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その手をとれば  作者: ななのこ
第3章 芽吹きを目指す冬の道 【藤代編】
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 ダムが決壊してしまった。

 先ほどとはまるで違う気持ちで天井を見上げながら、依子は泣いていた。


 藤代は隣にいない。

 しばらく依子を抱きしめた後「シャワー浴びてくるよ」と藤代は弱々しく呟いて出て行った。自分も次は行かなくてはならないし、藤代もそんなに時間をかけずにあがってくるというのに、依子は布団から起き上がることができないでいる。


 ずっと我慢していたツケが出たのだ。

 こんなふうに爆発してしまう前に、不安だと言っておけばよかった。ためこんでいた分が上乗せされて、すさまじい出力になってしまった。


 彼の傷ついた表情を見て初めて、自分に対する藤代の本気を感じたというのも皮肉な話だ。傷つけないと気持ちを確かめられないなんて、どうかしてる。

 藤代の気持ちを信じきれないのは、依子自身の問題だ。藤代がどうこうではない。ただ自分に信じる勇気がないだけの話である。


 彼の望む自分でいられたら良かったのに。

 彼のことを一片の迷いもなく信じられたら、きっと悩まずに済んだ。

 とめどなくあふれる涙でだんだんと天井がぼやけていく。

 藤代が戻ってきたときにこれ以上気まずくなりたくない。そうは思うものの、涙は止まらなかった。


 





 控えめなノックとともに、藤代が戻ってくる。いまだベッドに横になっている依子に、彼は固く絞ったタオルを差し出した。


「……泣いてるかと思って」


 本当によく心得ている人だ。

 悲しいのか嬉しいのかよくわからない気持ちで依子はそれを受け取り、まぶたにあてた。目頭を押さえると気持ち良さが広がる。

 前に恵比寿で泣いた時もこんなふうにおしぼりをもらったと思い出したら、笑ってしまった。あの頃と今と置かれている状況は違うはずなのに、泣いた理由は大して変わっていない。


「……シャワー、すぐ行く? それとももう少し休む?」

「行きます。タオルありがとうございました」

「そんなのいいよ。じゃ俺リビングで待ってるから」


 閉じた視界の向こうで足音が遠ざかり、次いでドアが閉まる音がした。藤代の足音が完全に聞こえなくなったところで、依子は緩慢な動きで起き上がる。身体は情事の名残で重くだるいというのに、それが少しも幸福感を抱かせないことに悲しい気持ちになった。







 風呂場で確認した自分の顔は、ひどいものだった。目の腫れはシャワーを浴びたくらいでは戻らず、せめてとひたすら目の周りをマッサージして気休め程度に回復させた。


 リビングに戻ったらどうなるのだろう。

 藤代はどんな表情で待っているのか。想像するだけで恐ろしい心地だったが、行かないという選択肢もない。

 リビングに続くドアを開けると、ふわりとコーヒーの香りが漂ってきた。控えめな機械音でコーヒーメーカーが動き、まさに一滴ずつコーヒーが落ちているのが見える。


「とりあえず、コーヒーでも飲もうよ」


 藤代は依子を見ると微笑んだ。自然な笑みであることに、勝手ながらほっとする。依子はうなづき、何か手伝うためにキッチンへ向かった。

 いれたてのコーヒーと、買い置きだというチョコレート菓子をトレイにのせて、ローテーブルまで運ぶ。テレビやDVDを観るわけでもないのにソファに並んで座るのは変だろうかと迷ったが、藤代がソファに座ったのを受けて自分も隣に座る。いつもよりもほんの少しだけあいた距離に寂しさを覚えた。


「……あのさ。さっきはごめんね」


 コーヒーを口に含む前に、藤代は依子を見て言った。切りだすのは自分でなくてはと思っていただけに、依子は勢いよく首を振る。


「いえ、わたしこそ……すみません。あんな急に……」

「いいよ。付き合ってから初めて依子の主張してるとこ見たから、新鮮だった」


 『新鮮』というポジティブな言葉であらわしてもらえるほど、建設的な主張ではなかった。それがわかるだけに依子は眉を曇らせる。依子は子どもが駄々をこねるように、手前勝手なことばかり言ったのだ。

 それが本心であったとしても、伝え方はもっと工夫できたはずなのに。

 落ち込みそうになる心を叱咤激励して、依子は「本当にすみません」と頭を下げた。


「谷口さんとのことは仕事上で必要な付き合いってわかってるつもりなんです。でも、どうしても気持ちがもやもやして……。藤代さんに言ったら困らせると思って言えなくて……」


 ふわりと頭に手をのせられて、柔らかい手つきでなでられる。顔を上げると、寂しそうな微笑みの藤代と目が合った。


「ごめんね。言えずにいたのは俺のせいだよね」

「そんなことないです。わたしが、勝手に……」


 依子の言葉に藤代は力なく首を横に振った。髪をなでていた手をおろして、顔を正面に向ける。うつむいたまま依子を見ることなく、藤代は言った。


「俺、真面目な話を真面目にするのってどうも苦手で、つい避けようとしたり、冗談にしようとする癖があるんだけど……でもそれじゃあ依子にいつまでたっても信じてもらえないって、ようやく身にしみたよ。だから、少し長くなるかもしれないけど聞いてくれる?」


 一度視線を向けられ、依子はうなづいた。藤代は「ありがとう」と笑みを浮かべ、また依子に横顔を見せる。目を合わせながら話す気はないようだ。だから依子も藤代と同じ方を向く。真っ暗なテレビ画面に、真面目な表情の二人がぼんやりと映っていた。


「……依子がずっと、俺の気持ちを疑ってるのには気付いてたよ」


 違う、と否定の言葉を発したかった。

 けれど心の奥から『違わない』と声がする。藤代が自分へ向ける気持ちは前の彼女を重ねているだとか、すぐにまた他の人に目移りするだろうとか、ずっとくすぶっていた本心が依子をうなだれさせる。

 藤代がそれに気付いていたことに対して申し訳ない気持ちがわき起こり、嵐のように吹き荒れた。


「すみません……」

 

 この言葉が肯定を表すとわかっていても、謝らずにはいられない。藤代に対してこれまでの自分がどれほど失礼だったのか、傷付いた表情を見て痛感した。

 それでも藤代は「いいよ」と笑って、先を続ける。


「依子がそう思うのは仕方ないよ。これまでがこれまでだったしね。付き合おうって言ったのも勢いみたいに思われてるんだろうなって感じてた。確かにあれは勢いの力が大きかったけど、そのこと自体はずっと考えてたんだ。もっと時間がたってから依子に言おうと思ってただけで」


 まさか彼女と別れた次の日に告白されるとは思いませんでしたと、以前依子も冗談として言ったことがある。その時藤代は『びっくりして面白かったでしょ』と不敵に笑ったものだ。その時自分は『適当なこと言って……』と苦笑いでもしていた気がする。

 藤代の手の上で踊らされているとわかっていても幸せだった初期の頃だ。


「前の彼女――リサと別れて依子と付き合いたいって思ったのは、あの恵比寿で飲んだ後くらいからかな。それまでは依子のことは、一緒にいると楽しかったし安らげたし、気になる存在だったけど、それだけだった。でもあの日、リサの代わりとして会ってるのかみたいなこと聞いたでしょ。その時、思った以上にショックを受けてる自分がいたんだよね。そんなこと考えるほど悩んでるなんて気付かなかったから……。変な話だけど、依子は平気だと思ってたんだ」


 藤代は自嘲するようなほの暗い笑みを浮かべ「まあ、その認識は今思うと、自分に都合よく依子を見てただけだったんだなって思うけどね」と一段低い声で呟いた。


「……でもあの時の依子を見て、その勘違いに気付いて、まず浮かんだのは罪悪感だった。泣いてるのを見て、もうこれ以上泣かせたくないと思ったし、大事にしたいって感じたんだ。……そんなこと言って、リサと別れるのもずるずる引き延ばしてたんだから、説得力ないとは思うんだけどさ。過去にしがみついてるだけだって分かってたのに、実際それを痛感するまでは断ち切れなかった」


 その転機となったのが、大学時代の仲間の結婚式だったのだろうか。依子の疑問がわかったのか「あの結婚式行ってきた時ね」と藤代が補足した。


「リサとは、仕事観も結婚観も、もう何もかもずれてた。これから先の道がどうあっても重ならないことがお互いにわかったんだ。面白いくらいに平行線で、笑っちゃうくらいだったよ。で、その時に俺、これで迷いなく別れられるって安心したんだ。元々別れようと思っていたのを、更に後押ししてもらった感じ。……彼女とけりをつけた後、すぐに依子が浮かんだ。すごく会いたかった」

「……ありがとう、ございます」


 これまで聞き役に徹していたからか、自分で思った以上にかすれた声になった。気付けば喉がからからだ。大分ぬるくなったコーヒーを口に含み、喉をうるおす。コーヒーの苦みが口内に染み入った。

 藤代も同じようにコーヒーを飲んだ後、依子を向いた。


「俺は依子が好きだよ。本当に、本気で想ってる。もう他の人に目移りなんてしないって約束したいけど……多分口だけじゃ信用できないよね。だから俺ももう一度考えるよ。依子に信じてもらえるようにどうしたらいいのか」


 何故藤代は、そんなにも穏やかな表情でいられるのだろう。微笑みすら浮かべて、ひたすら依子を慈しむ視線を向けている。

 藤代にここまで言わせて、ここまで想われていて、何を不安に感じるのだろう。ずっと彼の行動を疑ってきた自分を殴りたくなる。けれど、それでもわだかまるものがあり、依子は歯をくいしばった。


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