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それから依子の涙はなかなか止まらなかった。知らず知らずのうちにためこんでいたものが、堰を切って流れていく。藤代に申し訳なくて何度も離れようと試みたが、彼はそれを許さなかった。
結果、依子が泣きやんだ後の状況は、惨状と表現したくなるほどひどいものだった。
もう大丈夫ですと何度も繰り返すと、ようやく腕の拘束が弱まった。そしてまず目に飛び込んできたのは、依子のアイメイクと涙がしみこんで汚れた藤代のカットソーであった。
涙はそのうち乾くにしろ、マスカラとアイライナーの汚れがひどい。
「す、すみません! 藤代さんの洋服が、ひどいことに……」
言いながら、その化粧が藤代の服についたということはつまり……ともう一つの事実に依子は気がつく。自分の顔は一体今どうなっているのか。想像するだに恐ろしい。
あわててテーブルからおしぼりをひっつかんで、目元にあてる。今度こそトイレに駆け込まなくてはならない。
「すみません、洋服、わたし弁償します。本当にすみません……」
「大丈夫。そんなの気にしなくていいから。……トイレ行くんでしょ? 目つぶっててあげるから、行っておいで」
「は、はい……」
そっとおしぼりをどけて依子が様子をうかがうと、藤代は素直に目を閉じていた。依子はバッグからポーチを取り出し、立ち上がる。部屋を出るときに「もういいですよ」と一応声をかけて、依子はトイレに飛び込んだ。
鏡で見た自分の顔は、案の定ひどいものだった。目の下はマスカラが落ちて真っ黒、まぶたは腫れて、両目ものもらいにでもなったんですかと言いたくなるほどだ。
時間にしてどれくらい泣いていたのだろうか。一応声を殺していたつもりだが、店の人には気付かれてないだろうか。でもピザの後にはパスタがくるはずで、もしかしたらそれを持ってきたなんて可能性もある。そこにあの状況だったら、絶対に気まずくて入れなかっただろう。
なんてことをしてしまったのだろうか!!
激しく後悔しながら、依子は部屋に戻る。
テーブルの上には湯気をたてたパスタが置いてあった。
あやうく依子はぎゃあと叫びそうになった。
「も、もしかして、あの……店員さんに……泣いてたのばれてしまったでしょうか?」
おそるおそる藤代にたずねたら、藤代は大丈夫と優しく笑った。
「この店、客が呼ぶまでは店員は来ないみたいよ。蓮見が泣いてる時にも特に気配は感じなかったし、ふすまも開いたりしなかったよ」
「……そうですか」
よく見てる!と心の中でつっこみつつ、依子は藤代の向かいに再び腰をおろした。もう顔が上げられない。アイメイクを直した結果、目元はほぼすっぴんの状態であり、しかもまぶたの腫れは健在だ。うつむく依子の眼前に、おしぼりが差し出された。
「はい。新しいおしぼりもらっといたよ」
藤代の気遣いが完ぺきすぎて、泣けてくる。依子はお礼を言って、再び目頭におしぼりをあてた。じわりと広がる冷たさが気持ち良い。
ふーと息とついて落ち着くと、途端に目の前のパスタの香りが鼻こうをくすぐってきた。にんにくの香りが依子を誘う。食べたい、が、おしぼりを目から離せない状態である。
「そんなに目もはれてないから、大丈夫だよ」
「……そんなことないと思います。お岩さんでした」
「大丈夫大丈夫。ほら食べよ。美味しそうなのきたし」
しぶしぶおしぼりを外すと、はいと取り分けられたパスタの皿を渡される。
「できたてを食べた方が絶対美味しいからね」
藤代は本当に依子の顔の変化など気にしていないようだ。まっすぐな視線を受けて依子はちらりと目を合わせた。しかし、やっぱり恥ずかしさが消えず、目をそらしながらお礼を言った。
パスタは、新じゃがとにんにくのペペロンチーノだった。これもとても美味しい。にんにくがふんだんに使われていて、贅沢な気分になる。
美味しいと感想を言い合った後、しばらくはお互い無言でパスタを食べた。会話の糸口を見つけられないままに、依子はパスタを食べ終わってしまった。気付けばワインももう空っぽだ。
それに気付いた藤代が
「次はメインの肉がくるよ。赤ワインにする? 蓮見、赤はいけるクチ?」
とたずねてくる。
「いえ、赤ワインはあんまり……。だから、白ワインをもう一杯いいですか?」
「もちろん」
その白ワインとともに、肉料理も運ばれてきた。分厚いステーキに、ここにもまた春野菜が添えてある。ソースは割とあっさり目の味付けで、食べやすいステーキだった。
ちらほらと言葉を交わしながらそれを食べきると、最後はデザートだ。苺のジェラートにチョコレートソースがかかったそれは、一目みて美味しいだろうと予測できるものだった。そしてそれは事実であり、コーヒーを飲みながらデザートを楽しんでいるところで、ついに依子が恐れていた時がきた。
「ちょっと真面目な話をしてもいい?」
いつもより硬い声音に、依子の背筋はぴんと伸びた。緊張が全身を駆け巡る。藤代の目は、こわくて見ることができないかった。
藤代は口火を切ったものの、しばらくは何も言わなかった。どうしたのだろうと顔をあげると、微笑んだ藤代と目が合う。依子が藤代を見るまで、きっと彼は待っていたのだ。
「俺、蓮見のこと好きだよ」
そうして告げられた言葉は、依子が夢にまで見た言葉だった。
けれど、藤代はすぐにその微笑みを寂しげなものに変えて続ける。
「でも、彼女のことも好きなんだ」
「……はい」
彼女と別れていないのだから、彼女のことを想っているに決まっている。そう理解はしていても、現実として藤代の口からそういう言葉が出ると、堪えるものだった。最初の言葉が彼方へ飛んでいってしまうくらいの攻撃力だ。
依子は一瞬だけうつむいたが、すぐにまた藤代に視線を戻した。
こんなふうに自分の気持ちを話す藤代は初めてだ。そして、もしかしたらこれで最後になるかもしれない。だとしたら、しっかりと目に焼き付けておきたい。
「今、彼女とうまくいってないのは本当。蓮見のことが気になって、一緒にいたいと思うのも本当。……でも、彼女と別れる踏ん切りがつかないのも……本当」
「……はい」
「蓮見が何も聞かずに、何も求めずに、俺と一緒にいてくれたから、ずっと甘えてた。ごめんね。たくさん振りまわして」
藤代は一つ一つの言葉を、普段よりずっとゆったりとしたスピードで告げた。それはまるで、依子に向けて話しながら、自分にも言い聞かせているように感じる。
「いえ……。わたしも楽しかったんです。本当に……」
「うん。俺もだよ」
藤代は一度コーヒーを飲んで、依子から視線を外した。
「……あのさ、蓮見。こんなこと言ったら、困らせるのはわかってるんだけど……少し時間をくれないかな」
「時間、ですか?」
「もう少し、俺に迷わせて欲しいんだ」
もう会わない、と言われると思っていた。これまでのことを謝罪された時点で、終わりの時がきたのだと依子は感じていたから。
予想と違う言葉を受けて、依子はその意味を理解するまでに少しの時間を要した。その間、藤代は心配そうな目で依子の答えを待っている。藤代の自信のない顔なんて、めったに見られるものじゃない。かわいいなと、依子は一瞬だけその場のすべてを忘れて思った。
そして、その顔をさせているのが自分だという事実が、依子に意外なくらいの喜びを生んでいた。
だから、藤代の望みをかなえるべく、依子はうなづく。
「もちろんです。藤代さんの気持ちは、藤代さんのものですから」
そう言うと藤代はあからさまに安心した表情を浮かべ、次にそれはそれは嬉しそうにうなづいた。