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その手をとれば  作者: ななのこ
第1章 行きつ戻りつ冬春の道 【共通】
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 依子と藤代の『お疲れ会』という名目のデートは、四月の第三土曜日に決行された。

 藤代が予約した店は恵比寿にあるというので、待ち合わせもその駅の改札である。恵比寿に行くのが初めての依子は、山手線をおりた瞬間から緊張していた。

 改札前に藤代は既にいて、依子を待っていた。スーツでない藤代を見るのは初めてで、なんともいえない高揚感で身体が満たされる。Vネックのカットソーを重ね着し、細身のジーンズをはいた藤代は、依子と同じ年くらいに若く見えた。


「お待たせしました!」


 依子が小走りで藤代のもとへ向かうと、藤代は「ぜーんぜん。俺も今来たとこだよ」と薄く微笑みを浮かべた。


「じゃ行こうか。こっちだよ」


 藤代は迷うことなく、依子を先導していく。学生時代や社会人になりたての頃、よくこの周辺で遊んでいたそうだ。都会的ですね、と依子が感想を述べると、藤代はふきだした。

 ガーデンプレイスを抜け、大通りから細い道に入ってしばらくしたところにその店はあった。古民家風の一軒家の軒先にイタリア国旗がぶら下がっている。それ以外に目立つ装飾はなく、ただ玄関の脇にメニューが書かれた黒板がたたずんでいた。いわゆる、隠れ家レストランと呼ばれるような店である。


「素敵なお店ですね……」

「お酒と料理も素敵だと良いね」


 呆けたように店の外観に見入る依子に対して、藤代は微笑みその肩を軽くたたいた。入るよと声をかけられ、先にいく藤代の背を負う。厚い木の扉をあけると、重い鐘の音がした。

 玄関で靴を脱ぎ、通されたのは和室だった。床の間に掛け軸までかざってあり、中央のテーブルには座イスが並んでいる。部屋全体が和の趣を醸し出していて、何も知らなければ絶対に和食の店だと勘違いしていただろう。

 依子は座イスに座り、テーブルに置いてあるメニューを手に取った。そこにはカクテルやワインが写真入りで並んでいて、ここはやっぱりイタリア料理の店だと依子は改めて思う。

 今日は特別だからシャンパンを飲もうと藤代にすすめられ、依子もうなづく。

 ほどなく運ばれてきたシャンパンは、繊細なグラスの中で輝いていた。一緒に出された前菜の彩りの良さにも、依子は目を奪われる。


「じゃ、乾杯しよう。前年度の激務、お疲れ様~」

「お疲れ様です」


 かちんと軽くグラスを合わせ、シャンパンを口に含む。甘さの中のほろ苦さが絶妙で、とても美味しい。飲みやすい味なので、気をつけないとすぐに飲みきってしまうだろう。それはもったいないと依子は自分で自分に警鐘を鳴らした。ゆっくり飲まなくては、と言い聞かせる。

 藤代もシャンパンの味が気に入ったらしく、彼の方は一気にグラスの半分ほど飲み進めていた。


「美味しいね~、これ」


 ふわりとした笑顔が、普段より柔らかく見える。私服だからだろうか。何の気なしに藤代を見つめた依子は、その鎖骨が目に入り赤面した。スーツで普段隠れている部分が見えると、こんなにも意識してしまうのか。依子は初めての感覚に戸惑いと恥ずかしさを感じる。

 幸い、藤代は依子の心中には気付かず、のんびりと話しだした。


「なんか四月も半分過ぎちゃうと、三月のこと忘れちゃうね」

「そうですね。四月は四月で慌ただしいですしね」

「そうそう。新入社員の教育とかね」


 ここで藤代は少し顔を曇らせた。現在新入社員は研修中で、来週から各部署に配属される予定だ。依子の課には今年は誰も来ないが、藤代の方には一人来る予定で、彼が教育担当になることも決まっている。


「当たりだと良いなぁ」

「そうですね」


 過去に藤代は何度か新人教育をしたそうで、成功も失敗もしたと教えてくれた。まるでスポンジのように教えたことを吸収した新人もいれば、何度教えても同じ失敗を繰り返す新人もいたらしい。

 どんな人物が来るかは、配属初日にならないとわからない。藤代の負担にならないような人が来てくれたら良いと依子も思った。

 そこからしばらく会社の話をしながら、料理と酒を楽しむ。前菜の次に出たそらまめのスープも美味しかったが、それ以上に、次の春野菜のピザに依子は感動した。


「たけのこがピザにのってるなんて、初めてです」


 そのピザは、トマトソースの上にたけのこと菜の花とベーコンがのり、更にその上にたっぷりのチーズが溶けているというものだった。食べてみると、春野菜特有の柔らかい風味がする。


「美味しい! 藤代さん、これ美味しいです!」


 一口食べて依子は叫んだ。酒の酔いも手伝って、喜ぶ依子の声はワントーン高い。それを聞いて藤代はおかしそうに笑った。


「なーんか蓮見、すごい嬉しそうだね。平吉の時と全然テンション違うなぁ」

「平吉は平吉で好きですけど、今はこれが美味しすぎて……。藤代さん、このお店に連れてきてくれて、本当にありがとうございます」

「そんなに喜んでもらえると俺も嬉しいよ」


 藤代は目を細めて依子を見た。夢中でピザを食べていた依子はその視線に気づかず、すべてを咀嚼し終わった後にようやく目が合った。依子が視線を向けるのを、藤代はずっと待っていたらしい。その視線に含まれる何かが、依子の酔いを少しだけ醒ました。


「蓮見は、どうしていつも俺に付き合ってくれるの?」


 ざわりと胸を何かがかけあがる。にこにこと笑う藤代とは対照的に、依子の顔には戸惑いが広がった。


「急にどうしたんですか……?」

「んー、ちょっと聞いてみたくて」


 そんなことを聞いてどうするというのだろう。

 付き合う理由なんて、好きだからに決まっている。そう言えたらスッキリはするだろうが、依子には無理だった。彼女がいる藤代に告白したところで玉砕するのが目に見えている。自分の気持ちをあばくのは、まだ嫌だ。

 混乱する頭で必死に考え、依子はようやく一つの、言い訳にも似た理由をひねりだした。


「……それは……藤代さんと話してると楽しいからです。もともとお酒を飲むのも好きですし……」


 苦しいか、そうでもないか、依子には判断がつかなかった。藤代の次の言葉を聞きたくなくて、なかば強引に依子は「藤代さんはどうなんですか?」と尋ねる。


「どうって?」

「藤代さんこそ、どうしていつも誘ってくれるんですか?」


 藤代は依子ほど焦った様子もなく、そうだねぇと呟いた後、にこりと笑った。


「俺も同じ。蓮見と一緒にいると楽しいからかな」

「そ、そうですか……」

「なんか蓮見って話しやすくて、居心地良いんだ~。どんな話をしてもしっかり聞いてくれるから、ほっとするのかも。だから、ついつい疲れた日とかは蓮見と話したくなるんだよ」

「それは、どうも……」


 藤代は依子の反応を見て、口の端を上げて見せる。


「前に蓮見に、俺の前での蓮見は素かどうか聞いたの覚えてる?」

「あ、はい」

「蓮見がどうであれ、俺の方は間違いなく素だよ」


 依子が反応しないのを見て、藤代は「信じてね」と付け加えた。


「だからいつも甘えてる。ごめんね」


 これもまたいつもの調子である。ウインクでもしそうな笑顔に、依子の顔はひきつった。

 藤代の言葉を頭の中で反芻しても、その意味を正しくとらえられそうにない。

 何をもって素であると言えるのか、そして甘えていると感じるのか。藤代の感覚はまだよくわからない。

 けれど、藤代が依子の前では素でいられて甘えられると言うならば、彼女の前では一体どんな姿を見せているのだろう。


「……彼女には、甘えないんですか?」

「彼女? 彼女には……そうだね。甘えないね。甘えられなくなっちゃったって感じかな」


 藤代は瞳をかげらせ、先を続ける。


「昔は優しかったんだけどね。仕事に夢中の今は、自分にも他人にも厳しいんだよね~。しかもめったに会えないしね。前に会ったのは年明けだから……かれこれ四カ月くらい顔見てないよ。お互い都内在住なのに変だよね~」


 乾いた笑いをもらす藤代に痛々しさを感じる。前に寂しいか聞いた時と同じ表情だった。

 しばらくその表情を見ていて、依子にひとつの残酷な問いが浮かぶ。そして、あ、と思う間もなくそれが口をついて出てしまった。


「わたしは、彼女の代わりですか?」


 まずいことを言ってしまったと気付いたのは、藤代が目を見開いたのと同時だった。すぐさま依子の心が警鐘を鳴らす。早くも後悔の念が、依子の中でふくらんでくる。


「あ、すみません、今のは……」


 依子の言い訳をさえぎって、「違うよ」と藤代は首を横に振った。


「蓮見は、彼女とは違う」


 それを聞いて、依子は歯をくいしばりうつむいた。

 代わりなのかと聞かれたら、違うと答えるしかない。

 決まり切った答えを言わせるために質問したようなものだ。依子はそんな自分に腹をたてていた。そういえば前の合コンの時だって似たようなことをして反省したのに、繰り返してしまった。自分は学習能力がないのかもしれない。


「ごめんなさい……」


 ともすると涙が出そうだ。そうなると、ますます藤代を追い詰めることになってしまう。

 依子はとりあえずトイレに逃げようと立ち上がりかけた。が、それより先に藤代が音もなく依子の隣にやってきて、その腕で依子を包む。


「蓮見は悪くない。悪いのは全部俺だよ」


 違う。藤代は悪くない。

 依子は必死でかぶりを振る。

 

「ずっとわたしも、藤代さんに甘えてました……。彼女がいるって知ってたのに、誘われたら嬉しくて……。この関係がいつまでも続くようにって……思ってたのに……」


 依子の涙がその希望を流してしまう。

 関係が変わることをあんなに恐れていたのに、こんなふうに一瞬で変わってしまうなんて。

 依子は絶望にも似た気持ちで、涙を流し続けた。

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