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伊藤と会う日は朝から厚い雲が広がっていて、昼過ぎには雨が降り出していた。たとえ天気が悪くても、新宿の人ごみはゆるまない。駅を出てすぐにあるファッションビルの前に着くと、依子と同じく待ち合わせをしている人でごった返していた。雨ということもあって店内にいる人も多い。伊藤はどこにいるだろうと探し始めた時に、背後で依子を呼ぶ声がした。
依子が振り向くと、髪を切ってこざっぱりとした伊藤が立っていた。短髪になって額や眉毛が出ていると、前よりも凛々しい顔立ちに見える。それとも、社会人になって少し雰囲気が変わったのだろうか。
依子が何も言わないので、伊藤はいぶかしげな顔になった。
「……蓮見さん?」
「あ、ううん。ごめんね。ぼーっとしてて。久しぶりだね、伊藤君。元気だった?」
「はい。蓮見さんはどうですか?」
「わたしも元気」
笑ってみせると、伊藤も口の端を上げた。
「とりあえず映画館まで行きましょう。時間はまだありますけど、早く屋内に入りたいですよね」
依子に異論はない。きびすを返し歩きだす伊藤に、依子はついて行った。
◆
伊藤が選んだ映画はゴールデンウィーク映画の中でも注目度の高いアクション映画だった。偶然にもテーマは『暗殺者』。ただし、こちらは悠季と観たDVDとは違い、真っ向からシリアス展開である。ハリウッド映画らしい迫力に満ちた映像と、息もつかせぬストーリー展開で、二時間はあっと言う間に過ぎた。
エンドロールが流れ始め、依子は一度目を閉じてシートに身体を沈みこませた。何となくわかっていても、親子の絆や恋人の絆などが描かれると依子は弱い。今回も、ラストでの引き裂かれた恋人達が再会する場面から依子の視界はぼやけていた。
一度だけハンカチで目頭を押さえ、目を開けるともう視界はクリアになっていた。
「面白かったね」
そう言いながら隣の伊藤を向くと、既に彼は依子を見ていたらしくすぐに目が合った。いつから見ていたのだろう。もしかしたら、泣いているのを見られたかもしれない。そう思うと途端に恥ずかしくなる。しかし伊藤の方は、依子と目が合っても特に動揺した様子は見せずに、微笑んだ。
「そうですね。やっぱり映画館で観ると、迫力が違いますね」
「うん。しかもすごく良い席だったし。指定席とってくれてありがとう」
映画館に着くなり伊藤からチケットを渡された時、依子は伊藤の心遣いに驚いた。混むかと思って……と伊藤は言い、当然のように依子からチケット代も受け取らなかった。自分が誘ったのだからの一点張りである。依子もだいぶ食い下がったのだが、伊藤の方が頑固だった。仕方ないから、彼の分の飲み物だけでも依子がおごらせてもらったのだ。
「夜はわたし出すよ!お礼させて」
この後の店も決まっている。あらかじめ映画館の近くにある居酒屋を伊藤が予約してくれた。今日は何から何まで伊藤が手配してくれているのだ。
依子の申し出に、伊藤はとんでもないと首を横に振った。
「そんなのダメに決まってます。初任給も出たし、俺に出させてください」
「ちょ、ちょっとちょっと。初任給の使い道間違ってるよ!そんなことじゃなくて、もっと別に使った方がいいよ。わたしじゃなくてご両親にごちそうするとか、何かあげるとか……」
「それはしたから大丈夫です」
「えっ、そうなの!?じゃあせっかくなんだし、とっときなよ。そんなことしてたら、すぐお給料なくなっちゃうよ」
「なくなりません」
システムエンジニアの初任給はそんなに高給なのか?!
依子は伊藤の発言に驚いて、口をあんぐりと開けた。
それとも実家暮らしの余裕なのだろうか。彼の性格上、家にいくらかは入れているとは思うが……。
少し考えたところでらちが明かないと判断し、依子はとりあえずこの話題を遠くへ押しやることにした。実際の支払いの時にまた蒸し返せば良いだけだ。
とりあえず場内は完全に明るくなり、客は皆帰り出している。依子もあたりを見渡した後、伊藤をうながし立ち上がった。
◆
伊藤が予約した居酒屋は、鶏料理が自慢の居酒屋だった。焼き鳥はもちろん、炭火焼や天ぷら、唐揚げ、鶏飯だけでなく、サラダから食事系まで幅広いメニューで鶏が使われている。メニューで目についたものをたのみ、まず二人は乾杯をした。伊藤はビール、依子はウーロンハイである。
今日の映画の話、伊藤の社会人生活の話、依子の会社の新入社員の話、早田と悠季の話(二人はどうも完全に飲み友達になっているようだ)など、話題は次から次へとうつり、そのたびに新しい酒や料理がテーブルに並んだ。
伊藤は目の端を赤くしながらも、よく飲んだ。伊藤は酒量に比例して、少しずつ口数が増えていく。その変化が面白くて、依子もついけしかけてしまった。
一杯目こそお互い軽めの酒を飲んだが、二杯目からは焼酎のロックを飲みすすめ、料理を食べきった頃には三杯目があいていた。
「うーん、四杯目、伊藤君いく?」
「……いきましょうか」
ここで伊藤は腕時計を確認する。
「まだ時間はあります」
「よし、じゃあ飲もう」
お互い先ほどと同じ飲み物を注文し、一緒に漬物の盛り合わせも頼んだ。
「ちょうど俺も、そういうのが欲しいと思ってました」
「でしょでしょ。もう鶏はおなかいっぱいだもんね」
「そうですね」
伊藤は漬物がきた途端に、沢庵に箸を伸ばした。よっぽど待っていたらしい。依子は焼酎を一口飲んでから、自分も茄子をとった。
「ところで、例の会社の先輩とはどうですか?」
伊藤からその質問がきたとき、依子はやっぱり聞かれた……と少し残念に感じながら伊藤を見返した。いつかはこの話題になると思っていたが、できれば伊藤と藤代の話はしたくなかった。
伊藤に藤代とのことを知られるのが嫌だから、というわけではない。現在の状況を伊藤に説明した時に、大丈夫と言えるほどの元気が、今の依子にはないから話したくないのだ。きっと伊藤は、依子が弱音を吐いたり愚痴を言ったりしても、きちんと聞いてくれるだろう。それはわかっているのだが……。
「いや、話したくないなら良いんです」
黙る依子の気持ちを察したのか、伊藤が先にそう言った。
真顔だった伊藤の表情はいくばくか柔らかくなり、依子をいたわる色がその目に宿った。
「ううん、どう話そうかなって迷ってただけ。伊藤君と前に会った時とちょっと変わったから」
「……何が変わったんですか?」
伊藤の視線に耐えられず、依子は目をそらしうつむいた。
「先輩から二股宣言されたというか……」
「……え?」
「わたしと彼女と、どっちを選べばいいのか迷ってるみたい」
伊藤は無言だった。
しばらく待ったが伊藤が何も発しないので、依子は話題を変えようとことさら明るい声を出した。
「この話不毛だから、違う話にしようよ。伊藤君の……」
「蓮見さんはそれで良いんですか」
依子の言葉をさえぎった伊藤の口ぶりに、はじかれたように依子は彼を見た。伊藤は、ただまっすぐに依子を見ていた。そこには何の感情も浮かんでいなくて、だからこそ彼が怒っているように感じる。
依子は戸惑いながらも、首を横にふった。
「良くはないよ……。でも、人の気持ちは変えられないでしょ。だから仕方ないと思ってる」
藤代に伝えた言葉は嘘じゃない。藤代自身の気持ちを尊重したいと思っている。たとえそれが、自分にとってはつらい現実につながるとしても……。
依子は焼酎のグラスを持ち、からんと氷を鳴らした。
「蓮見さん自身の気持ちは変わらないんですか?」
「……うん。変わらない」
伊藤君みたいに、未来を見据えた選択ができればいいのにね。
喉元まで出かかった自虐的な言葉は、そのまま焼酎とともに身体の奥へ飲みこまれる。
伊藤は「……そうですか」と吐き出す息とともに呟いた。まるで彼の方が当事者であるかのように、沈痛な面持ちをしている。
あなたがそんなに心を痛めることはないんだよ。
再び、依子は言えない言葉を心にしまい、焼酎をあおる。
まだ少し濃い焼酎の香りが口内を満たした。
「心配してくれてありがとう」
依子がそう言うと、伊藤は怒った目で依子を射抜いた。けれどすぐに、伊藤はまた先ほどのような心もとない表情に戻ってしまう。
彼自身、何を言いたいのか図りかねているようだ。何度も口を開いては閉じ、依子に視線だけで何かを訴えてくる。
依子が待っているのを見て、伊藤はようやく心を決めたようだ。
「……蓮見さん、今日楽しかったですか?」
放たれた言葉は依子には意外なもので、一瞬反応が遅れてしまった。
「うん、楽しかったよ」
そう答えると、伊藤は微笑んだ。
「じゃあ、また誘います。次は動物園なんてどうですか」
「動物園?」
「はい。今は良い季節ですから、横浜にある大きなやつにでも行きませんか。早田と松本さんを誘ってでも良いです」
「うん、いいよ。楽しそうだね」
「早田に弁当でも作らせましょう。奴の料理、うまいんで」
「ふふっ、それ良いね。じゃあわたしおにぎり握って行くよ」
「具の中に、昆布いれてもらえますか?」
「了解」
伊藤が本当に言いたかったことが、動物園の誘いかどうかはわからない。
けれど依子はこれ以上は伊藤の悲しそうな顔は見たくなかった。だから、ことさらに明るい声を出し、そして笑った。
共通部分はここまでで、この後は【藤代編】と【伊藤編】に分岐します。
藤代が気になるなという方は、このまま次話に進めば藤代編の第2章が始まります。
いや、伊藤の方が……という方は、お手数ですが一度目次に戻っていただき、伊藤編の第2章『想いに眩みし分岐点』の17話へと飛んで読んでください。