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その手をとれば  作者: ななのこ
第1章 行きつ戻りつ冬春の道 【共通】
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 三月は、瞬く間に過ぎていく。

 平日は仕事漬け、土日は家事と睡眠というサイクルがほぼ出来上がりつつある頃、ようやく四月が見えてきた。

 月末週に入り、ラストスパートとばかりに依子は仕事に打ち込んだ。この時期になると企画書ではなく、契約書の作成業務が主である。契約書は、誤字脱字、変換ミス、数字間違いなどが決して許されない。なので作業自体は定時に済んでもチェック作業に時間がかかった。課内でダブルチェックの仕組みもあるので、他の営業事務の作った書類のチェックもしていると、やはり退社時刻は遅い毎日だった。

 あと少しあと少しと課員同士励ましあい、かすむ目には目薬で応急処置をし、そうして迎えた三月三十一日金曜日。すべての業務を終えた瞬間、依子は軽くガッツポーズをした。少し声が出てしまったのは、達成感の高さゆえである。


「お、蓮見、終わったの?」


 太田が依子の握りこぶしを目ざとく見つけて、声をかけてくる。それにはい!と大きくうなづき、依子はあがりますと声高らかに宣言した。

 お疲れ様と周囲から声がかかる。その声のどれもが明るいものなので、きっと皆ももうすぐ作業が完了するのだろう。

 達成感とともに片づけを済ませ、携帯をチェックする。すると、伊藤からの着信が残っていた。


「あれっ?」


 思わずあげた声に「どうしたー?」とまわりから声がかかる。


「あ、いや、なんでもありません」

「なになに、彼氏?」

「違います!」


 盛り上がりかけた場を沈め、依子はそそくさと会社を出た。伊藤からの着信は三十分ほど前。ビルを出てすぐかけ直すと、数コールで伊藤が出た。


「あ、もしもし。伊藤です」

「うん。蓮見です。どうしたの?」

「あの……ちょっと今日会えませんか?」

「えっ……」


 藤代の顔が浮かぶ。彼はまだ会社に残っていたが、おそらくそう長くかからないうちにあがるだろう。今日はきっと彼から連絡が来る。朝から予感があった。


「今ちょうど大学近くの店で友達と飲んでて、解散したところなんですけど……。もし蓮見さんが良いなら、待ってますから」


 依子と香織が住む部屋は、香織が大学に徒歩で通えるようにとその近くに借りている。よって、伊藤が大学近くにいて待っててくれると言うなら、帰り道に会うことは可能だ。

 藤代から連絡がきたらどうしようか。

 迷いもあったが、依子は自分に会いたいという伊藤が気になった。

 何があったのだろう。彼が軽はずみに誘うことはしないとわかっているので、何か重大なことがあったのだ。

 意を決して、依子は言葉を発した。


「……わたし今会社出たところだから、そっちに着くまで二十分くらいかかっちゃうけど、それでも良いかな?」

「はい、大丈夫です」

「じゃあずっと外だと大変だから、どこかお店入って待っててくれる? そこに直接行くから。居酒屋でもいいし、喫茶店でも良いよ」

「ありがとうございます。それじゃあ、場所決めたらメールします」


 電話を切ってしばらくしても、あまり実感がわかない。彼とはメールはしたことがあっても、電話はなかった。こんなふうに急に呼び出されることも、もちろん初めてだ。

 胸騒ぎにも似たざわつきを感じながら、依子は電車に飛び乗った。

 

 





 伊藤が指定した店は『平吉』だった。まさかと思う気持ちと、まああり得る話だと納得する気持ちと半々で、依子は引き戸を開けた。

 おなじみの個室に、今夜は伊藤が座っている。

 妙な気分で、依子は伊藤の向かいに腰をおろした。


「ごめんね、待たせちゃって」

「いえ、仕事お疲れ様です。すみません、急に呼びだててしまって……」


 伊藤は恐縮した面持ちで、依子に頭を下げた。


「いいよいいよ。ちょうど帰り道だし」


 依子はひらひらと手を振ってみせる。ちょうど店員がおしぼりを持ってきたので、ウーロンハイと食事がわりになりそうなつまみを注文した。

 乾杯をして、一息でいくらか飲んだ後、依子は伊藤に笑いかけた。


「来週からいよいよ社会人だね」


 そう言いながら、依子はやっとだねと心の中で付け加えた。伊藤は見た目も発言も大人びているので、いまだ学生だったことの方が信じられないくらいだ。


「はい、といってもしばらくは研修ばかりなので、働くっていうよりまだ勉強の意味合いの方が大きそうですけど」

「確かに。システムエンジニアって覚えることたくさんありそうだしね」

「そうですね」


 伊藤の就職先は、セキュリティシステムの開発会社だそうだ。工学部の情報ナントカ学科だと言う彼の専門はプログラミングで、順当な就職先だと本人も言っている。

 伊藤は焼酎のロックを飲んでいた。飲み会の後と言っていたからもう十分な酒量はとっているはずだが、今日の伊藤は顔色も平素と変わらない。

 依子はサラダを咀嚼しながら、伊藤は一体何の用だったのだろうと考える。

 それが伝わったのか、伊藤が急に依子を見た。


「実は、呼び出したのは……」


 と、伊藤が話しだしたところで、依子の携帯電話が鳴った。確認すると、藤代からである。依子は伊藤に断って、中座した。

 個室ののれんをかきわけ、店の出入口を目指し歩き始めたところで電話をとる。


「もしもし」

「あ、蓮見? よーやく終わったね、お疲れ様」


 藤代の声は弾んでいた。彼は忙しさも職務上の責任も依子の比ではなかったので、それはもうほっとしたことだろう。肩のあたりが随分と軽くなっているはずだ。

 その様子を想像して、依子は心の底からの気持ちで「お疲れ様でした」と答えた。


「あれ、今どっかのお店の中?」


 店内のざわめきの中を歩いていたことで、藤代は察したようだ。


「そうなんです……友達に呼ばれて」

「そっかー、残念。一緒に飲みに行こうと思ってたんだけど」

「すみません……」

「いーよいーよ。思えば、今まで蓮見がつかまってたこと自体が奇跡だったのかもね」

「そんなことないです。普段は暇です。今日はたまたま……」


 言い募る依子の剣幕がおかしかったのか、藤代が少し笑ったのが聞こえた。


「わかったよ。また今度ね。あ、そう言えば、食べたいもの決まった?店探すから教えて?」

「え、えーと、じゃあ……イタリアン、がいいです」

「了解。日にちはまた相談しようね」

「はい、ありがとうございます」


 藤代は終始変わらず穏やかなままだった。飲みに行けないと知って少しは残念そうになってくれたらいいのに。かすかに落胆を感じながら、依子はじゃあ……と電話をまとめに入る。


「あ、そうだ。いっこ教えて」

「はい?」

「呼ばれて会ってるのってオトコ?」


 ぎゃあ、と依子は心中で叫ぶ。聞かれたくなかったことを、聞かれてしまった。

 一瞬ごまかそうかと迷ったが、結局依子はそうです、と答えた。


「へー、そうなんだ。……彼氏?」

「違います! そんなわけないじゃないですか」

「そうなの?」

「そうです! 友達です!」

「ふーん、そっか。まいっか。じゃあまたね」

 

 藤代はあっさり電話をきり、無音の電話を持って依子は立ち尽くす。

 彼が依子の言葉を信じているのかそうでないのか、その声音からは読み取れなかった。







 席に戻ると、心配そうな顔の伊藤が依子を迎えた。


「……電話、もしかして……」

「うん。前に話した会社の先輩」

「誘いでしたか?」

「うん。でも今日は断ったよ」

「すみません」


 伊藤は頭を下げた。

 しかし、依子は伊藤が気にするほどは、藤代の反応を気にしていなかった。

 藤代が依子の言葉を信じたかどうかはわからない。けれど、どっちにしろ次に会う時に話せば済むことだ。藤代がかたくなに依子の言葉を受け入れないようなら、またその時に考えればいい。

 だから依子は大丈夫だと笑った。


「伊藤君が気にすることじゃないよ。それで、今日はどうしたの? さっき言いかけてたよね?」


 伊藤は依子を見て、一度目を伏せた。ためらう様子を見せた後で、意を決したのか依子を強く見つめる。


「蓮見さんに聞いて欲しいことがあったんです」

「うん。なに?」


 伊藤はここで焼酎を口に含んだ。グラスの中の透明な液体が、伊藤の口に吸い込まれていく。


「実は今日、彼女に呼び出されました」


 彼女というのは、去年の春に別れたという彼女のことだろう。改めて聞くと話の流れを損ねると思い、依子はひとつ相槌を打った。


「やり直さないかと言われました」

「……うん」

「俺と別れたことがすごく堪えたらしく、別れた後から食欲がなくなり大分痩せてしまったと彼女は言いました。もともと細い方だったんですが、確かに更に痩せて、頬もこけて……。働きはじめたらすぐ倒れてしまうんじゃないかって心配になるほどでした」


 依子は神妙な面持ちの伊藤から一度視線を外し、ウーロンハイを飲んだ。

 彼氏と別れたショックで痩せたという子は、依子のまわりにもいる。そしてそういう子は確かに、元彼への想いを大分長くひきずっていた。その彼女もどうしても伊藤にもう一度気持ちを伝えて、なんとか復縁したかったのだろう。


「俺は、別れたことに後悔はしてませんでした。それに、変な話ですが、彼女の心配もそこまではしてませんでした。彼女は芯が強い人で、就職活動の時も俺との別れがよぎったそうですが、それでも地元に帰ることは自分で決めていました。だから、別れても彼女は大丈夫だと思ってたんです」

「うん」

「でも……彼女の憔悴した様子に、そうじゃなかったことに気付きました。別れたことが、あんなに彼女を変えるとは思ってなかった……」


 伊藤は陰った表情のまま、先を続ける。


「最初よりを戻したいと言われた時に、この責任をとるべきかもしれないと考えました。せめて彼女が元気になるまででも……。でもそんなふうに考えること自体、恋愛としておかしいのもすぐわかりました。同情で彼女と付き合うことは考えられなくて、結局俺は彼女の手をとりませんでした」


 伊藤の声は暗く、その絶望的な色に依子はおののく。誰かの声で、こんなに暗いものというのは初めて聞いたかもしれない。

 蓮見さん、と伊藤は依子を呼び、自嘲気味に笑ってみせた。


「俺って冷酷ですか?」


 その質問に、依子はすぐにかぶりを振った。


「そんなことない。伊藤君が冷酷なんてことは絶対ないよ」


 依子は手元のジョッキに目を落とす。何と言えば良いのかすぐに思いつかない。けれど、伊藤が自分を責める必要はないのだ。それだけは伝えなくてはならない。


「人の気持ちは変えられない。彼女が伊藤君を忘れられない気持ちも、伊藤君が彼女を恋愛対象として見られないことも、理屈じゃどうしようもないことだよ」


 依子は顔をあげて、伊藤を見つめた。伊藤の瞳は揺れている。


「彼女が痩せたのは、伊藤君のせいじゃない。別れたことがきっかけだったとしても、それでも伊藤君のせいじゃないよ。それは彼女自身の問題で、彼女が自分でなんとか折り合いをつけていかなきゃいけないことだと思う」

「そう、でしょうか」

「もし伊藤君が同情で彼女とよりを戻したら、それこそお互いつらい思いをすることになったかもしれない。だから大丈夫だよ」


 伊藤はしばらく依子を見ていた。その視線が少しずつ確かなものになり、それに伴ってハの字になっていた伊藤の眉が角度を取り戻す。その変化に依子は微笑みをこぼした。


「蓮見さんこそ、カウンセラーになれますね」


 伊藤は穏やかな表情でそう告げた。

 もう彼は普段の調子を取り戻している。

 

「伊藤君でも、そういうのが必要な時があるんだね」

「そりゃありますよ」


 顔を赤らめて、伊藤は依子を見た。こういう表情を見せる伊藤は、途端に年相応の青年になり、彼の若さを感じる。他人の前で素直に感情表現ができるのは、若さの特権の一つである。


「……蓮見さんに聞いてもらって良かったです」


 伊藤は静かに言った。


「彼女と別れた後、何故かすぐに蓮見さんを思い出しました。話したところで蓮見さんにとってはどうでもいいことだとは思ったんですが……。きっと俺は、自分がこうやって蓮見さんに慰められたかったんですね」


 伊藤はひとりで完結し、うなづいている。一方、依子はどう返答していいかわからず赤面した。伊藤は何の含みもなく純粋な感情を表しただけなのだろうが、それだからこそ恥ずかしい。

 けれど、こうして自分を頼りにした伊藤に対して、何か還元できるものがあったことが依子は嬉しかった。

 

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