10
「『どっちだったら藤代さんは嬉しいですか?』くらい言えば良かった~!!」
依子はまわりに迷惑にならない最大限の声量で叫んだ後、テーブルに肘をついて目を覆った。
「まあまあ」
向かいに座る悠季が、落ち着いた声音で依子をたしなめる。
新宿南口から少し歩いたところにあるコーヒーショップは、日曜の午後だけあって満席である。隣のカップルが一瞬依子に視線を向けたが、悠季がひとにらみするとバツが悪そうにまた二人の世界へ戻って行った。
この日、依子と悠季は新宿に買い物に行く約束をしていて、その休憩としてコーヒーショップに入ったところだった。コーヒーを一口飲んで、すかさず依子は先日の一件を報告した。朝からずっと、悠季に聞いて欲しかったのだ。
「小悪魔依子は降臨できなかったわけね。で、実際はなんて答えたの?」
苦笑する悠季に対して、依子は顔をあげて再度溜息をつく。
「……何も。答えにつまってたら、話題変えられた」
「まあ確かに向こうもそこで黙られたら気まずいわ」
「そうだよね。失敗したなぁ」
「いいじゃん別に。藤代なんていつも無神経なこと言ってるんだから、たまには逆襲してやんないと」
悠季が言うように、いつも藤代の一言に振り回される身としては、たまには意趣返しもしてみたい。しかし、藤代を困らせたくもない。その天秤はいつも依子の中で揺れに揺れ、今回のような結果になってしまうのだ。
「でも、どんな時に自分が素かなんて、意識したことないよ」
「確かにね。男といるときは特にね。でも、結局のところ藤代は『俺と一緒にいるとき無理してないか?』って聞きたかったわけでしょ」
「そうなの!?」
「そうでしょ」
「悠季すごい。翻訳ありがとう」
「いや、どうも……」
悠季ならばきっと、藤代の数々の発言に対して的確な返答ができるのだろう。依子のように、藤代の意図をはかりかねて黙ってしまったり、とんちかんな言葉を返したりすることはないのだろう。
改めて依子は目の前の友人が輝いて見えた。
「でも、藤代もそんなこと言うんだね。自分がやりたいようにやってる印象あったけど、依子のこと気にしてるじゃん」
「……そうだといいけど」
「今度酔ったフリして抱きついてみれば?」
「そんなことしたら……」
依子は想像する。
藤代はどんな選択をするのだろうか。
優しく抱きしめ返してくれるのだろうか(そうしたら、愛人コースである)
それとも、やんわり拒否されるだろうか(そうなったら、関係の消滅である)
一瞬で浮かんだ二つの未来、そのどちらも依子は嫌だった。
「だめだめ。悲惨な未来しか待ってない」
「そうかなぁ~」
今のままで良いのだ。これ以上は望まない。
依子は自分に言い聞かせた。
「ま、依子がそれで良いなら良いんだ。ところで依子、相談があるんだけど」
悠季の話題転換に、依子はなあに?と先を促した。
「この後、こないだの二人呼んでいい?」
こないだの二人、というのは、早田と伊藤のことだろう。依子に異存はなく、首肯してみせると、悠季がありがとうと苦笑いした。
「早田が次はいつ? とうるさいもので」
「早田君は二人っきりが良いんじゃないの? わたし別にいいよ?」
それこそ依子も苦笑して答えた。
「いや、向こうも四人でと言ってるから。……まあそんなわけで、ちょっと連絡していい?」
言いながら悠季は携帯電話を手に取った。
「……あ、もしもし。突然だけど今日ひま? ……え? うん、そうそう。飲みに行かないかというお誘い。……え? あ、そうなの。……うん、うん、それでいいよ。じゃ」
電話をテーブルの上に戻して「あの二人、原宿にいるそうだ」と悠季は言った。
「おー、若者の街だね」
「まあ原宿と言っても買い物してるんじゃなくて、サークル活動中だってさ。駅からすぐのとこに大きい公園あるでしょ。そこで走ってる最中だった」
そういえばあの合コンの席で、サークルの話にもなったのだ。圭吾の所属サークルは、なんとかランナーズという名前で、その名のあらわす通り、大学周辺や都内の有名なランニングスポットにて走るという活動内容だった。卒業間近の早田と伊藤は当然サークル自体は引退しているが、暇な時は適当に顔を出していると言っていた。
「もうすぐ解散だから、その後こっち来るって」
「わかった。……それにしても、早田君もよく走ってる中で電話できたね」
「相当息荒かったよ。奴もいっぱしに走ってるらしいね。意外だわ。よっちゃんはストイックに走る姿が想像できるのに」
「それ早田君に失礼だから」
悠季をたしなめながら、しかし確かにそうだなと依子も笑みをこぼした。
依子の頭にも、淡々と表情を変えずに走る伊藤の姿は容易にイメージできる。姿勢良く走りそうだな。眼鏡は走っている間に曇らないんだろうか。
「よし、じゃああたしたちは店でも探そうか。今日何食べたい?」
悠季の声で想像上の伊藤はかき消え、途端にコーヒーショップのざわめきが耳に入ってきた。そういえば、手元のコーヒーももう人肌位までさめている。
「んー、そうだなぁ。あ、イタリアンはどう? ピザとかパスタ食べたい」
「オーケー」
適当に検索をかけて見つかった店を予約し、依子と悠季は先にそこで待つことにした。歌舞伎町に入る手前程にある、雑居ビル内の創作イタリアンの店である。日曜日の夜と言えど、場所は新宿。依子と悠季が入店した時にはある程度の賑わいを見せていた。
一杯目のカクテルを半分ほど飲み、前菜に頼んだサラダを食べ終わった頃、二人はやってきた。
「お待たせしました!」
運動してきたというだけあって、二人は前回よりも大荷物だった。早田はアウトドアブランドの大きめのリュックを背負い、伊藤はスポーツバッグを斜めにかけている。二人とも少し頬が上気しているところをみると、新宿駅から早足で来たのかもしれない。
「いいよいいよ。先はじめてたから」
「お疲れ様~」
悠季が手招きして、二人は席についた。依子の隣には伊藤、悠季の隣に早田が座る。
「ごぶさたしてます」
そんなことを言いながら座った伊藤から、ほのかに石鹸の香りがした。走った後にシャワーを浴びてきたのだろう。何となくドキッとしながら、依子も挨拶を返した。
おしぼりを持ってきた店員に、二人とも迷わずビールを注文する。
それらがきたところで改めて乾杯をした。
「やー、運動後の一杯、まじサイコーです!」
早田はジョッキの半分ほどを一気に飲んで、満足気に微笑んだ。
「真面目に走ってきたの?」
「ちょ! 何ですかその疑いの目つき! ちゃんと走ってきましたって! 今日はがっつり十五キロです!」
「そんなに!?」
依子と悠季の驚いた様子が嬉しかったのか、早田が胸を張る。
「そうです!ちなみによっちゃんもです」
「あー、それは何か想像つく」
「ひどっ」
早田がぎゃーぎゃーと騒ぐ中、依子は改めて隣の伊藤を見た。伊藤も早田もかなり細い体つきをしている。どこにそんな体力を秘めているのか。そういえば、マラソンランナーなどは皆極限まで絞り込んだ体型をしている。そういうことなのだろうか。
「ねぇ、もしかして二人とも、体脂肪率とかすごい低いの?」
依子の問いに、二人とも最近測っていないんですがと前置きをして、教えてくれた。どちらも一桁だった。おそろしい数字だ。
「二人とも、アスリートだったんだね」
「いやー、体脂肪一桁はすごいわ」
「でしょでしょ」
悠季に褒められて、早田は嬉しそうに笑った。その顔をみて、今日はなんとか彼を悠季と二人きりにしてあげようと依子は決意したのだった。
◆
十分にイタリアンを堪能し、四人で店を出た。この飲み会を経て、早田と伊藤が割と真面目にランナーしていることと二人の趣味が分かった。早田は料理が好きなのだそうだ。魚もさばけますよと自分の腕をたたく姿に、依子も悠季も感嘆の拍手を送った。伊藤は読書が好きで、主に時代小説を好むとのこと。早田のパーソナルな部分がいちいち意外性に富むのに対して、伊藤は安定してイメージ通りだった。
時刻としてはまだ早い時間。普段の依子と悠季なら、このまま帰るか、行ってもコーヒーを一杯飲む程度だ。次の日に仕事があるという事実を二人は忘れない。
さてどうしよう、と迷ったのは一瞬だった。誰かが動き出すより先に、依子は伊藤の袖を軽く引く。驚く彼に、できるだけ自然に見えるように、
「この後、ちょっと良いかな?」
と問いかけた。
お願い、どうか断らないで、と祈る思いで見つめると、伊藤はすぐにうなづいた。そして、そこからは伊藤が早かった。
「じゃあ、俺たちは先に行きます。今日は楽しかったです。また是非」
「悠季、早田君、気をつけて帰ってね。またね」
あっけにとられる早田と、意味深に依子を見つめる悠季の二人に手を振り、依子と伊藤は歩きだす。
伊藤は最初歩みが速く、依子は小走りでついて行った。しかし、雑踏を通りぬけ新宿駅に近づくにつれ、段々とそのスピードも弱まってきた。
「すみません、歩くの速かったですよね」
「ううん。はやくあの二人から離れたかったから、ちょうど良いよ」
依子の言葉に、やっぱりといったふうに伊藤は微笑んだ。
「早田と松本さんを二人にしたかったんですね」
「うん。だって、早田君って悠季のこと気にいってるでしょう?」
「そうですね。タイプだって喜んでました」
たとえ駅まで一緒に帰るだけでも、二人きりの時間である。悠季が早田のことをどう思っているかは分からないが、嫌がることはないだろう。
「早田君、本当は悠季と二人で会いたかったんじゃない?」
依子が問いかけると、うーんと伊藤は少し考えた。
「まぁ、二人きりで会ってみたいとは言ってましたけど、四人で飲むのも楽しかったとも言ってましたから。今日は今日であいつも喜んでたと思いますよ」
「そっか、それならいいんだ」
「これからどうしますか? 帰りますか?」
伊藤の顔から、感情は読めなかった。帰りたいと思っているのか、そうでもないのか、依子にはよく分からない。けれど、依子はせっかくだから……と言ってみる。いつもより小声になってしまったのは、緊張していたからに違いない。
「お茶でも飲んで行かない?」
「もちろん」
伊藤は微笑んだ。嬉しいと、その顔が言っていた。