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 15



 翌朝。

 俺はまだ日も昇らない、仄暗い早朝に目を覚ました。

 結局あの後、寝て起きて寝て起きてという浅い眠りを繰り返した俺は十分な睡眠をとることが出来ずに、布団の中で四苦八苦していた。

 工藤さんに言われたことについてずっと考えていた俺は、睡眠不足による疲労よりも、自分の身に起こるであろう事態に気が気じゃなかったのだ。

 まだ起き上がる気分じゃないので、そのまま寝返りを打つ。

 俺の目線の先にはスヤスヤとぐっすり眠っている工藤さんの姿があった。

 初め抱いていた少しやましい気持ちも、幸せそうに寝息を立てるこの顔を見た途端、何処かにすっ飛んでいってしまう。

 それでも昨晩彼女に言われた言葉が頭から片時も離れず、俺は工藤さんの寝顔をぼんやりと見つめながら暫し自分の思考の世界にダイブしていた。


『それでも、戻りたかったら、私に言ってください。少なくとも、星川さんがこの世界に来た理由には私も関係していると思うから』


 おやすみなさいの挨拶を告げられる前に言われた一言。

 意味深な響きを持つその言葉が、とぐろを巻く蛇のように俺の頭の中で鎮座して、正直気がかりで仕方が無かった。

 あの言葉の裏には何が隠されているのだろうか。

 私も関係しているから、ってどういう意味なのだろうか。

 考えていてもキリが無いのは承知の上だが、考えていないと気分が落ち着かない。

 だがそれ以上に気になったのは、あの時の工藤さんの表情だ。

 真剣な表情が突然寂しさ溢れる微笑に変わった時、まるで彼女は俺にこうしろと言わんばかりに目線で訴えてきた。

 元の世界に戻るな、と。

 そう暗示させた彼女の瞳の奥にはどこか上手く言いおおせない深い同情、というか悲しみのようなものが渦巻いていて。

 あの瞳を思い出す度に胸が締め付けられるというか、行き止まりに追い詰められていき詰まったような感覚が襲いかかる。

 俺は再び寝返りを打って仰向けになりながら天井を見上げた。

 真っ白な天井は薄闇に包まれ、その色を失っている。

 まるで真っ新な紙を文字でいっぱいにしたような、そんな色合い。

 ずっと見ていると、なんだか押しつぶされてしまうような気がしてきて、俺は目線を降ろした。

 斜め下。

 俺の足元に視線を移した俺は、そこに昨日工藤さんから渡された改訂版の本があるのを見つけて、しばらくその状態のまま凝視した。

 随分と読み漁られてきたのだろうーー表紙の端の部分が少し千切れている。

 俺は段々と辛くなってきた体制を整える為に一度、半分起き上がると、そのまま這うようにして本に近づいていった。

 表紙のイラストを覗き込むと、そこにはナナとレン、二人の姿がある。

 片方の手を胸に当て、もう片方の手を切なげに伸ばしているナナの表情は、これまでに見たことがないくらい青ざめていて苦しそうだ。

 その後方でナナを追うように腕を伸ばすレンも、表情はどこか慌てふためいている。

 俺はそんな二人に釣られ、本に向かって手を伸ばすも、昨日、工藤さんに言われた一言を思い出して、一瞬その場で硬直した。

 俺が本の結末を知っているかどうか聞いた際に言われた一言。


『ですがなんとなく予想は出来ます。改訂版と、初版の冒頭部分を読めば』


 まるで真実を見極めたような、不思議な輝きを放つあの返答。

 しかし、その時に放たれた輝きはどこか鈍くて、そして濁っていて。

 俺はその時を思い出して一瞬踏みとどまるも、


『そこであなたは……、いえ、読んだ方がいいかもしれませんね』


 その後に付け加えられた一言を思い出して、俺は覚悟を決めてその本に触れた。


「ハァー」


 いつの間にか止めていた息を思いっきり吐き出す。

 電池が入ってまた動き出した時計のように動き出した時間を身に感じて俺はふと安心するも、その後に手に持った本を見つめて俺は気を引き締めた。

 今から、改稿版とはいえ、自分達のことが綴られた本を読む。

 はっきり言って、どんな気持ちで読めばいいのか分からない。

 日記を読む感覚で読めばいいのだろうか。

 やっぱり日常で小説を読む感覚で読めばいいのだろうか。

 自分やナナの気持ちがありのままに描かれた小説。

 怖いのか楽しみなのか良く分からない感情がぐちゃぐちゃに混ざり合う。

 果たして読んでしまっていいのだろうか。

 読んだら何かが変わってしまうのだろうか。


「いや……逆だ」


 多分読まないと何も変わらないような気がする。

 確かに、自分がどういう結末を迎えるのか興味があるし、知ってみたいという気持ちもある。

 でも、いざ目の前に自分が歩みゆく未来のことが記された本が現れたらどうすればいいのだろうか。

 もし最悪な結果だったら、取り返しのつかないものだったら、果たして俺は正気でいられるだろうか。

 そんな世界に無理をしてでも戻りたいと思うだろうか。

 答えは……。


「分からない」


 仮に先が真っ暗の将来が約束されているとしたらまっぴらだし、戻りたいとも思わないだろう。

 けれど、もし俺が行き着く先が幸せな未来なら。

 ナナと幸福な家庭を築き上げることが出来る未来だったなら。

 そんな淡い期待がこみ上げてくる。

 だからこそ……。


「知りたい」


 知りたいからこそ、きっとこの巡ってきたチャンスを逃したら二度と知ることはないだろう。

 ナナがどういう風に生きてきたのか。

 俺がナナにどんな影響を与えてきたのか。

 そしてナナは最終的にどんな未来を選んだのか。

 俺には知る権利がある。

 物語の結末を。

 ナナの過去と未来を。

 そして俺自身の運命を。

 例えどんなに怖くて、恐ろしくて、手が震えて、逃げ出したくなっても。

 俺は震える指先をなんとか本の表紙にくっつけると、勢いよく最初のページをひらいた。

 きっと読むことによって何かが変わると思うから。

 題名、白紙、目次とページが続いていく。

 次はいよいよ物語のはじまり、プロローグだ。

 俺はなぜか消し忘れてあった灯りの下で、本当の意味での最初の一ページをめくった。



 *******



 16



 段々辺りが明るんできた。

 もう何時間経過しただろうか。

 俺は寝室の窓に背中を預けながら一人黙々と本を読み進めていた。

 初めのプロローグはナナが引っ越してくる前からはじまり、幼馴染でお隣さんだったレンとの別れで幕を閉じていた。

 第一章、第二章は俺と出会ってからの十年間のことが書かれ、第三章からは大学に入った俺たちとレンのことが綴られていた。

 きっとここまでは全て内容を知っていたからだろう。

 三人称で綴られていたことも手伝ってそこまで感情移入もせずにまるで他人の日記を読んでいるかのようにページをめくりながらスラスラと話を読み進めていた。

 しかし、第四章、第五章と物語が進むにつれ、俺は知らず知らずの内に夢中になりながら本を黙読していた。

 それこそ、工藤さんが目覚めたことや、桐崎さんが現れたことに気がつかないくらい真剣に。

 だからだろうか。

 俺はレンとナナが二人きりでいるシーンを見た時、心の底から羨ましいと思った。

 同時に、レンが必死にアプローチをかける度にちょっかいを出して阻止したい気持ちに駆られて、レンが、


『ナナってあの本に出てくる妖精さんみたいだよね』


 などと言う臭いセリフを吐く度に顎が外れるまで笑いそうになったり、ナナがレンの行動に嬉しそうに笑う度にページを破り捨てたい気分になった。

 実際に邪魔出来ないのがはっきり言ってもどかしい。

 けれど逆に、俺がナナと二人きりの時は異常なまでの優越感に浸ったり、ナナが俺の行動に微笑んだ時は思わずニタニタと笑ったり、


「筋書きなんて気にせずに自分の気持ちに素直になれ」


 などと言った時には、今冷静に考えてみたらものすごく恥ずかしくて、別の意味でページを破りたくなった。

 そんなこんなで、シリアスで時折コメディタッチのこの小説を読み進めていった後、俺は最終章のいくつか前の章で目を止めた。

 いや、正確には止めざるを得なかったと言った方が正しいかもしれない。

 なぜならそこには最後の部分と聞いていた例のプロポーズの場面と重なっていたからだ。

 ゴクリ、と思わず息を呑む。

 ここから先は未開の地。

 未だ開拓されていない俺の運命が待ち受けている。


「よし、じゃあ読むか」


 この流れなら多かれ少なかれ悲劇は起こらないだろう。

 しかし、それがただの甘い考えにしか過ぎなかったことは、現時点の俺にはまだ想定出来なかった。

 そして俺はまた、ゆっくりと本の持つ独特な世界の中に浸かっていく。

 後で絶望という名の奈落の底に突き落とされることも知らずに。






















 なだらかな峠の頂を紅葉色に染める陽だまり。

 沈みゆく夕焼けが照らしだす坂道の上を二つの影がなんとなしにお互いに道を譲り合いながら緩やかに寛歩していた。

 テクテクと弾みのよいリズムで下ってゆく二人の表情は、橙色のペンキで塗り尽くされた空のように赤々しい。

 リュウセイはそんな太陽にオレンジ色のクレヨンで顔に落書きをされながらナナと過ごす二人だけの時間を満喫していた。

 左手をポケットに突っ込んだまま、右手をプラプラと揺らすリュウセイの顔はどこか肝が据わっていて、強い覚悟を決めた戦士のように清々しい。

 そんなリュウセイは過ぎゆく道並みをふと振り返りながら隣を歩くナナに思い出話を語り出した。


「今から十年前だよな。俺たちがあの交差点ですれ違ったのって」


 リュウセイの指差した先では、自家用車やトラックが時間帯も重なってか忙しなく行き来している。

 ナナはその方向を懐かしげに見つめながら口角を上げると、リュウセイの言葉に口車を合わせた。


「そうだね。そういえばあそこだったよね。私たちが最初に出会った場所って」


 目を細め、どこか遠くを見つめるナナの姿は儚く、そして美しい。

 そんなナナの姿を見つめるリュウセイの表情は朗らかで、彼の頬は熟れたトマトのように紅潮している。

 しかし自分が長い時間の間見惚れていたのに気付いたのか、リュウセイは小刻みに頭を振りながら迅速に我に返った。

 同時にポケットの中身をまさぐりながら四角い箱をギュッと握る。

 貯金や給料を全てつぎこんで手に入れた金色の指輪が入っている小箱。

 なんの変哲もないただの金の輪っかにはしかし、リュウセイのナナに対しての想いと彼女を守り抜きたいという決意が詰め込まれている。

 リュウセイは自分の覚悟を再確認すると、その想いの丈を身体中に循環させながらナナにそっと囁いた。


「あのさ、今から公園に寄らない?ちょっと渡したいものがあるんだ」


 リュウセイの提案に僅かに顔を顰めるナナ。

 行くことに不満なのではなく、渡したいもの、という言葉に引っかかりを覚えたらしい。

 ナナは催促をするように自分の手の平をリュウセイの目前に目一杯に広げると、そのまま怪訝そうな顔をさらけ出しながら彼に強請った。


「渡したいものって……。今渡すんじゃ駄目なの?」


 素朴かつ真っ当なナナの疑問にリュウセイはポケットの中身を彼女の指に嵌めたい気分に駆られる。

 しかしそんな思いを頭を振ることで切り捨てたリュウセイは、罪悪感に苛まれたような表情で麓に目線を下降させると、手をヒラヒラと泳がせながらなんでもないことのように言葉を濁した。


「いいから、いいから」


 そんな彼の意思が伝わってきたのか、ナナはそれ以上詮索することを止めると、リュウセイと同様に軒を争う住宅街が身を寄せる麓の町並みを見降ろした。

 普段は味気ない家屋の屋根達も、今はお日様を見送るようにキラキラと別れの涙という名の日光を反射させている。

 いつもの何気ない日常が少しだけオシャレをするこの時間帯を楽しみながら二人は呆然と自分達が住む町を見つめていた。


「♪〜♪〜♪」


 その時。

 ナナの懐から話題の新曲をアレンジした着信音が鳴り響くと、ナナはその音にいざなわれて受信ボタンを押した。


『ナナか?』


 受話器の向こうから聞こえる聞き慣れた男の声。


「うんそうだけど。どうしたのレン?」


 その声は紛れもなく、速水レンその人の声だった。

 突然の電話に思わず歩みが遅くなるナナ。

 そんな彼女の状態に気付いたのか、リュウセイは何も言わずに立ち止まる。

 ようやく麓の交差点に辿り着いた二人はその状態のまま、自然な形でその場に留まっていた。


『今すぐ伝えたいことがあるんだ。今どこにいる?』


 なんだか落ち着きのないレンの声に戸惑いの色を隠せないナナ。

 リュウセイはただ無言の状態で二人の会話に耳を傾けている。


「今リュウセイと一緒に帰ってる途中だけど」

『えっ?マジか!なんであいつと一緒に……』


 突如焦り出したレンとその後に漏れ出た不満の一言にナナは眉を顰めながらも何も言わなかった。

 幸か不幸か、ちょうど良いタイミングで通り過ぎていったバイクのエンジン音のおかげで、リュウセイに彼の声が届く前に掻き消されていたからだ。

 ナナは内心で胸をホッと撫で下ろしながら会話に戻ると、レンは色々とブツブツと呟いた挙句、ナナに一言だけ告げた。


『今すぐ伝えたいことがあるんだ。聞いてくれるか?』


 懇願とも命令とも言えない奇妙なトーンを含んだ一言。

 先ほどと同じ言葉を二度繰り返されたからか、上手く対処出来なかったナナはどこか腑に落ちない面持ちでうん、と短く返答すると、レンは一度だけ大きく深呼吸をしながらナナに伝えた。


『俺はナナのことが好きだ。結婚してくれ』


 質素で単純だが、それ故に表裏のない真剣で想いの全てがのせられたレンのプロポーズ。

 ナナは一瞬、なんて言われたのかが分からずに頭の中を真っ白にした。

 しかし、その拍子に運悪くスピーカーボタンを押してしまったのか、リュウセイの耳にも届く大音量で、レンは言葉を続けた。


『ナナがリュウセイのことを思う気持ちも知ってるし、それが偽りじゃなくて実際の物語みたいで素晴らしいってことはナナから直接話に聞いてたから知ってる。

でも、だからって二人で人生の物語を書くのにあらすじとかプロットなんかいらないだろ。

大切なのはこれから生きていくお互いの気持ちなんだから。

だからもし、俺と、あの時の約束のままみたいに、素直な気持ちで俺と一緒に居たかったら俺と結婚してくれ。

いや、結婚させてください。

俺、ナナと一緒じゃないとダメなんだ。

やっと気付いたんだよ。

ナナがいいって。

だから結婚してくれ。

毎日味噌汁を作ってくれなんてベタなことは言わないから。

ただナナと一緒にご飯が食べられればそれでいいから。

だから……』


 レンの命がけの愛の言葉は、ナナの喉から溢れ出した嗚咽音で掻き消された。

 その瞳にはバケツ一杯分はゆうにくだらないほどの涙を浮かべ、声を漏らさないように必死に口元を抑えながら泣きじゃくっている。

 そんなナナを見つめるリュウセイの顔は複雑に歪んでいて、いつの間にか握っていた拳は、先を取られた怒りと悔しさでかつてないほど震えていた。

 しかし、今は泣いているナナの泣き顔を見てリュウセイは苦しそうに腕を振ると、そのまま音量を上げていくナナの背中を優しくさすった。

 リュウセイのそんな温かい手に安心感を抱いたのか、次第に泣き止んでいくナナ。

 しかし、リュウセイにとってこの時間は苦痛以外の何物でもない最悪の時間だった。

 ポケットの中の箱が静かに開きかけた口を閉じる。

 箱の中に閉じ込められた指輪は、今のリュウセイと同じように真ん中に喪失感や虚脱感といった穴を開けていた。

 まるで自分の価値がなくなると同時に役目がなくなった物語の脇役のように。

 絵を塗る際に消しゴムで消されてゆく、下書きや補助線のように。

 そして死んで忘れ去られた誰かの亡骸のように。

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