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その後、罪の意識からなのか元からそのつもりだったのか、藤代は駅前のベーカリーでサンドイッチを買ってきてくれた。アイスコーヒーとともにそれを食べている間も、藤代は先ほどのことが気になっているようだ。パンをくわえながら、何度も依子に意味深な視線を向けてくる。
「ねぇ、本当に怒ってないの?」
サンドイッチを食べ終わったところで、しびれを切らした藤代が依子にたずねた。懐疑的なその目に、依子は笑ってしまう。よほど依子の対応が不可思議なものだったらしい。
藤代の口から自然にこぼれた『リサ』という名前に、傷つかなかったかと問われれば否と答える。ショックを受けたことは自覚している。けれど怒りという感情はわかなかった。むしろ、そういうこともあるだろうと妙に納得してしまう部分もあった。
何故藤代は、依子が怒ると思っているのだろう。
自分を差し置いて、他の女の名前を呼ぶなんて! とでも言って欲しかったのだろうか。そんなこと言えるわけがない。自分はつい最近まで、そんな立場になかった存在なのだ。
「怒ってないです」
そう言うと、藤代は不満そうに「そうなの~?」と口をとがらせた。
「藤代さん、わたしに怒って欲しいんですか?」
「うん。失礼な男ね! くらい言って欲しいかな」
『失礼な男ね!』の部分だけわざと声を高くして、依子の真似をしたつもりなのだろう。心持ち顎をあげてつんとした表情を作った藤代に、依子は吹き出した。全然似ていないし、むしろそっちの方が失礼である。
けれど依子は笑って、藤代の希望を叶えることにした。
「『わたしといながら他の人の名前を呼ぶなんて、失礼です!』」
じっとりとした目でにらんでやれば、藤代はそれそれと満足気にうなづいた。
「ごめんね。誓って俺には蓮見だけだから、信じてね」
しばらく無言で顔を見合わせていたが、依子は観念して笑うことにした。とんだ茶番だ、と思いながらも、確かに先ほど受けたショックは薄れていた。
藤代が依子の日常に組み込まれて、その変化に戸惑ったり喜んだりしている間に八月の半ばを過ぎた。そろそろ先延ばしにしていた悠季と伊藤への報告を実行しなくてはならない。別に義務というわけではないのだが、妙な使命感を持って依子はその日早田も含む三人にメールを送信した。
『件名:納涼もかねて
本文:毎日暑いので、みんなでビアガーデンにでも行きませんか? 早田君は平日休みなんだよね? できるだけ合わせるから、都合のいい日を教えてください』
ビアガーデンは、夏の醍醐味である。みんなで飲みに行こうと考えた時に、そういえば今年はまだ行っていないと思い出した。あの開放感の中で飲む酒は妙に美味しく感じる。せっかく夏に集まるのだから、夏らしい楽しみ方で飲みたい。
その依子の考えに、他の三人も異口同音で賛同してくれた。誰も彼も返信が早かったので、あっと言う間に日程が決まる。早田は水曜日に休むことが多いというので、集まるのは八月最終週の水曜日に決定した。
その当日。新宿のデパート屋上に期間限定で開店しているビアガーデンは、平日だというのに賑わっていた。仕事帰りのサラリーマンや大学生、カップルと様々な客でほとんどの席が埋まっている。予約しておいて良かったと胸をなでおろしながら、依子は予約席に案内された。
通された席には早田がちょこんと座っていた。依子を見るなり顔をほころばせて手を振ってくる。相変わらずふわふわした髪型をした早田だったが、少し線が細くなった気がした。Tシャツが身体のラインに沿うようなタイプだからだろうか。ひとまわり薄くなったような身体つきに、心配になる。そういえば仕事が忙しいと返信でもあったし、悠季からそう聞いたこともあった。
「ご無沙汰してます!」
微笑む早田に、ひさしぶりと依子も返して、向かいに座る。
「誰も来なかったらどうしようかと思っちゃいましたよー」
早田は大して心配した様子もなく笑った。依子も笑って、おまたせしましたとおどけてみせる。
「他の二人はまだ来れなそうだから、先に頼んじゃおっか」
悠季も伊藤もやはり仕事が忙しいらしく、三十分ほど遅れると連絡がきた。早田も同時にその連絡を受けているので、そうですねとあっさりうなづく。
「蓮見さん、何にしますか?」
「ウーロンハイ」
「了解です」
言いながら早田が手をあげ店員を呼び、手早く注文した。彼はビールを飲むようだ。ビアガーデンでの飲み物として、それが王道なのだろう。暑い日に飲むビールの喉越しがたまらないとはよく聞く話だ。依子自身はビールを飲まないのでそれを味わったことはないが、藤代は嬉しそうに言っていた。
早田は飲み物の他に枝豆とポテトを頼み「何かつまむものあった方がいいですよね」と微笑んだ。
依子に異論はない。お礼を言うと、いえいえ~と明るく返事が返ってきた。
飲み物はすぐに運ばれてきた。混雑している割に速い。
「じゃあ……乾杯しましょうか」
「うん。かんぱーい」
重たいジョッキをかちんと合わせて、一足先に納涼会は始まった。ウーロンハイの喉越しもなかなか良いもので、一気に三分の一を飲み進めてしまった。思った以上に喉がかわいていたようだ。
「仕事はどう? 早田くん、何か少しやせた気がするんだけど……」
「あ、わかります? 社会の荒波にのまれまくってたら、やせました」
「一年目は忙しいし、覚えることたくさんあるもんね。ごはん、ちゃんと食べれてる?」
「微妙ですね~。自炊がなかなかできなくて、かなりジャンキーな食生活になっちゃってます」
「それじゃあ栄養不足になっちゃうよ。ジャンキーでも何とか野菜は食べてね」
「野菜ジュースなら飲んでますよ」
「それじゃダメだよ、もっと固形からとらないと」
「えーだってコンビニの総菜で野菜系ってついつい見過ごしちゃうですもん。今度蓮見さんが味噌汁でも作ってくれませんか?」
「それは無理です」
「つれないなぁ」
先ほどと同じように、全然気にしていない顔で早田は笑う。明らかに冗談とわかるのだが際どい言葉に、依子の方は苦笑した。早田の言葉も藤代と同じか、それ以上に重みがない。
「言葉軽いなぁ」
「よく言われます」
悪びれず言えるところが、また藤代を彷彿とさせた。彼も数年後には藤代のようになっているかもしれない。容易にそんな姿が想像できる。似た者同士ならあるいは……と依子は一つの問いが頭に浮かんだ。
「そういえば、早田君て付き合ってる子がいても他の女の子と遊びに行くタイプだよね?」
「急になんですか? ……まぁ、その通りですけど」
「あのさ、それって何か原因とかあったりするの? 例えば彼女に何か不満があってとか……喧嘩してとか……」
依子の問いかけに対して、早田は無言になった。さぐるような目つきで依子を見てくるので、落ち着かない心地になる。これまでの関わりあいから、ああ言えばこう言うというようなレスポンスの速さを感じていたから、こんなふうに間をとられるとは予想外だった。いけないことを聞いてしまったような罪悪感を感じてしまう。
たっぷりとした間の後で、早田は静かに聞いた。
「……もしかして蓮見さん、そういう男に引っかかってるんですか?」
咎めるような、心配するような視線は早田には似合わない。急にそんなふうな顔をされても、依子は戸惑うばかりだ。軽い気持ちで聞いたはずなのに、早田なら軽いノリで一意見をくれると思っていたのに、一体どうして。
「引っかかってるって言うか……その……」
付き合ってる人なんだけど、と言いだせないうちに、早田の視線が素早く動いた。依子の後方にそれは伸びて、それを追って依子も振り返る。すると伊藤が席に向かってくるのが見えた。スーツのジャケットを小脇に抱え、小走りで近づいてくる。
「すみません、遅くなりました」
伊藤はぺこりと頭を下げ、早田の隣に座った。額にうっすら汗をかき、少し声もうわずっている。かなり急いで来たのだろう。
早田はすぐに見慣れたおどけた表情になって、伊藤をこづく。
「よっちゃんてばー、もうちょっと遅くても良かったんだよ。せっかく蓮見さんと良い感じだったのにさぁ」」
早田の変わり身の速さについていけず、依子はうんともすんとも反応を示せなかった。早田はちらりと依子を見てにっこり笑う。反対に伊藤は憮然とした表情で、早田をひとにらみしていた。『せっかく急いで来たのに、その言い草はなんだ』と視線が言っている。
こういう時の伊藤はわかりやすい。依子はそれを見て自分を立て直すことができた。微笑んで「まあまあ」と伊藤をたしなめる。
「仕事お疲れ様」
「蓮見さんもお疲れ様です。すみません、時間通りに行くと言ったのに……」
「いいよいいよそんなの。仕事なんだからしょうがないよ」
伊藤は恐縮した面持ちで頭を下げた後、手早く店員を呼んでビールを注文した。息をつきながらワイシャツの襟元をくつろげる。その姿は一介のサラリーマンそのものだった。
「伊藤君も、サラリーマンっぽくなったね」
素直にそうもらすと、伊藤は複雑な表情で依子を見返した。
「……それは、くたびれた印象がするってことですか?」
「え? いや、そんなことないよ。大人っぽくなったとか……そんな感じ」
「いや、よっちゃん。ふけたよ」
依子のフォローを台無しにする早田の一言である。
案の定伊藤は眉をぴくりと動かして、静止している。表情には出ていないが、ショックを受けているのがありありと伝わってきた。
「大丈夫だって、伊藤君。スーツ似合ってる!」
あわてて依子が更なるフォローをいれても、また早田が面白そうに伊藤を凹ませるひとことをはなつ。堂々めぐりでなかなか乾杯にたどりつかない。
そうこうしているうちに悠季も到着して、結局全員で乾杯することになった。その時にはもう伊藤のビールジョッキから泡が消えていて、また一つ彼は眉をしかめたのだった。
藤代と付き合っていることを話そう、と思って来たはずなのに、時間は無常にも流れていく。ことあるごとに腕時計で時間を確かめ、その経過にひっそり溜息をつき、ごまかすように依子はジョッキをかたむけた。
段々と、いきなりそんな報告をしたところでどうなるだろうと、そもそも論が頭をかすめる。悠季と伊藤はともかく、早田は藤代のことなど何も知らないのだ。
ビアガーデンの賑やかな雰囲気の中でそれぞれの近況報告を語り合い、世間話に花が咲く。まわりのテーブルと同じように、笑い声も乾杯のコールもすべてが夏の夜空に吸い込まれていく。
そうしているうちに、またいつか自然な流れで言えそうな時でいいかと依子は思うことにした。
十時を過ぎたところで、悠季がそろそろ帰ると腰を浮かす。全員次の日に仕事がある身である。自然に会計という流れになった。
財布を出そうとバッグをのぞくと、携帯電話がチカチカと光っている。必要分のお金を出した後、それを確認すると藤代からの着信とメールが入っていた。
着信は九時頃。メールはその少し後だ。
メールに件名はなく『飲み会終わったら、俺とも飲もうよ。平吉で待ってる』という本文があるだけのものだった。
今日の予定を藤代は知っている。伊藤や早田の存在を知って『他の男と一緒なのはやだな~』なんて言っていたが、すぐに『うそうそ』と笑って送り出してくれたのだ。その時には、飲み会の後に会おうなんて話は出なかった。
「藤代?」
携帯電話を見たままの依子に気付き、悠季がそっと耳打ちしてくる。うなづきながら、今が好機とばかりに小声で「実は付き合ってるの」と伝えた。
「ええっ!?」
悠季はひときわ大きな声をあげ、依子の肩をがしっとつかんだ。
「まじで!? 藤代、彼女と別れたの!?」
その一言で、伊藤と早田の視線が依子に集まる。依子は言えたのは良かったが、タイミングとしては悪かったと反省しながら、悠季の問いに答えた。
「うん、そうみたい」
「で、依子が正妻の座をいとめたってこと?」
「……うん、今のところ」
「ちょっとー! 言うの遅いよ! もうおあいそしちゃったじゃない!」
がくがくと肩をゆさぶられ、「言うタイミングがなくて……」と依子は息もたえだえにつぶやいた。頭がゆれて、お酒が回り出す。あまり気付いていなかったが、結構な量を飲んでいたようだ。
「また近々しっかり報告するから……、揺らすのは勘弁して」
「あ、そっか。ごめんごめん。で? 藤代なんだって?」
「……この後会わないかって」
「へー、それはそれはごちそうさま」
じゃあ早く行かないとね、と言いながら悠季は依子を解放した。身体が自由になっても、少しまだ頭が揺れている。これでは平吉に行っても、飲んだりできないだろう。これ以上飲んだら、次の日に支障をきたしそうだ。
「蓮見さん、大丈夫ですか?」
気遣う声がすぐ横で響く。いつの間にか近くにきた伊藤が依子をのぞきこんだ。
「あ、ちょうどいい。よっちゃん、依子を宜しく。あたしと早田はお釣りもらってから行くから」
「はい、じゃあ今日は失礼します」
きびきびと伊藤が答え、行きましょうと依子を促す。伊藤も悠季たちと一緒にのんびりしたら良いと思ったが、その問答を始めると長くなりそうだったので、素直に従った。一歩踏み出しよろけたところを、すかさず伊藤が腕をつかんで支えてくれる。
「気をつけてね~、藤代に宜しく~!」
悠季の声を背中で聞きながら、依子は伊藤とエレベーターへ向かった。エレベータホールには依子たちと同じく帰る人が多く待っている。それぞれ赤ら顔でビアガーデンの余韻にひたっているようだ。依子と伊藤も同じなのだが、二人の間には少し緊迫した空気が漂っていた。その原因を作ったのは自分である。依子の方に自覚があるだけに、軽はずみなことを言い辛い。
デパートを出てから、伊藤は自ら「急ぎますか」と早足で依子を先導した。
「報告が半端になっちゃってごめんね」
新宿の雑踏をかきわけながら、依子がぽつりともらす。ちょうど前方からの人の流れに合わせて一列になっていたため、先を歩いていた伊藤が振り返った。
「いいえ。……付き合うことになったんですね」
そう言って伊藤はすぐにまた前を向く。その声に感情は見えなかった。
「俺は蓮見さんがそれで良いなら、応援するだけです」
「ありがとう……」
人の波がとぎれたので、依子は伊藤に並んだ。新宿駅の入口が見えてきている。同じように駅へ向かう人たちが、波のように入口へ押し寄せていた。その一部になりながら、依子も伊藤と先を急ぐ。
「蓮見さん」
歩きながら、伊藤がひとりごとのようにかすかな声で依子を呼んだ。駅構内のざわめきの中で、すんなりと入ってきた声に依子は「なに?」と返事をする。
依子から反応があって、伊藤は少し驚いたようだ。聞こえないだろうと思いながら呼んだのかもしれない。一瞬視線が合ったあと、彼は恥ずかしそうに目をそらした。
「……もう、会えなくなりますか?」
言葉の通りに受け取らなくてはならない。
奥にひそむ意味を、隠された意図を、暴いてはいけない。
心の中の警告音を聞き、その指示に身をまかせ依子は微笑んだ。
「みんなで遊ぶ分には大丈夫だよ」
「そうですか」
伊藤は微笑んだ。
その笑顔を見ながら、笑わないでと依子は思う。そこからこぼれるものを、今の自分は拾えない。




