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ローテーブルの上に置いてある携帯電話が鳴った時、依子はちょうど風呂に湯をはろうとリビングを出るところだった。反射的に掛け時計を確認すれば、時刻は夜の十時をまわったところ。
もしかしたらと期待をこめて携帯電話を確認すると『藤代修二』と表示されている。まさに願った名前に、知らず口元が弧を描いた。
「もしもし、おつかれさまです」
会社で挨拶するのと同じように電話に出る。まず耳に入ってきたのは派手な喧騒だった。繁華街にいることが容易にわかる。また歌舞伎町にでも出たのだろうかと依子は考えていると「おつかれさま。今大丈夫?」と少しかすれた藤代の声が響いた。結構飲んだみたいだなとアタリをつけつつ「はい」と依子はうなずいた。
「もう家?」
「はい」
「俺まだ新宿なんだけど、そっち行っていい? 今から飲みに行ける?」
「もちろんです」
少し声に力が入ってしまい、依子はさっと頬を赤らめた。向こうからは見えていないのをいい事に、空いた手を仰いで頬の熱をさます。
「おし。じゃ今から行くよ。二十分後くらいに着くと思う。寒いし先にいつもの店入ってて良いからね」
「はい、了解しました」
じゃあねぇと少し間延びした藤代の声で通話が終了し、すぐさま依子は行動を開始した。部屋着のスウェットを手早く脱ぎ捨てて、タートルネックのセーターと細身のジーンズを身につける。化粧を軽くし直したところで、藤代の電話から十分がたっていた。新宿から依子の住む最寄駅までは電車で十分かかる。依子の自宅から駅までも歩いて十分ほどの距離なので、ちょうど同じくらいのタイミングで目的地に着けそうだ。
「よしっ」
依子は小さく気合を入れて、玄関のドアを開けた。途端に吹きすさぶ冷気に身を縮こませる。二月の風は容赦なく冷たくて、厚めのマフラーをしっかりと巻き込んでから依子は駆け出した。
◆
最寄駅正面の大通りから細い道に入ったところにある居酒屋『平吉』。藤代が言っていた『いつもの店』とはここのことだ。チェーン店だというのに目立たない場所に店を出している故か、いつ行っても程良い混み具合で金曜日の夜でもあいていることが多い。
十時半過ぎに依子が店に着いた時、入り口付近では飲み会後の学生集団が小休憩もかねてたむろしていた。金曜日の夜にハメを外したくなるのは、社会人も学生も変わらないらしい。皆上機嫌でカラオケ行こうとかいやボーリングが良いとか、口ぐちに叫んでは盛り上がっている。
依子自身も大学生だった頃は同じように過ごしていた。数年前の自分を思い起こし、懐かしさにゆるむ顔をマフラーで隠しながら店の引き戸を開ける。藤代はもう少しかかりそうと連絡が来ていた。
夕飯時からの客の波が引いた時間とあって店内はすいていて、すぐに個室の掘りごたつ席へ案内される。のれんをあげて個室に入りながら、ふと頭の中に『密会は個室じゃなきゃね』という藤代の声がよぎった。それは初めて二人と飲んだ時の彼の言葉で、言いながら微笑んだ藤代は依子にとってかなり印象的だった。
当時の依子は藤代に対して『爽やかで面白い、隣の課の主任』という認識を持っていた。どんな仕事も楽しむことをモットーにしていると噂で聞いた通りの、よく冗談を言い周囲を笑わせ、和ませ、部下の心をつかんでいる人だった。社内で笑っている姿はよく見かけたし、皮肉な笑顔だって見たこともあった。
けれど、その時の顔は初めてだった。
悪い事をこれからしますとでも言いたげな、小狡いと表現できるような笑みだった。
その時依子は『この人、絶対腹にイチモツあるタイプだ』と直感したのだ。
そしてその日の内にそれを本人も認め、依子は更に驚いた。
隠すことも取りつくろうこともせず「あ、わかっちゃった?」と笑った顔も、また新しく見る藤代の顔だった。それはそれは嬉しそうで、依子の胸の奥が掴まれたのだ。
それ以来、依子は藤代に恋をしている。
◆
「おまたせー。あれ、待たせちゃった?」
のれんを上げて藤代が顔を出した時、依子はウーロンハイをぐびぐびと飲んでいるところだった。
「ちょうど今きたとこです。早く藤代さんに追いつこうと思って」
「おー。さすが。わかってるね」
藤代は顔を綻ばせ、その表情のままでおしぼりを持ってきた店員に焼酎を注文した。それから依子の向かいに座りおしぼりで顔をふく。そんな中年サラリーマンのような仕草でさえ、片思い補正がかかっている依子はドキっとさせられてしまう。ちょっとしたことについ目が止まってしまい、そのまま視線を外せない。
惚れた弱みってこういうことなんだろうなぁ。
そっと心中でこぼしながら、依子は藤代と乾杯した。
「今日はどんなメンバーだったんですか」
「西さんと宮本」
西は藤代の所属する課の課長、宮本は藤代直属の部下だ。宮本は依子と同期でよく知っているが、かなりの酒豪である。西もそれなりと聞いたことがあるから、今日は案外飲んでいるのかもしれない。
「宮本はほんと底なしだな。全然顔色変わんないんだもんな」
溜息まじりに藤代はつぶやいた。そう言う藤代は目元が赤い。
「藤代さんは赤くなるタイプですもんね」
「やんなるよねぇ。大の男が真っ赤になって酔っぱらうって」
「良いじゃないですか。赤い顔の藤代さん、かわいいですよ」
「そう? それならいっか」
あっさりと藤代は表情をゆるませ、枝豆をつまんだ。
「宮本君は同期飲みでもホントよく飲みます」
「だろうね。あんなに飲んでおいて、あれで悪酔いしないから良いよなぁ。よせばいいのに西さんが付き合っちゃってさ。西さん、あれは完全に二日酔いコースだわ」
「宮本君と飲むと、知らずにペース上がっちゃいますもんね」
同期飲みでもそうなのだ。宮本に合わせるわけではないのだが、つい飲みすぎてしまう。依子も先月の飲み会、帰りの電車で気持ち悪くなり後悔した。
「蓮見がぶっ倒れたのも、そういや宮本の絡みからだったよね」
「そうです。思い出したくない過去ですよ」
にやにやと藤代は笑うが、依子は顔をしかめた。
それは去年の夏の終わり。上期の納会という名目の飲み会だった。
依子の隣の席には宮本が座っていて、飲み放題ということで彼は気兼ねなく飲んでいた。彼が日本酒をどんどんあけていくかたわらで、依子も普段以上に飲んでしまっていたらしい。飲み会が終わる頃くらいから頭がガンガンと痛み出した。
「蓮見さん、気持ち悪いの?」
宴席では少し離れた席に座っていた同期の女の子が解散した直後に駆け寄ってきてくれたが、その時の依子は既に息も絶え絶えだった。(ということを後日聞いた。確かにあの時はもう気持ち悪いことと頭が痛いことしか覚えていない)依子の状態をまずいと判断したその子はすぐさま水を買ってきてくれて、依子はそれを一口ずつ飲みながらどうにかして家には帰らないとと息を整えていた。
藤代が声をかけてきたのはその時だ。
「大丈夫? 酔っぱらった?」
頭上から聞こえた声を、依子は最初誰のものか分からなかった。のろのろと顔をあげて顔を確認した時、驚きで一瞬だけ脳が覚醒した。藤代と関わったことは数回しかなく、こんなふうに声をかけてもらったり、あまつさえ心配してもらえるような関係ではなかったからだ。
「はい、ちょっと気持ち悪いみたいで。少し休んでから帰った方が良いかもしれません」
自分のかわりに同期の子が答えるのを聞きながら、大丈夫、帰れるよと呟いた。つもりだったが、実際に声にだせていたかは定かではない。
「そっか。じゃあ俺がタクシーで送ってくよ。確か家近かったよね」
藤代の申し出に、え、いやでも、と同期の子は戸惑っていたが(もうこのへんのやりとりの記憶は霞がかっている)結局彼が依子をタクシーに乗せて送ってくれたのだ。
正直な話、あの時依子は自分がどういう状態で藤代の前にいたのかさっぱり覚えていない。いつのまにか記憶はなくなっていて、起きたのはリビングのソファだった。
ひどい二日酔いだった。
「あの時は本当に、お世話をかけてしまいました」
うなだれる依子に、いやいやと藤代は明るく笑った。
「良いご縁をもらったよ」
「それなら良かったです」
醜態をさらして始まる関係というのもいかがなものかとは思うが、確かにそれで始まった。依子は藤代にお礼を言い、藤代とよく話すようになり、金曜日の夜に飲みに行ったりするようにもなった。
入社時には遠い存在だった藤代が、今はすぐ目の前にいる。
何がきっかけになって、どう転ぶかわからないものだ。