18
藤代と谷口のランチは、その二日後に実現した。
「ねぇ、谷口さん。今日は一緒にお昼行かない? 美味しいパスタのお店紹介するよ」
朝から外出していた藤代が、帰社するなり谷口にそう声をかけ、まわりが一瞬ざわついた。まるでデートに誘うような口ぶりに驚いて、依子もつい後ろを振り向いてしまった。藤代はいつもの穏やかな表情で、困惑気味の谷口の答えを待っている。
「ちょっと藤代さん。なんか狙ってないですか~?」
谷口が返事をするより先に、彼女の隣に座る営業事務が突っ込みをいれた。
「えー、だって俺もたまには若い女の子とごはん食べたいもん」
「あ、かっちーーーん。藤代さん、今、このフロアの女子全員を敵にまわしましたよ」
「あらら、それは大変。じゃ、来週から謝罪行脚の旅に出ないとね」
「私にはお高いフレンチのランチお願いします」
「それ割り勘ね」
なんだかんだと軽口をたたきあいながら、藤代は営業事務の子をあしらって、さっそうと谷口を連れて出て行った。その手腕たるや、さすがである。
何か収穫があれば良い。祈りながら、依子は二人を背中で見送った。
折しもその日は金曜日だったので、その夜に依子は藤代から結果報告を受けることができた。
「これがジェネレーションギャップってやつ?」
そう呟きながら、藤代は水曜日と同じように管を巻いた。
ランチをしながら色々と彼女から聞き出すことには成功したそうだが、藤代の顔は冴えない。
なんでも彼女は、確実性を上げたいから、営業をかける前に相手を徹底的に調べたいと言ったそうだ。
「情報収集して相手の潜在ニーズをせめるっていうのも、わからなくはないんだけどね……。彼女はまだそれができるほどの経験がないからなぁ……」
そういう営業のやり方は、もう少し経験を積んでから。そう言って藤代が谷口をいさめても、彼女は譲らなかった。
そこまで強固な姿勢には自分なりの自信があるのかもしれないが、それが数字に出なければ説得力は皆無だ。
「まぁ、しばらくは俺や他の営業がつくしかないかぁ」
別にできない子って感じじゃないんだけどなぁ。相性かなぁ。
ぶつぶつ言いながら藤代は酒を進めていく。依子はふむふむと相槌をうちながら、その日は聞き役に徹した。
「あの子、独り立ちできるかな……」
ぽつりともらし、不安そうな表情を浮かべる藤代を見て、しばらくは谷口に悩まされる日々が続くんだろうな……と依子は漠然と思った。
そうこうするうちに梅雨が過ぎ去り、七月の三連休が始まった。
その初日、依子は伊藤と悠季と一緒に、横浜にある動物園へやってきた。
本当はもっと早く行くはずだったのだが、予定を合わせているうちに梅雨が始まってしまったのだ。雨の中行く場所でもないということで、梅雨明けを見越して日程を組んだら七月にずれこんだのである。
早田はアパレルショップという仕事柄、土日祝日は休めないので本日は来ていない。残念がってたよーと、悠季自身はさして残念そうでもない様子で教えてくれた。
長かった梅雨があけてようやく顔を見せた太陽が眩しい。依子は空を見上げて、つきさす陽光に目を細めた。毎年のことだが、梅雨があけると突然夏がやってくる。キャップをかぶってきて正解だったと、依子は朝の選択をした自分をほめたたえた。
「あつっ、それに人多い! 何これ、連休パワー!?」
依子の隣に立つ悠季は広いつばの帽子を目深にかぶって、目を見開いている。まさかこんなに人がいるとは思っていなかったのだろう。
三連休初日、しかも梅雨明けの久しぶりの行楽日和ということもあって、動物園の入口付近には大勢の来場者がいた。そのほとんどが子連れの家族である。小さい子供がそこかしこを駆け回り、はしゃぐ声がいたるところから聞こえてくる。
「動物園って家族のためのものだったのね……」
茫然とつぶやく悠季をまぁまぁとなだめながら、依子は園内マップを広げて見せた。
「せっかく来たんだから楽しもう! ほら、何から見たい?」
「そうだなぁ……やっぱ百獣の王かな」
「じゃ、ライオン目指しながら途中の動物も見てこうよ」
「のった」
依子と悠季は視線を交わして笑いあう。ちょうどそこへ、三人分のチケットを買いに行っていた伊藤が戻ってきた。
伊藤は依子と悠季にチケットを渡した後、二人の希望を聞いてうなづいた。すぐさま園内マップに視線を落とし、「それなら入ったらまず右の道にいきましょう」と指示を出す。
「さすがよっちゃん。地図が読める男だね」
悠季の茶々を伊藤は華麗にスルーして、じゃあ行きましょうと二人を先導する。はーいと二人は手をあげて、笑いながら伊藤についていった。
動物園内では至るところでイベントが行われていた。動物へのえさやりや散歩、一芸披露など、各動物と飼育員がそれぞれ頑張っている。
依子たち三人も、ライオンが荒々しく生肉を食べる姿を見て、次にゾウの水浴びを見て、さらに羊の毛刈りを見て……と子どもたちに交じって、存分に動物の観察を楽しんだ。
「しっかし、依子も藤代もよくやるよねー。そう思わない? よっちゃん」
突然悠季が言いだしたのは、サルを見ている時だった。サル山では大小さまざまなサルたちが、寝たり遊んだり喧嘩したりと自由気ままに過ごしている。この場所でのイベントは終わったばかりらしく、他よりは見ている人も少ない。
「ちょっと悠季、なんで急にそんな話するのよ」
依子が抗議の声をあげると、悠季はしらっとした顔で「だってふと思ったんだもん」と答える。
「ね、よっちゃん」
悠季が真ん中にいる依子をとびこして伊藤に同意を求める。伊藤は伊藤で、急な話題に驚きが顔にあらわれていた。
「あの藤代の爆弾発言て、確か四月だったよね。もう三カ月たってるのに、何も変わってないっておかしくない?」
「おかしくないんだってばー。現にそうだもん」
「よっちゃん、そろそろ行動に移す時かもよ。あたしトイレ行ってこようか?」
「何言ってんの! もう!!」
安易に伊藤をけしかけないで欲しい。依子はこわくて伊藤を見れなかった。
彼が依子をどう思っているのかはわからないが、香織のようにアンチ藤代なのは薄々気づいている。彼から否定的な意見を聞きたくない。応援してくれなくて良いから、どうかやめろなんて言わないで欲しい。
「まぁ確かに不毛な関係だとは思いますが……俺は蓮見さんが苦しくないなら、それで良いです」
ひたすら山をかけまわるサルたちを目で追っていた依子は、伊藤の言葉にはじかれたように振り向いた。伊藤は依子が視線を向けるのを待っていたかのようにうなずく。微笑みといえるほど笑ってはいないが、優しい表情だった。
「この間その話を聞いた時は、なんでそんな人が良いんだろう……と思ったんですが、こういうのは理屈じゃないですもんね」
やっぱりこの前の時は、そう思ってたんだ……。
伊藤から感じた負のオーラは、依子の勘違いではなかったらしい。
けれど今の伊藤は、あの時のようなつらそうな表情をしていない。良かったと依子は素直に思い、胸のつかえがとれたように感じた。
「なんか、よっちゃんがそれ言うと嘘っぽいね」
依子と伊藤の間にただよう穏やかな空気を壊すかのように、悠季の声が響いた。
途端、伊藤の表情が引きつる。
「失礼な! 嘘じゃないです」
「だってよっちゃん、リアリストじゃん」
「それはそうですけど……」
自分を飛び越えて論争が始まりそうになり、依子はあわてて言い募った。
「はいはい、そこまで! これ動物園でする話じゃないから! 次いこ次! 馬のジャンプ行こ!」
二人の返事を待たずに、その場から駆け出す。
「伊藤君、道教えて!」
振り向きざまに依子が言うと、伊藤はハッとした表情で園内マップに視線を落とし、
「蓮見さん、方向逆です!」
と、伊藤にしては大きな声で告げた。
こうして広い園内を回り、依子と悠季が音をあげたのは夕方だった。まだ見ていない動物がいるが、もうおなかいっぱいだと悠季が呟き、依子もそれに同意した。
そして最後に、入口付近にある売店に寄ることにした。売店内も人が多い。元気がありあまっている子どもたちに時に体当たりされながら、依子と悠季は店内を物色した。伊藤は少し見てすぐに、外で待ってますとリタイアしている。
「早田にこれでも買ってあげようかな」
そう言って悠季が手にしたのは、デフォルメされたライオンのキーホルダーだった。ふさふさの毛が柔らかく、さわり心地が良い。
「わー、すごい気持ち良いさわり心地」
「これを真似て、犬からライオンに進化してねってメッセージ。どう?」
「……悠季、早田君にライオンになって欲しいの?」
依子の問いに、悠季はにんまりと笑った。
「もしヤツがライオンに進化できたら、付き合ってもいいなぁ~」
「えーっ、そうなの!? そうだったの!?」
「ふふふ……。まぁ、当分無理そうだけどね」
悠季は妖艶に微笑み、そのライオンをかごに入れた。依子はそれを眺めてから、自分も藤代に何か買おうかと文房具系の棚へと移動した。
できれば形に残るものをあげたい。家で使うようなものは、彼女がきたときに不審がられるからダメだ。そうなると会社で使えるものだろうか。そこで目に止まったのは、動物のマスコットがついたボールペンだった。
数ある種類の中から、白いフクロウのついたボールペンを手に取る。
フクロウの表情は真顔。なかなか迫力のある姿が雄々しく見える。これなら藤代も使えるのではないだろうか。
依子はそれを買うことにした。
他にも、香織へのお菓子を選んで会計を済ませる。
まだ悠季は他の人へのお土産を選んでいたので、依子は先に店を出た。入口の脇では、伊藤が所在なさげに立っている。オレンジ色の濃い西日が彼の顔を照らし、ただ真顔でいるだけなのにどこか憂いを含んだように見える。依子は一瞬息をのんだが、すぐに伊藤に向かっていった。
「ごめんね、待たせちゃって。悠季ももうすぐ終わると思うんだけど……」
「いえいいんです」
伊藤はゆるく首を振った。
「蓮見さん」
「なに?」
「さっき言ったこと、本心です」
さっき言ったこと?
急に言われて、依子は何のことか分からず首をひねった。伊藤はしばらく依子の反応を見ていたが、心当たりがない様子を見てとったのか、
「サルを見ている時に言ったことです」
と補足説明をした。
サルを見ている時と言えば……藤代の話である。
「不毛な関係ですねってやつ?」
「違います! いや、それもそれで本心ですけど……。蓮見さんが今の状態を望んでいるなら、俺はそれで良いんです」
「ああ……うん」
「でも、少しでも辛かったり苦しくなったなら、言ってください」
伊藤は真剣な表情で、依子を見ている。その視線は鋭くて、依子は自分が射抜かれてしまうのではないかと思うほどだった。
「その時は、俺が蓮見さんを助けますから」
伊藤の言葉はまっすぐに依子に入ってきた。飾り気のない、彼の思いをそのまま表す言葉が、依子の胸を打つ。
「……ありがとう、伊藤君」
それしか言えなかったが、伊藤は微笑みうなづいた。
その後横浜で軽く三人で飲んで、それぞれ帰途についた。酒量としては多くなかったが、一日遊んだ疲れからか依子はよく酒がまわった。電車に乗っている間にその酔いは醒めたが、部屋に入ってベッドに座った途端に全身を脱力感がおそう。そのまま横になって試しに目を閉じたら、すぐにでも眠れそうだった。
今すぐ寝たい。でも、シャワーを浴びないと……。
考えながらも、身体が重かった。まぁいいか、明日でも……と思いかけたところで、バッグの中で携帯電話が震えている音がした。
それはすぐには止まらなかったので、誰かからの着信である。
伊藤だろうかと依子は漠然と思ったが、相手は藤代だった。
「もしもし……」
休みの日に藤代から連絡がくるのは、あのお疲れ会以来だ。何かあったのだろうかとぼんやりと考えるが、睡魔におそわれている今、依子の思考はまとまらなかった。
「あ、ごめんね遅くに。寝てた?」
依子の声音で敏感に感じ取ったのだろう。藤代は申し訳なさそうに言った。
「いえ……大丈夫です。かろうじて起きてました」
「ん、そっか。じゃ手短に。ちょっと渡したいものがあるんだけど、明日あいてる?」
「はい、あいてます」
「良かった。あのさ、渡したいものってナマモノだから、早めがいいんだけど。昼でもいい? 良ければそっち行くよ」
「え? あ、はい。大丈夫です」
じゃあ明日また連絡するね。そう言って藤代は電話を切った。
ナマモノって何だろう……?
依子は携帯電話を見ながら、ナマモノの候補をあげてみる。しかしすぐに限界がきて、依子はひきずられるように眠りに落ちて行った。