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藤代と付き合い始めて一週間。依子の日常は大きく変化した。
『これからは気兼ねなく連絡できるね』といった藤代は、言葉の通り毎日、退社すると依子に連絡をいれた。お互いのタイミングが合えば食事に行き、そうでない場合はそのまま通話する。その時間は少なくとも三十分、長い時は一時間をこえた。話す内容は、その日にあったことやちょっとした時事ネタなど、世間話の域を出ないものばかりだ。こんなに電話で話すことがあるのか……と依子は当初は大いに戸惑った。これまでの彼氏とは長電話などほとんどしたことがなかったのだ。弾む藤代の声を聞きながら、まるで女の子みたいだなとこっそり依子は微笑んだ。
そして金曜日。泊まりにおいでよという藤代からの誘いを受け、依子は藤代とともに彼の最寄駅で降り立った。隣の駅と言えど、おりるのは初めてだ。
駅前にバスのロータリーがあり、それを囲むかのように商業ビルが建っている。そこでは大衆居酒屋やファミリーレストランなどの看板がきらめき、依子の最寄駅と似たものを感じた。金曜の夜ということで、多くのサラリーマンが赤ら顔で行き交っている。
「じゃ行こうか」
藤代はそう言って、依子の手をとった。
その手をとることにためらう必要がなくなり、依子は静かに感動した。これからは、招かれればそのまま身をゆだねることができるのだ。
依子が手を握り返すと、藤代も何か思うことがあったのか微笑んだ。
駅から十五分ほど歩いたところで、ここだよと藤代が立ちどまる。そこは外灯でオレンジ色に照らされた五階建てのマンションだった。夜も更けていたので外壁の色は暖色系であること位しかわからないが、目立つ汚れや劣化もなく、築年数の浅さを感じさせる。こぎれいなエントランスに入るためには、当たり前のようにキー認証システムを通す必要があった。
一階奥の角部屋が藤代の部屋だった。間取りは1LDKで、一人暮らしにしては割と広めである。玄関からまっすぐに廊下がのびていて、奥にリビングが見えた。ここがお風呂で、トイレで、寝室で……と廊下にあるドアの説明を受けながら、まずリビングに通される。
キッチンと一体になったリビングでは、まず黒い革張りのソファが目に飛び込んできた。その先にテレビとシェルフがあっり、黒で統一されている。依子の背丈ほどのシェルフには、DVDがずらりと並んでいた。洋邦問わずさまざまなジャンルの映画やドラマがそろっていて、なかなか圧巻な眺めである。
「すごい数ですね……」
感嘆の言葉をつぶやきながら、依子はそのコレクションを眺める。その中に、なんと『不良にくびったけ』があった。しかも全巻きちんと揃っている。びっくりして手に取ると、藤代も依子がそれを知っていたことに驚いたようだ。
「あれ、そのドラマ知ってるんだ。観たことある?」
「あります、こないだ友達と全部観たばっかりで……」
「そうなんだ~。これ面白いよね。ぶっ飛んだ展開が笑える」
「藤代さん、よくこれを買おうと思いましたね」
「んー、なんとなくね。こういうバカっぽいのが観たい時だったみたい」
寝室も見てよと呼ばれ、依子は『不良にくびったけ』を棚に戻した。久しぶりに見たパッケージの不良の顔は、相変わらずすさまじい迫力だった。
リビングが全体的に黒でまとめられてシンプルな部屋だったのに対し、寝室は賑やかな印象の部屋だった。というより、家具が多い。ベッド、パソコンデスク、幅広のハンガーラックに更にチェストまで置いてある。ハンガーラックにはスーツや私服、バッグがぎゅうぎゅうにかかっていた。クローゼットはあるようだが、入りきらないらしい。
そして依子の目は壁にかけられたコルクボードに釘付けになった。そこには色々な写真が重なり合って貼ってあり、土台のコルクボード部分はほとんど見えない程だった。大学時代の仲間で撮っただろう写真が多く、撮影場所も海や山や遊園地など様々だ。写真の藤代は若く、まるで少年のように見えた。根本的な顔立ちはあまり変わっていないのだが、髪が短かったり茶髪だったりするからだろうか。
写真には男女ともに多くの人が写っていて、きっとこの中には彼女もいるのだろうと依子は思った。この分だときっと二人の写真も飾っていたのだろうが、それは処分したのか見つけることはできなかった。
「写真、気になる?」
コルクボードの前から動かない依子の隣に、藤代もやってきた。
「大学の時のばっかだよ。思えばあの頃が一番色んなとこ行ったからね」
「どれも楽しそうですね。あと、藤代さんが若いです」
「やんちゃな頃だね」
笑う藤代に不意に手を引かれ、依子は彼に抱きしめられた。
「藤代さん?」
「ふー、やっと金曜日終わったね」
「お、お疲れ様でした……?」
急にどうしたのだろうか。
藤代の考えが読めず、依子は彼の顔を見上げた。目があった瞬間に悟る。本能的な直感でわかった。
藤代の目が、雄の目になっていた。
「あの……リビング戻りませんか? まだお酒冷蔵庫に入れてませんから……」
ダメ元と思いながら、依子は提案した。一応腕の中から抜けようと身じろぎもする。
ここの来る途中コンビニで買った酒とつまみが、まだキッチンカウンターに置いたままなのだ。このまま放置すればすぐにぬるくなって、飲み頃を逸してしまう。まずは家で晩酌しようねという話だったのだが、一体どうしてこんな危うい雰囲気なのだろう。
「えー、でもなぁ……」
言いながら藤代は腕の力を強め、依子の首筋に顔をうずめた。ふうと吐息を吹きかけては、依子の反応を楽しんでいる。
依子とて大人で経験もある。だからこの後の展開については覚悟してきたのだが、ひと段落してからだと信じていた。こんな急にスイッチが入るなんて予想外だ。せめてシャワーを浴びたい。今日は猛暑日で、朝から既に汗をかいたし、退社してからだって生ぬるい風にあおられてじんわり汗ばんでいる。
「藤代さん……あの、シャワーを……。わたし汗くさいですし」
「うん。確かにしょっぱいね」
「ちょっと! 言わないでください! 恥ずかしいです!!」
「大丈夫だって、俺の方が汗かいてるし」
「いや、だからシャワーを……」
必死の依子の提案もむなしく、藤代は素早く依子に口づけをおとした後、艶めく笑みを浮かべた。
「この間の続き、しよ」
その色気に、依子は陥落した。
一週間を経て、わかったこと。
一つ、藤代はマメである。
一つ、寂しがり屋である。
一つ、絶対に、S。
依子は脱力感とともに、枕に顔をうずめた。裸の肩を覆うタオルケットの感触が気持ちいい。
このまま眠ってしまいたい……、キッチンに放置中のお酒のことなど忘れてしまいたい……。
瞼を落としてゆったりとした呼吸をする依子を、藤代が容赦なくひっくり返す。
「おーい、まだ寝ちゃだめだよ。シャワー浴びて、酒飲もうよ」
「……藤代さん、元気ですね」
本当に三十路ですか。
そう言いたくなるのをぐっとこらえ、依子は藤代に「お先にどうぞ」と告げた。とてもじゃないがまだ動けない。みのむしのようにタオルケットを巻き込んで依子が丸まると、藤代は楽しそうに笑った。
「じゃあ俺先シャワー浴びてくるね。寝てても起こすから」
下着だけつけシャワーへと向かう藤代を薄目で見送り、依子は目を閉じた。少しだけでも眠りたい。たとえ十分ほどだとしても休息が欲しい。
そして藤代は宣言通りに、うつらうつらと夢の世界をたゆたう依子をゆり起こした。ぼやけた視界の向こうで、藤代が笑っている。彼は普段はおろしている前髪を後ろに流していて、その目新しさに少し意識が戻ってきた。
「藤代さん……早いですね」
「まだまだ夜はこれからだからね。ほら起きて」
「……もうちょっと、もうちょっと休憩ください……」
「えー、だって休憩したら寝ちゃうでしょ」
「……」
無言の依子に対して、藤代も何も言わず依子の巻いているタオルケットの端をつかんだ。何だろうと視線を向ける依子ににこっと笑って
「悪代官ごっこしちゃおうかな~」
と言いながら、タオルケットを引っ張る。
何のことを言っているんだろうと、依子は最初反応が鈍かった。しかし、不意に思い至る。悪代官と言えば、帯を引っ張って女の子の着物を脱がせるアレのことだ。今タオルケットでそれをやられたらたまらない。
途端に目が覚めた。
「お、起きます。シャワー浴びてきます! だから藤代さん、ちょっと外してください!」
タオルケットは絶対死守!とばかりに、依子はまきつけたタオルケットを強く抱き込んだ。よくよく見れば、Tシャツとハーフパンツ姿の藤代に対して、自分はまだ何も身につけていない。
考えれば考えるほどに恥ずかしくなって、依子は一気に覚醒した。
その後、再び依子がベッドにもぐったのは三時間以上後のことだった。
シャワーの後、晩酌をしながらDVD観賞をしたのである。藤代のコレクションは本当に多彩で、選ぶのが楽しかった。ラブコメかアクションかで最後まで迷ったが、結局アクションにした。数年前にヒットしたハリウッド発のものである。映画自体は面白くて、眠気も戻ってこないくらいに夢中になって観ることができた。しかし、エンドロールが流れ出した瞬間に依子の口から大きな欠伸が出た。わかりやすい身体である。
「あ、もらっちゃった」
隣の藤代も言いながら、大口をあけている。ふわーぁと効果音がつきそうな、ゆったりとした大欠伸だった。
「寝ようか」
藤代の言葉に依子はうなづく。その拍子にもう一度、欠伸が出た。
歯磨きをした後寝室に直行し、二人でベッドに横になる。おやすみと言い合った後、藤代はすぐに目を閉じた。直後から細く寝息が聞こえてくる。あまりの寝付きの良さに依子は少し驚いた。
依子は重い瞼をこじあけてその寝顔を眺める。そして、お互いこうして共にベッドに寝ている不思議を思った。
自分が藤代の彼女になったという実感が、いまだにわいてこない。
恋人らしいことをしても、こんなふうにすぐそばに寝ていても、どこか現実味がない。
そもそも、藤代が彼女と別れたことが信じられないのだ。香織のような気持ちで藤代を疑っているわけではない。別れたことは、確かだと思っているというのに。
彼が『別れる』という選択をしたことが、信じられない。
彼女と結婚したくて、プロポーズしたと言っていた。そんな人と別れてすぐに他の誰かに気持ちを向けられるものなのだろうか。
もしかしたら、藤代が自分を想っていることを、自分が意識している以上に疑っているのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、依子の瞼も落ちてきた。視界が閉ざされてから、意識を飛ばすのはすぐだった。
次に依子が目覚めた時、藤代はまだ眠っていた。あどけない寝顔に自然と笑みがこぼれる。
藤代を起こさないようにベッドからおり、キッチンへ向かう。カーテンを開けると、力強く太陽の光が差し込んできた。時刻を確認すると昼近くになっていたので、太陽の眩しさにも納得する。窓を開けると、生ぬるい風が吹き込んできた。今日も暑い。
一度欠伸をしてから、依子は顔を洗い、一通りの手入れを済ませた。次に、やかんがコンロの上にあったので、それを拝借してお湯をわかす。
ここが自分の家なら簡単にごはんでも作るのだが、まだ昨晩初めてきたばかりの家でそれをするのは不可能だ。
とりあえず着替えようか。
そう決めて、一度寝室に戻ることにした。昨日の洋服がハンガーラックにかかっているのだ。そのまま袖を通すのはあまり気はすすまないが、今の格好で外に出るわけにもいかない。
そっと部屋のドアを開けると、ちょうど藤代がもぞもぞと動いているのが見えた。どうやら目が覚めてきたようだ。彼は目を閉じたまま大きく欠伸をした後に、
「あれ……リサ、もう起きたの? 早いね……」
と依子に声をかけた。
依子は、ドアを開けた状態で固まった。
今聞こえてきた単語が、いやでも耳に残る。
いつまでも部屋の戸口でたったままの依子を不思議に思ったのか、藤代はのんびりと起き上がって「どうしたの?」とたずねた。彼は自分が言ったことに気付いていないようだ。
依子は少し迷ったが、平静を装って伝えることにした。
「前の彼女、リサさんって名前なんですね」
この一言で藤代は自分が放った言葉に気付いたらしい。失敗した、とその表情が如実に物語っている。
「もしかして俺……、リサって言った?」
「はい」
藤代は大きく息を吐き、両手で顔を覆った。しばらく無言だったが、指をひらきその間から目だけをのぞかせて依子をうかがう。
「……ごめんね」
指の間から目だけ見えるという状態は、割とホラー要素が強いものなのだなと依子は全然関係ないことを考えた。藤代が気まずそうにする姿は珍しい。依子は苦笑して「大丈夫ですよ」と答えた。
「ずっと藤代さんが付き合ってきた人ですし、無意識で出ちゃうのもわかります」
「……なんか蓮見にそれ言われるの、複雑……」
「え、そうですか?」
これ以上ないフォローをしたつもりだった依子は、藤代の気分が上向いていないのを見て意外に思った。




