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そのキスは、最初から深いものだった。
状況把握がままならないうちに依子は藤代の舌に翻弄され、気付けば自分の身体がラグの上に倒され、上には藤代がのっているという状態が出来上がっていた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」
昼間から何をしようとしているのか! さっきのしおらしい様子はどこへ消えた!?
抗議の声はことごとく吸い込まれ、更には首筋をなめられて、依子はぎゃあと色気のない悲鳴をあげた。
混乱した中でも依子は必死で身をよじり、この状態から抜け出そうとした。藤代の腕にかこまれてはいるが、身体を反転させて芋虫のように這っていけば脱出可能だ。
しかし、脳内でのイメージは完璧でも、実際にそれを行動に移すのは至難の業だった。
「待つって何で?」
本気で不思議がりながら、藤代が再び顔を近づけてくる。両手をつっぱって肩を押すもかなわず、再度依子は藤代からキスされることとなった。
長く深いキスに、息があがる。
このままだと本当にいけない展開になってしまう! リビングのかたいラグの上でなんて嫌だし、寝室は現在物置と化していて入れないし、そもそも昼間に事に及ぶなんて恥ずかしすぎる。あおられた危機感に従って、依子は藤代が口づけの角度を変えるために一瞬離れた隙に顔を背けた。そして口の前で手をクロスし、ブロックを作る。そこまでしてようやく、藤代は虚をつかれた表情で止まった。
「藤代さん! ちょっと落ち着いてください!!」
「……俺は落ち着いてるけど?」
「だってわたしまだ返事してないです!」
「え? ダメだったの?」
「ダメじゃないですけど……ダメじゃないですけど……、でもちょっと待ってください。お願いですから……」
懇願すると、ようやく藤代は身体を起こし依子から離れた。依子はすばやく立ち上がって、逃げるように自室のドアへ向かう。
この局面を切り抜けるのに、ちょうど良い口実を思い出したのだ。
「なんかあからさまに逃げてない?」
「違います! わたしも藤代さんに渡すものがあること思い出したんです」
すねた様子の藤代を尻目に、依子は自室からお土産を持ってきた。藤代にはソファに座るよう促し、目の前にそれを差し出す。
「昨日動物園に行ってきたので、お土産です」
「……それは、どうも。……あぁ、ここの動物園楽しいよね。広いし、色んなショーやってるし」
中断されたことに納得はいかないようだったが、藤代は紙袋を丁寧に開けて、白いフクロウのボールペンを取り出した。
「お、かわいい。ありがとう」
藤代はフクロウのノック部分を何度か押して芯を出し入れした。その後で依子に笑顔を向ける。会社で使うよという言葉に、依子も笑んでうなづいた。
ほっと肩の力が抜ける。
主に先ほどの切羽詰まった状況を抜け出せたことに対しての安堵である。再度藤代にスイッチが入らないように、細心の注意を払わねばならない。
ちょうど藤代のコップが空になっていたので、それをキッチンに運ぶ。次はお茶で良いだろうか。聞こうとしたところで、先に藤代が口を開いた。
「これ、誰と行ったの?」
男と行ったの?というニュアンスがあることが、大いにわかる聞き方だった。以前、伊藤と一緒の時にかかってきた電話でもそんなことを聞かれたなと思い出す。あの時の藤代も、電話越しでも分かるくらいに雰囲気を変えていた。
「友達です」
「ふーん。男友達?」
「……まぁ、男友達もいましたけど、ちゃんと女友達もいて……」
「ダブルデート?」
「そんなんじゃないです!」
ごまかしているわけでも、嘘をついているわけでもないのに、手のひらに汗がにじむ。藤代は目を細めて、依子の心をのぞいてやろうというような視線を向けていたが、すぐに表情を和らげた。
「ま、友達ならいっか。ちょっと彼氏きどりしちゃった。……良いんだよね?」
「……はい」
これが、望んでいたことだった。
藤代の彼女になりたいと思っていた。
まさかこんなふうに突然に実現するとは思わず、喜びよりも戸惑いが大きいが、これからしみじみと実感できる日がくるのだろうか。
麦茶を入れて戻ると「今日暇なら、早速デートしようよ」と藤代はニコニコしている。こんなふうに屈託なく笑える人だったんだなと、依子はその笑顔をぼんやりと見つめた。
三連休最終日。お昼を過ぎた頃に香織が圭吾を連れて帰ってきた。ちょうど良いタイミングだと、依子は飲み物を用意する。二人はまたすぐに出かける予定のようだったが、依子が話したいことがあると言うとあっさりとお茶の誘いに応じた。
少しの緊張とともに、藤代との顛末を伝える。付き合うことになったと言った途端に、香織は「まじでっ!?」とソファから立ち上がり叫んだ。手にはまだたっぷりと入ったアイスコーヒーのコップを持ったままだったので、彼女の勢いでそれが少しこぼれてしまった。隣の圭吾があわててティッシュに手をのばす。こぼした本人はそれを意に介さず、依子をきつく見据えている。
「依ちゃん! いいの!? 奴はホントに彼女と別れてるの!?」
「えーと、多分……」
「多分じゃあやしい! うさんくさい奴なんだから、がさ入れしないと!!」
「いや、昨日の今日でそれ無理だから」
冷や汗をかいて依子は答えたが、実は昨日の時点で家には誘われていたのだ。うちにおいでよ、と。泊まっていけばいいよと言われたのだが、丁重にお断りした。身持ちがかたいつもりはないが、それでも少し時間が欲しかった。
香織はどうしても藤代を信用できないようで、口だけじゃないの、キープしてるだけじゃないのとぶつぶつ呟いている。
「あの、でも良かったですね」
こぼれたアイスコーヒーの片付けが終わった圭吾が遠慮がちに依子に微笑みかけた。それに間髪いれずに香織が「良くないよ!」と圭吾の肩をはたく。
「依ちゃんには伊藤さんが良かったのにー!!」
おいおいと泣き真似まで始めた香織に、圭吾は困り顔である。依子も彼と目を合わせて、とほほと笑いあった。
「伊藤さんと依ちゃんとうちらとで、ダブルデートが夢だったのに!!」
いつの間にそんなことを画策していたのか。
依子は呆れて、香織を見た。
そもそも伊藤との関係を、香織はどのように考えていたのだろう。伊藤のことは良い人だと伝えただけなのだが、彼女の中で妄想がふくらみすぎているような気がする。
「藤代とダブルデートなんて絶対いやー!!」
そりゃ、こっちだって嫌だよ。
とは言えず、依子は再び圭吾と視線を交わした。一体この場をどうやっておさめれば良いのか。どちらの視線もそう言っていた。
ひとしきり自分の言いたいことを叫んで、香織はようやく落ち着いた。冷房をつけた部屋だというのに、香織の額は軽く汗がにじんでいる。そこまでの熱意で自分を心配してくれている証拠なんだよなぁと思うと、依子も彼女を無下にはできない。
「香織が藤代さんのこと疑ってるのはわかるけど、少し見守ってくれると嬉しいよ」
依子がそう伝えると、香織は眉を寄せて依子を見た。気遣うような視線を受けて、大丈夫と言う代わりに笑ってみせる。
「依ちゃん、何かあったらすぐに別れるんだよ」
「わ、わかった……」
極端なアドバイスだったが、依子はうなづいてみせた。ここで納得しておかないと、また長い香織の演説が始まってしまう。
「伊藤さんには報告するんですか?」
次いで、圭吾が依子に質問した。
「……そうだね、するつもり」
筋として、伊藤に話さないわけにはいかないだろう。あれだけ依子のことを心配してくれた人だ。彼の顔を曇らせることになるかもしれないが、伝えなければ。それを思うと、気は重い。
圭吾は思案顔になってしばらく黙った。その表情が何か言いたげで依子は気になったが、結局彼は最後までその件に関して口を開くことはなかった。
どうしたものかなぁ。
その夜ベッドに入り、携帯電話を眺めながら依子は考えていた。
伊藤に藤代のことをどうやって報告すればいいのか、妙案は浮かばない。メールで言うのは突然すぎるし、呼び出してまで伝えることではない、と思う。やはり次に会う時に言うのが自然な流れだろう。まだその予定はないが、そのうち声をかけて飲み会でも開くしかない。
伊藤は、それを聞いたらどんな表情をするだろうか。
動物園で依子を心配していた伊藤の顔を思い出す。記憶の中の伊藤は、いつも真剣な表情で自分を見ている。笑ったり困ったり悲しんだりと、これまで伊藤の様々な表情を見ているのだが、どんな表情よりも彼のまっすぐな視線が印象に残っている。
伊藤は、香織のように困った顔をして心配するだろうか。それとも「蓮見さんが良いなら」と穏やかに笑うのだろうか。
できれば笑ってほしい、と依子は願う。
一つ寝返りをうって、携帯電話を枕元に置く。目を閉じると、想像の中の伊藤が「良かったですね」と微笑んでいた。