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「そう言えば、伊藤君に聞いてみたいことがあったんだ」
新宿駅に直結する駅ビル内のコーヒーショップはすいていて、ソファ席に座ることができた。伊藤が何故かおごると主張し頼んでもらったカフェラテを、依子は両手で包んで冷えた指先を温める。
「何ですか?」
伊藤はコーヒーを一口飲んで、依子を見た。ソファ席に座っているからか、先ほどよりゆったりとした印象に見える。
「あのね、まぁ……ちょっと不躾なことなんだけど……」
そう前置きをして、伊藤を伺う。伊藤はどうぞと普段の表情のままで、依子の言葉の続きを待っていた。
「去年の春に彼女と別れたって言ってたでしょ。その時、迷ったりしなかったの?」
伊藤は少し依子から目線を外した。依子もそれにならい、店内を見回してみる。コーヒーの香りがただよう店内で、何組かのカップルが談笑している。見事に全員が男女のペアだった。はためから見たら自分たちも恋人同士に見えるんだろうなと、依子は他人事のように考える。
「迷いましたね」
伊藤はすぐに返答をくれた。
「就職したら離れると決まっても、学生時代は一緒にいられるわけですし。それに、彼女の就職先は本社は地元だったんですが、東京や埼玉にも支社があったので、働き始めてから彼女が上京してくる可能性も一応あった。今別れなくても良いんじゃないかっていうのは、やっぱりありました」
伊藤の表情は変わらない。淡々と事実を述べている、いつもの表情だ。
「でも、やっぱり別れたのは、何かきっかけがあったの?」
「きっかけは特にないです。迷いながら考えていて、やっぱり続けられないと結論が出たので、彼女に言いました。……まあ、彼女やまわりには大反対されましたけどね」
「そうだよね……彼女はまだ伊藤君のことが好きだったわけだし」
「はい。俺も別に彼女を嫌だと思ってたわけじゃないんです。ただ、不確定要素に賭けてまで付き合おうとは思わなかった。そういう意味では、気持ちも足りなかったのかもしれません」
依子は黙って、カフェラテを一口飲んだ。温かく喉にしみる。伊藤は静かに「俺は臆病なんです」と告げた。
「遠距離になってだめになるのが怖い。結局のところ、理由はそれだけですから」
「……誰だって、先が見えないことには不安を感じるものだよ」
「そうですね。それでも、飛びこめる奴もいる。早田とかはそういうタイプです。だから別れた時は、奴は本当に怒ってましたね。意味が分からないって」
「ふふ……確かに、早田君は飛びこめそう」
依子は微笑み、そしてすぐに伊藤に謝った。
「ごめんね。ただの興味本位で、こんなこと聞いちゃって」
「いえ、いいんです。重苦しく話すのは俺の悪い癖なんです。別にもう何とも思っていないことなので気にしないでください」
「そうなの?でも嫌いになったわけじゃないんでしょ?」
「でも、すべてを賭けて付きあいたいほど、好きでもないんです」
そうして浮かべた伊藤の笑みは、寂しいとその心を伝えていた。
彼女への想いが薄れてしまったことへの寂しさなのだろうか。依子は聞けずに、押し黙った。
「蓮見さんは……」
伊藤がおずおずと声をかける。
依子が視線を向けると、少しだけ逡巡した後、伊藤は依子に言った。
「蓮見さんは、彼氏はいないんですか?」
「うん、いないよ。だって合コン行くくらいだし」
「そうですか」
ここで会話が途切れた。お互いが飲み物を口にする。店内で流れるジャズが妙に耳に響いてきた。
「でも、好きな人はいるの」
別に言わなくても良いことだった。けれど、伊藤が依子に話してくれた前の彼女との話に報いる何かがしたかった。何をもってイーブンとするのかはわからないが、依子は自然と伊藤に言っておきたいと思ったのだ。
依子の告白に、伊藤は瞬間目を見開いた。そうですか、と呟き、その人と付き合わないんですかと続ける。
「うん。その人、彼女がいるから」
「……そうですか」
伊藤がうつむく。どう返したら良いのか考えているのだろう。
けれどその沈黙に耐えきれず、先に依子が話を広げた。
「会社の先輩なんだけどね、大学時代から付き合ってる彼女がいるんだって。でも、その人、わたしとも会うの」
「……どういうことですか?」
「会社帰りに、たまに二人で飲みに行く関係。それ以上のことは何もないよ。でも……これって、浮気相手ってことかな?」
伊藤はしばらく依子を見つめていたが、やがて「わかりません」と首を振った。
「早田みたいに、彼女がいても他の子と遊ぶ奴はいます。早田にとっては友人関係の一環で、浮気じゃないみたいですが……。その、蓮見さんの想い人がそういうタイプなら、浮気相手というわけではないかと思います」
「……そっか」
無意識のうちに、声が落ち込んでいたらしい。依子の反応をみて、伊藤が少しあわてた。
「蓮見さん、もしかして浮気相手になりたいんですか?」
「そんなことない。浮気相手なんていやだよ」
依子はかぶりを振った。
「でも、ただの友人としてカテゴライズされるのも凹むっていうか……」
「あぁ、そうです、よね……。無神経ですみません」
「いや、いいのいいの。変なこと聞いて、こっちこそごめんね」
今度こそ、二人の間に沈黙が落ちた。
お互い飲み物を飲んで、どちらともなく視線を交わす。
「蓮見さんは、今の状態のままで良いんですか?」
話を打ち切る方向に流すのかと思いきや、伊藤は新たな質問を依子にぶつけてきた。
ストレートな問いだが、それこそ依子には判断がつかない事項である。眉根を寄せて依子は苦笑した。
「良いと思ってる。でも、それじゃいけないって考えるときもある。たぶん、告白してキッパリふられて、次にいくのが一番建設的だとは思うんだけど……」
「恋愛に、あらかじめ最適な選択とわかっているものはないと思います」
伊藤ははっきりと言いきった。その声の深さに、依子は改めて伊藤を見つめる。彼自身の経験からはじき出された言葉は、妙な重みをもって依子の心に沈んだ。
「だからこそ、決断するなら自分自身が納得した上でした方が良いですよ」
「……ありがとう」
「いえ、お礼を言われるほどのことでは……」
「……伊藤君、カウンセラーに向いてるって言われたことない?」
「いや、特にないです。今の会話にそんな要素ありました?」
「うん、あった」
依子は笑う。
「そうですかね」
伊藤も笑う。
そしてお互い顔を見合わせて、最後にもう一度笑った。