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その手をとれば  作者: ななのこ
第2章 伸るか反るかの夏の道 【藤代編】
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 次の日の午前十一時。その時になるのを待っていたかのようなタイミングで、藤代からの着信があった。

 依子はてっきり駅前で待ち合わせするのだと思っていたのだが、藤代は依子の家まで来ると言う。承諾して電話を切った瞬間、依子は「えーっ!?」と無人の部屋で叫んでいた。

 家まで来るなんて、どういうつもりなのだろう。本当に『ナマモノ』を渡すためだけに来て、すぐに帰るのだろうか。それとも部屋にあがりたいというサインだろうか。しかし藤代の性格からしたら、部屋に入りたいならそうと直接言ってくる気もする。ということはやはり、単純に『ナマモノ』が要冷蔵や要冷凍のものだから、とか?


 深呼吸をして、依子はリビングを見渡してみる。

 とてもじゃないが人を呼べる状態ではない。

 昨日は朝から動物園に出かけていたので掃除機をかけていないし、洋服や雑誌などが散乱している。どうしよう。どうするべき? 右往左往しながら考えても答えは出ない。仕方ない、と依子は覚悟を決めた。


 とりあえず、リビングだけは見られる状態にしよう!


 決めれば行動は素早くとばかりに、依子はリビングにある邪魔なもの全てを自室へ放り込んだ。次いで、玄関をあがってすぐの廊下とリビングだけ超速で掃除機をかければ、目立つほこりもなくなり何とか人を通せる程度の状態に仕上がった。


 達成感から大きく息をつき、その拍子に依子の額から一筋の汗が流れた。冷房もつけずに突貫で掃除をしたのだから、汗も噴き出るというものだ。それをタオルで雑にふきとり、麦茶をがぶ飲みして一息ついたところで、携帯電話が藤代の来訪を告げた。

 



 アパートの外階段を降りると、脇に自転車を停め藤代は待っていた。早いなと思ったが、自転車に乗ってきたのならば納得だ。そして、彼の手にあるものを見て、依子は『ナマモノ』の意味を理解した。


「はいこれ、あげる」


 開口一番に藤代から渡されたのは、二つのこじんまりとしたブーケだった。

 一つはピンクと白のバラが透明のセロハンに包まれ、ピンクのリボンで結ばれているもの。非常に女らしい、可憐な雰囲気のブーケだ。もう一つは、ひまわりとオレンジのガーベラが白い小さな花とあわさって、透明セロハンと黄緑のラッピング用紙で飾り付けられているもので、鮮やかな色彩が太陽の眩しさを連想させた。それぞれ雰囲気が違うブーケはどちらも綺麗で、受け取った途端にふわりと花の香りがただよってくる。


「昨日、大学時代の仲間の結婚式に行って来てね。そこでもらったんだ」


 言いながら藤代はバラのブーケを示した。


「蓮見にあげようと思ってたんだけど、朝になったら元気なくなっててさ。これだけじゃちょっとなって思ったから、こっちもあげる」


 おまけだよと笑いながら、藤代は次にひまわりのブーケを指さした。

 言われてみれば、バラの方は花弁が少ししおれている。反対に、ひまわりとガーベラは元気一杯に咲き誇っていた。


「ありがとうございます。どっちも、すごく綺麗です」


 たとえ、バラのブーケだけでも依子は幸福な気持ちになっただろう。しおれ始めていると言ってもその美しさは健在で、花瓶にうつして新鮮な水の中に入れたり、茎を切ったりすれば、再び元気になりそうな状態だった。それでも藤代が依子のためにと、新しくブーケを買ってくれたことを思うと、苦しいくらいに心が満たされるのを感じた。


「あと、これもどうぞ。引き菓子なんだけど、俺一人じゃ食べきれないから」


 自転車のかごに入っていた紙袋も、藤代から渡される。中にはオレンジ色の化粧箱が入っていて、確かな重みがあった。箱の上面には金色の蝶が二羽連れだって飛ぶ姿が刻印され、新郎と新婦を喚起させる。


「中身はバームクーヘンだって」

「……こんなに良いんですか?」

「うん、いいの」


 藤代は引き菓子には未練はないようで、あっさりとうなづいた。甘いものは好きだったような気がするが、食べられないことを残念に思わないのだろうか。

 箱の大きさや重さからしてボリュームもありそうだし、半分にして持って帰ってもらおうか。

 そんな依子の逡巡にかまわずに、藤代は「じゃあ俺行くね」と自転車のスタンドを外した。


 彼は、本当にこれを渡すためだけに来たのだ。部屋まで来たのは、ブーケの鮮度保持のために他ならないことが判明してしまった。取り越し苦労に自意識過剰。思い浮かぶ単語に顔を赤らめつつ、依子はかろやかにサドルにまたがる藤代を見守る。

 藤代のことだから、家にあがらないまでもお昼を一緒に食べようという話になると思っていたのに。

 一抹の寂しさがよぎり、気付けば依子は藤代を呼びとめていた。


「……うちで、少しお茶でも飲んで行きませんか?」


 恥ずかしさで藤代の顔は見ることができなかったが、依子には彼が笑ったのが見えるような気がした。そして、彼が「駐輪場借りるね」と言って目の前から去った後で、ようやく顔をあげてその残像を追うのだった。




 世の『浮気相手』や『愛人』と呼ばれる二番手の人たちは、今の依子のようなことを繰り返して、その地位を獲得してしまうのかもしれない。


 興味津々な様子を隠そうともせずリビングを見回す藤代を横目に、依子は軽く息をついた。

 あの時、藤代の彼女のことが頭によぎったが、それ以上に、まだ一緒にいたいという自分の気持ちを優先した。藤代に関して自分の気持ちを理性で抑え込むのは慣れていたはずだが、ゆるんでしまったらしい。こういうことが増えれば増えるほどに、色々なしがらみを踏み越えていってしまうかもしれない。


「必死な形相になってるけど、大丈夫?」


 藤代から声をかけられ、あわてて依子は表情に意識を戻した。危機感が顔に出ていたらしい。取り繕うように笑ってごまかしてから、棚を開けてガラスのコップを出す。花瓶は持っていないので、ブーケを飾れそうなものがそれしかないのだ。七分目ほどまで水を入れ、花をそこへ投入。水の中で茎を切れば長持ちすると藤代がアドバイスをくれたので、そのようにした。


 花の置き場に迷ったので、とりあえず二つともテーブルに乗せる。雰囲気が違うブーケなので、少し違和感があった。一つは後で自室に持っていこうと決めて、次に飲み物を準備する。アイスコーヒーをいれ、せっかくなのでバームクーヘンも切り分けることにした。


「今日は一緒に住んでるあの子は?」

「デート中です。休みの日は彼氏の家に入り浸ってるんですよ」

「若いね~」

「藤代さんも大学時代はそのクチだったんじゃないですか?」


 苦笑いとともにアイスコーヒーとバームクーヘンをテーブルに置けば、藤代も依子と似たような表情でうなづいた。


「察しがいいことで」

「それくらいはわかります」


 ソファに座る藤代に並んで、依子も座る。

 そしてすぐに違和感を感じ、彼とはす向かいになるようにラグの上に腰を下ろした。暑くなってからはい草でできたものを敷いているので、少し臀部に硬さをを感じるが、依子は慣れたものだ。


「あれ? 並んで座らないの?」

「なんか、変な感じがするので……」


 依子がそう言うと、藤代は自分もソファからおりて、ラグの上であぐらをかいた。


「じゃあこうしたら良いね。視線同じじゃないと、つまんないもん」

「……ありがとうございます」


 バームクーヘンは甘く、ほのかにメープルシロップの風味がした。苦いコーヒーとよく合う。


「バームクーヘン、美味しいですね」

「これが幸せの味だよ」

「……そうですね。結婚式、楽しかったですか?」


 大学時代の友人、ということは彼女も来ていたのだろうか。

 …………きっといたのだろう。だとしたら、彼女も同じブーケをもらって帰ったのだろうか。

 まさか、おそろい?そう思うと、途端に白とピンクのバラの甘さに胸やけを起こしそうになった。一体藤代はどういうつもりでこの花を自分に渡そうなんて考えたのだろうか。

 ふってわいた疑念を隠すことに腐心する依子に対して、彼は朗らかにうなづいた。


「楽しかったよー。新郎も新婦も幸せそうだったしね。大学の仲間と会うのも久しぶりだったから飲みすぎちゃった」

「二日酔いになってないですか?」

「うん、大丈夫」


 そうですかと口の中でつぶやいて、依子はバームクーヘンを食べた。

 会話が続かない。

 結婚式のことを話題にすれば良いのかもしれないが、どう切り込んでも彼女のことが頭をよぎる。それをわかっていてその話ばかりをするのは、依子にとっては試練でしかない。


「……彼女にも会ったよ」


 試練はすぐに訪れるものなのだな……と、依子は表情を崩さぬよう苦心しながら藤代を見た。続きをどうぞという意思表示は藤代に伝わったらしく、彼も一つうなづいて続きを話し出した。


「二次会の後で少し話してね。……別れてきた」


 藤代は静かに笑っている。柔らかい風に吹かれた木の葉のように穏やかに。けれどそこに悲しみが見え隠れして、依子は息苦しさを覚えた。

 手元に視線を落とす。藤代の表情が痛々しくて、見ていられない。

 藤代と彼女が別れたら良いのに、と思ったことは数知れない。きっと別れないだろうと諦観したことも、同じくらいにある。そのどちらの可能性だって考えてきて、その都度依子の感情は揺れ動いてきた。しかし、実際そうなった時の自分の感情は、想像上のものとは全然違うものだった。

 戸惑いばかりが胸に広がり、依子は顔をゆがめた。


「……彼女から言われたんですか?」

「どちらともなく、って感じかな。お互い何となくこうなることを察してたからね」

「……大丈夫ですか?」

「どうかな。大丈夫は大丈夫なんだけど、さすがに長い付き合いだったからね」

「つらい時は素直につらいって言った方が、早く立ち直れるんですよ」

「……それって、蓮見に言っても良いってこと?」

「もちろんです」


 依子が静かにうなづくのを見てから、藤代は依子の隣にやってきた。頬にふれられ、依子の身体がこわばる。そのあからさまな緊張ぶりに、藤代は少し笑った。頬にふれた手はすぐに依子の背中に移動して、力がこめられたと同時に藤代の顎が依子の肩にのる。その重みとともに藤代の香りを感じて、依子は泣きたくなった。ゆるい力で抱きしめられ、依子もそっと背中に手をそえる。

 

「……二年前くらいかな。彼女にプロポーズしたんだ。でもその時はちょうど彼女の仕事が忙しくなり始めたくらいで、待って欲しいって言われた。そのうちだんだんすれ違っていって……あとはこの通り。やんなっちゃうよねぇ」

「藤代さんは、ずっと待ってたんですね」


 依子の言葉に答えはなく、代わりに彼は深く息をついた。生暖かい吐息が思いきり首のうしろにかかり、依子の身体をふるわせる。依子は急激に頬が熱くなるのを感じ、必死で天井の模様を数えることにした。平常心平常心。と心の中で呟く。

 焦る依子の一方で、藤代はそんなことおかまいなしとばかりに腕の力を強めてきた。


「ねぇ、蓮見は、変わらないでいてくれる?」


 くぐもった声に藤代の悲痛な思いを見た気がして、依子は答えるのをためらった。

 変わらないと言えば、藤代を慰め、安心させることができるのかもしれない。けれど、それをしたら自分で自分の首をしめることになる。言霊にしばられて藤代を想うなんて嫌だった。


「……わかりません。人は変わるものだと思いますから」


 依子の答えに、藤代は落胆のため息をついた。依子も一呼吸をおいて「でも……」と続ける。


「でも、だからこそ自分が大事に思う人を大事にし続けることは忘れないようにしたいと思ってます。相手を楽しませるだけじゃなくて、悲しませないようにすることも大事ですし……」


 自分はたとえ他に夢中になることができたからと言って、藤代の彼女のように彼をないがしろにはしない、と言いたいのだが表現が難しい。直接的に彼女と比べて伝える方法を避けようとすると、何ともわかりにくい言い方になってしまう。


「あの、だから、大事な人には気を配っていれば、そんなに変化をおそれることはないというか……そんな感じなんですけど、意味わかりました……?」


 藤代の反応がないので言い募れば、不意に身体への圧力がなくなった。なんだろうと思ったところで、依子の頬が両手ではさみこまれる。その手のあたたかさにひたる間もなく、今度は顔の近さに依子はおののいた。


「十分わかったよ。蓮見が本当に優しいってことが」

「……それなら良かったです、けど」

「昨日の今日だけど、蓮見と付き合いたい。……いいかな?」


 聞いておきながら依子の返事は待たず、藤代はそのまま依子に口づけた。


 

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