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笑いの渦が収まるまで笑い転げていた俺たちは、また泣き出しそうになっていた桐崎さんの顔を見て緩んでいた頬を引き締めると、それぞれ姿勢を正しながら元の位置に戻っていった。
未だにご憤懣状態の桐崎さんに対し、罰の悪い気分を味わっていると、工藤さんが手を前で合わせながら謝罪を始める。
「本当にごめんね。でも笑うつもりじゃなかったんだよ」
「ふん、知らない」
先ほどの状態を思い出したのか、謝りながら必死に笑いの波に耐える工藤さんに、そっぽを向いてあからさまに拗ねる桐崎さん。
子供の喧嘩か、と思わずツッコミそうになる口を抑えるも、確かに今のは工藤さんが悪いということで、
「まぁ、工藤さんも悪気があったわけではないですから」
と、仲介に入ると、桐崎さんが、
「星川さんも同罪です」
と、強めに返してきた。
「はい、おっしゃるとおりです」
桐崎さんの発言は限りなく正しかったので、俺は正座をしながら平謝りをして自分の罪を認めると、桐崎さんはようやく機嫌が良くなったのか、相好を崩しながら許してくれた。
いつまで続くんだコレ、と心配になっていた俺は溜飲を下げながら工藤さんの方をチラッと見つめると、工藤さんも俺と同様に胸を撫で下ろしながら気を晴らしていた。
そんな俺たちの様子に疑わしげな目で見つめてきた桐崎さんに、満面の笑みを張り付けた状態で見つめ返すと、今度こそ桐崎さんは疑いを晴らしたのか満足そうに微笑んだ。
とりあえず一件落着である。
俺は、この和んだ雰囲気に暫しの間酔いしれていると、すっかり立ち直った桐崎さんが時計を見ながら俺と工藤さんに告げた。
「それじゃあ、気を取り直して小説のことについて話し合いましょうか。気になることとかあったら星川さんも遠慮なく聞いていいですよ⁈」
その提案に素直に賛同する俺たち。
しかし、空気の流れ的に次に何を話せばいいのか分からない俺たちはしばらくの間黙り込むことしか出来ない。
暫し無言の状態が場を制する。
気になることとかさっき纏めてきいちゃったから無いんだよな。
本の著者は桐崎さんって判明したし、曰く付きの初版本についてもさっき泣き付かれながら説明を受けたからもう聞かなくてもいいし。
「あっ!そういえば…」
そんな事を考えていた俺は、ふとある事を思い出したので、本を指差しながら身体の向きを変えると、桐崎さんの方を見つめながら一つ気になった事を尋ねることにした。
「あの、消えた最後の部分なんですけど、桐崎さんは物語がどういう結末を迎えるか知らないんですか?ほら、覚えてないにしてもプロットとか原稿とか持ってますよね?」
俺がふと持った疑問、それは跡形もなくなった小説の最後の部分の内容についてだった。
俺のプロポーズに対してナナがどんな返答をしたのか気になったのはもちろんだが、今までなんとなく見えていたというか予感出来ていた未来が、今は何も見ることが出来なくなっていたのだ。
俺が抱える一抹の不安を瞬時に察した桐崎さんは、一瞬慌てたようにキョロキョロと俺たち二人を見つめていたが、やがて俺に視線を定めながら首を横に振ると、申し訳なさそうにポツリと呟いた。
「ごめんなさい。さっきから思い出そうとしてるんですけど、何故か頭の中に霧がかかったみたいに思い出せなくて……」
しかし、返ってきた答えは随分と頼りないもので俺は、
「そうですか……」
と、肩を落としながら弱々しくそう呟くと、桐崎さんは頭を下げながら俺に告げた。
「多分編集者の人に聞けば古い原稿を引っ張り出してくれると思うんですけど……」
時計を見ながらそう言う桐崎さんに釣られ時計を見ると、針は十時ちょうどを指し示している。
この時間帯じゃあコンビニや居酒屋ならともかく、一般会社の社員は残業している人以外は勤務すらしていないだろう。
俺は幾分マシになった回答に納得して一人満足していると、さっきからずっと口を閉じて俺たちのやり取りを見守っていた工藤さんが、おずおずと口を開いた。
「じゃぁ、原稿の件もあるし、時間帯も時間帯なので今日はお開きにして明日また話し合いませんか?」
まだ帰る方法についてや、これからどうするかといったことを話し合いたかったのだが、工藤さんの言うことにも一理あるので、俺は渋々首を縦に振りながら了承した。
実際、今日は色んなことがあって疲れていたし、桐崎さんもさっき散々泣き喚いていたからお疲れだろう。
顔には出していないが、工藤さんも疲れからかどこかやつれているように見える。
俺たちはそんなこんなで今日の話し合いに終止符を打つと、そのままガチガチに固まっていた身体をほぐした。
ゴキっ、ボキッと関節の出す音を楽しんでいると、突然桐崎さんが、
「あっ!」
と、何かを見過ごして後で気づいたような声を出した。
びっくりして視線を桐崎さん一点に集める俺たちに桐崎さんは、俺たちでさえ見落としていた重大なことを伝えた。
それは……。
「星川さんって今日、どこで泊まるの?」
「「…………あっ!」」
俺たちはお互いを見つめ合いながらマーライオンのように口を開けて固まると、暫しそのままの状態で茫然自失としていた。
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12
「そ、そっか。よく考えたらそうだよね。星川さんってこの世界の人じゃないし」
「確かに……」
俺たちは今、今晩俺がどこで泊まるのかについて相談している。
ここは俺の世界と似ているようで異なる現実の世界だ。
この世界に住んでいない俺にはもちろん泊まる場所がある訳でもなければ、ホテル代用のこの世界の通貨さえない。
つまり必然的に俺は二人の家のどちらかに泊めてもらうか、野宿するかの二択しかない。
俺はすっかり見落としていた事実と、いずれの選択肢を選んでも多からず少なからず二人に迷惑をかけることになるだろうことに対して肩身の狭い思いを抱いていると、二人は何やらコソコソと二人だけで相談しながら俺を見つめた。
二人の険しい表情に、今日は野宿かな、と心の中で構えていると、工藤さんが前に出てきて俺に告げた。
「今日は私の家に泊まっていってください」
てっきりこのままこの部屋に泊まるか、最悪野宿だと考えていた俺は、予想が外れた発言に意外性を感じていると、今度は桐崎さんが前に出てきてバツが悪そうな顔で俺に告げた。
「すみません。今日はこの後、後片付けもあるし、初版本の資料とかも探したいので一人になりたいんです」
いえいえそんな泊めていただけるだけでもありがたいです、と腰を低くしてそう返すと、桐崎さんは今度は工藤さんの方を見ながら頭を下げた。
「ごめんね、ナナちゃん、押し付ける形になっちゃって。別にイヤってわけじゃないんだけど……」
申し訳ないと謝罪する桐崎さんの肩にゆっくりと手を置く工藤さん。
「大丈夫だよ、ノゾミちゃん。この前、新しい布団を新調して布団は二組あるし、それにノゾミちゃんは明日朝早く出版社に向かった方が早く原稿を取りに行けて絶対にいいと思うし」
工藤さんの絶妙なフォローに涙ぐむ素振りを見せた桐崎さんは、そのまま短く礼を言うと、今度は俺に視線を向けながらこう言った。
「というわけで星川さん、今日はナナちゃんの家でお願いします。明日は早めに家を出て、原稿を探しにいくのでそれまで待っていてください」
微妙にはにかみながら告げる桐崎さんに、またしてもナナの姿が重なって思わず視線を逸らしてしまう。
「それじゃあ帰りましょっか、星川さん」
そんな俺を怪訝そうに見ていた桐崎さんだったが、気にしないことにしたのか、工藤さんの声とともにゆっくりと立ち上がって俺たちを玄関まで先導すると、そのまま暗い夜道に出て行く俺たちを見送った。
去り際、桐崎さんがまた明日、と口だけを動かして俺たちに言う姿が、プロポーズをしようとした際に唇だけを動かして何かを伝えようとしていたナナの姿と重複して、俺は何故か胸の内に湧き上がるモヤモヤと同時にちょっぴり切ない気分を味わっていた。
アパートが遠ざかり、俺たちを闇に見失う頃合いを見計らって桐崎さんが中に戻っていく。
振り向き際に桐崎さんが消えていく姿を見ながら、俺はいつになったら家に戻れるのか、と一人ぼうっと考えていた。