表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その手をとれば  作者: ななのこ
第1章 行きつ戻りつ冬春の道 【共通】
14/54

14

 それから依子の涙はなかなか止まらなかった。知らず知らずのうちにためこんでいたものが、堰を切って流れていく。藤代に申し訳なくて何度も離れようと試みたが、彼はそれを許さなかった。

 結果、依子が泣きやんだ後の状況は、惨状と表現したくなるほどひどいものだった。

 もう大丈夫ですと何度も繰り返すと、ようやく腕の拘束が弱まった。そしてまず目に飛び込んできたのは、依子のアイメイクと涙がしみこんで汚れた藤代のカットソーであった。

 涙はそのうち乾くにしろ、マスカラとアイライナーの汚れがひどい。


「す、すみません! 藤代さんの洋服が、ひどいことに……」


 言いながら、その化粧が藤代の服についたということはつまり……ともう一つの事実に依子は気がつく。自分の顔は一体今どうなっているのか。想像するだに恐ろしい。

 あわててテーブルからおしぼりをひっつかんで、目元にあてる。今度こそトイレに駆け込まなくてはならない。


「すみません、洋服、わたし弁償します。本当にすみません……」

「大丈夫。そんなの気にしなくていいから。……トイレ行くんでしょ? 目つぶっててあげるから、行っておいで」

「は、はい……」


 そっとおしぼりをどけて依子が様子をうかがうと、藤代は素直に目を閉じていた。依子はバッグからポーチを取り出し、立ち上がる。部屋を出るときに「もういいですよ」と一応声をかけて、依子はトイレに飛び込んだ。

 鏡で見た自分の顔は、案の定ひどいものだった。目の下はマスカラが落ちて真っ黒、まぶたは腫れて、両目ものもらいにでもなったんですかと言いたくなるほどだ。

 時間にしてどれくらい泣いていたのだろうか。一応声を殺していたつもりだが、店の人には気付かれてないだろうか。でもピザの後にはパスタがくるはずで、もしかしたらそれを持ってきたなんて可能性もある。そこにあの状況だったら、絶対に気まずくて入れなかっただろう。

 なんてことをしてしまったのだろうか!!

 激しく後悔しながら、依子は部屋に戻る。

 テーブルの上には湯気をたてたパスタが置いてあった。

 あやうく依子はぎゃあと叫びそうになった。


「も、もしかして、あの……店員さんに……泣いてたのばれてしまったでしょうか?」


 おそるおそる藤代にたずねたら、藤代は大丈夫と優しく笑った。


「この店、客が呼ぶまでは店員は来ないみたいよ。蓮見が泣いてる時にも特に気配は感じなかったし、ふすまも開いたりしなかったよ」

「……そうですか」


 よく見てる!と心の中でつっこみつつ、依子は藤代の向かいに再び腰をおろした。もう顔が上げられない。アイメイクを直した結果、目元はほぼすっぴんの状態であり、しかもまぶたの腫れは健在だ。うつむく依子の眼前に、おしぼりが差し出された。


「はい。新しいおしぼりもらっといたよ」


 藤代の気遣いが完ぺきすぎて、泣けてくる。依子はお礼を言って、再び目頭におしぼりをあてた。じわりと広がる冷たさが気持ち良い。

 ふーと息とついて落ち着くと、途端に目の前のパスタの香りが鼻こうをくすぐってきた。にんにくの香りが依子を誘う。食べたい、が、おしぼりを目から離せない状態である。


「そんなに目もはれてないから、大丈夫だよ」

「……そんなことないと思います。お岩さんでした」

「大丈夫大丈夫。ほら食べよ。美味しそうなのきたし」


 しぶしぶおしぼりを外すと、はいと取り分けられたパスタの皿を渡される。


「できたてを食べた方が絶対美味しいからね」


 藤代は本当に依子の顔の変化など気にしていないようだ。まっすぐな視線を受けて依子はちらりと目を合わせた。しかし、やっぱり恥ずかしさが消えず、目をそらしながらお礼を言った。


 パスタは、新じゃがとにんにくのペペロンチーノだった。これもとても美味しい。にんにくがふんだんに使われていて、贅沢な気分になる。

 美味しいと感想を言い合った後、しばらくはお互い無言でパスタを食べた。会話の糸口を見つけられないままに、依子はパスタを食べ終わってしまった。気付けばワインももう空っぽだ。

 それに気付いた藤代が


「次はメインの肉がくるよ。赤ワインにする? 蓮見、赤はいけるクチ?」


 とたずねてくる。


「いえ、赤ワインはあんまり……。だから、白ワインをもう一杯いいですか?」

「もちろん」


 その白ワインとともに、肉料理も運ばれてきた。分厚いステーキに、ここにもまた春野菜が添えてある。ソースは割とあっさり目の味付けで、食べやすいステーキだった。

 ちらほらと言葉を交わしながらそれを食べきると、最後はデザートだ。苺のジェラートにチョコレートソースがかかったそれは、一目みて美味しいだろうと予測できるものだった。そしてそれは事実であり、コーヒーを飲みながらデザートを楽しんでいるところで、ついに依子が恐れていた時がきた。


「ちょっと真面目な話をしてもいい?」


 いつもより硬い声音に、依子の背筋はぴんと伸びた。緊張が全身を駆け巡る。藤代の目は、こわくて見ることができないかった。

 藤代は口火を切ったものの、しばらくは何も言わなかった。どうしたのだろうと顔をあげると、微笑んだ藤代と目が合う。依子が藤代を見るまで、きっと彼は待っていたのだ。


「俺、蓮見のこと好きだよ」


 そうして告げられた言葉は、依子が夢にまで見た言葉だった。

 けれど、藤代はすぐにその微笑みを寂しげなものに変えて続ける。


「でも、彼女のことも好きなんだ」

「……はい」


 彼女と別れていないのだから、彼女のことを想っているに決まっている。そう理解はしていても、現実として藤代の口からそういう言葉が出ると、堪えるものだった。最初の言葉が彼方へ飛んでいってしまうくらいの攻撃力だ。

 依子は一瞬だけうつむいたが、すぐにまた藤代に視線を戻した。

 こんなふうに自分の気持ちを話す藤代は初めてだ。そして、もしかしたらこれで最後になるかもしれない。だとしたら、しっかりと目に焼き付けておきたい。


「今、彼女とうまくいってないのは本当。蓮見のことが気になって、一緒にいたいと思うのも本当。……でも、彼女と別れる踏ん切りがつかないのも……本当」

「……はい」

「蓮見が何も聞かずに、何も求めずに、俺と一緒にいてくれたから、ずっと甘えてた。ごめんね。たくさん振りまわして」


 藤代は一つ一つの言葉を、普段よりずっとゆったりとしたスピードで告げた。それはまるで、依子に向けて話しながら、自分にも言い聞かせているように感じる。


「いえ……。わたしも楽しかったんです。本当に……」

「うん。俺もだよ」


 藤代は一度コーヒーを飲んで、依子から視線を外した。


「……あのさ、蓮見。こんなこと言ったら、困らせるのはわかってるんだけど……少し時間をくれないかな」

「時間、ですか?」

「もう少し、俺に迷わせて欲しいんだ」


 もう会わない、と言われると思っていた。これまでのことを謝罪された時点で、終わりの時がきたのだと依子は感じていたから。

 予想と違う言葉を受けて、依子はその意味を理解するまでに少しの時間を要した。その間、藤代は心配そうな目で依子の答えを待っている。藤代の自信のない顔なんて、めったに見られるものじゃない。かわいいなと、依子は一瞬だけその場のすべてを忘れて思った。

 そして、その顔をさせているのが自分だという事実が、依子に意外なくらいの喜びを生んでいた。

 だから、藤代の望みをかなえるべく、依子はうなづく。


「もちろんです。藤代さんの気持ちは、藤代さんのものですから」


 そう言うと藤代はあからさまに安心した表情を浮かべ、次にそれはそれは嬉しそうにうなづいた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ