悠季から何を聞いたの? 藤代さんのこと?」

「はい」

「……どんな内容?」

「蓮見さんが悩んでるって……喧嘩した、とも聞きました」


 表情に心配の色を濃くした伊藤を見て、依子は溜息をついた。

 なんで話すの……。

 ここにはいない悠季の顔を浮かべ、心中でわめく。次に会ったら文句を言おうと決意して、依子は伊藤へ意識を戻した。


「喧嘩っていうか、一方的にわたしがわめいただけなの。お互い怒ってるわけでもないし。ただちょっと……」


 その後の言葉が思いつかず、沈黙する。気付けば遊歩道の外れまで歩いてきていて、伊藤はいくつか並ぶベンチの一つを示した。それに従い、依子はそこに腰かける。落ち着いたことで、ようやくラテを飲むことができた。人肌ほどにぬるくなったラテは、普段飲むよりも甘く感じる。


「……あの飲み会の後に、何かあったんですか?」


 要点だけをかいつまんで話せるほど依子は説明が得意ではなく、結局悠季にしたように大体の一部始終を伊藤に伝えることとなった。話を聞き終えた伊藤は、苦虫を噛み潰したような表情になっていた。


「……あの時、俺たちがけしかけたせいですよね。本当にすみません」

「そんなことないよ。別にみんなに言われたから連絡したわけじゃないし。もし今回のことがなかったとしても、そのうち絶対衝突してたと思うから……」


 遅かれ早かれきただろうと思うと、この間で良かったのかもしれないとさえ思う。これ以上引き延ばしていたら、それこそ修復不可能なほどに亀裂が入っていた可能性だってある。

 依子は微笑んで、伊藤を元気づけた。彼が責任を感じる必要は何もない、と伝えたかった。

 伊藤は真面目な表情を崩さないまま「つらくはなかったんですか?」とたずねる。


「つらい……って、今の状態が?」

「いえ。今の状態はもちろんつらいんだろうなと思うんですけど、そうじゃなくて、蓮見さんはずっと相手の浮気を不安に思いながら付き合ってきたってことですよね? それは、つらくなかったんですか?」

「……そうだね、つらいと思わないようにしてたかな。不安になると止まらないから、考えないようにしてた。誰かと付き合えば大なり小なりそういう悩みは持つんだからって思って……」

「それは、そうかもしれないですけど」

「だから、必死に仕方ないって言い聞かせてたよ。刷り込みとしては、あんまりうまくいかなかったけど」


 はははと乾いた笑いをこぼすと、伊藤の視線が鋭くなった。


「これ以上平気なふりなんてやめてください」


 口元を笑みの形から戻すことも忘れ、依子は伊藤の変化を見つめた。彼は睨むように依子を見据えると、ゆっくりと首を横に振る。


「蓮見さんはいつもそうです。大丈夫って笑ってますけど、強がってるようにしか見えません。そのたびに俺がどれだけ……」


 伊藤が言葉につまり、押し黙った。視線だけは依子をとらえ離さず、その目に浮かぶ色は何かに揺れている。

 伊藤自身の煩悶(はんもん)がすけて見えるのに、声のかけようがない。

 自分のせいで彼にこんな表情をさせるなんて思ってもいなかったのだ。


「……もう限界です」


 低い声で、ささやくように告げられる。

 伊藤の目に、もう迷いはない。何かをふっ切り、決意のもとで依子に対峙しているのが伝わってくる。依子はひゅうと息を吸い込み、浮かぶ懸念を振り払おうとした。


「俺にしてもらませんか」


 心持ち伊藤の顔が近づく。彼が身を乗り出しているのだと気付き、同じだけ依子は後ずさった。その反応を見ても伊藤は体勢を戻すことはない。むしろ更に寄ってきそうな気配すらただよわせて、決定的な一言を告げた。


「蓮見さんが、好きなんです」


 まさか、とはもう思えなかった。

 可能性が浮かぶたびに打ち消してきたが、もうこれで逃げられない。ぶるりと背筋が震える。それは彼の気持ちに向き合わなくてはならないことへの(おのの)きだった。


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