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「本当の本当に小説の中の世界から抜け出して来たんですよね?」
「も〜。しつこいよ、ノゾミちゃん!」
「だってだって〜」
こぢんまりとしたアパートの一室。
二階に上がってすぐ近くの桐崎ノゾミさんの家で俺たちは話し合いという名の質問合戦、もとい確認作業のオンパレードを繰り広げていた。
しかし……。
「グー」
時間も時間でまだ夕飯を食べていなかった俺たちはひとまず休憩がてらに遅い夕食を食べることにした。
はじめは、初対面の人様の家で夕食なんてそんな、と遠慮していた俺も、正直に鳴く腹の虫と、誤解をしていたお詫びにご馳走するからという声は無視することができず、三人で少し遅めの夕ご飯を作る準備を始めた。
さすがに豪勢な食事とは言い難いカップラーメンを桐崎さんが出して来た時は思わず苦笑いを浮かべてしまったが、工藤ナナ改め、工藤さんが台所にある食材で何か一品作ると言い出してきたのでそれに了承すると、工藤さんはのべ三十分ほどで熱々のチャーハンを作り上げた。
俺はもちろん部外者なのでテーブルの上を拭いたり、食器を並べたりとお手伝い程度の下働きをする。
そうこうして、三人分の食事を用意した俺たちはちゃぶ台を囲みながら腰を降ろすと、いただきますを合図に黙々と食べ始めた。
花より団子、腹が減っては戦は出来ぬをまさに体現しているであろう俺たちは一旦話し合いを中断して食事に専念すると、誰一人言葉を発さずに皿の中身を平らげた。
こんなに静かだった理由は、何を話せばいいのか分からなかったのはもちろんのこと、おそらく全員が全員、思考を整理する時間が必要だったからだろう。
一人、また一人と食事を終えて行って、最後の一人になった工藤さんが完食するところを見届けると、俺たちはお互いに見つめあった。
皆、誰から話を切り出せばいいのかわからず、オロオロしている。
そして沈黙がその場を支配する。
俺は女性二人に対する気後れから口を開いては話あぐねていると、俺たちの様子を窺っていた桐崎さんがでは私が、と言うかのように口を開いた。
「ひとまず状況を確認したいので、悪いんですけどまず何が起きたのかを両サイドの方から話していただけますか?」
ちょっと控えめにそう尋ねた桐崎さんは俺と工藤さんの両方を交互に見つめると、まずは工藤さんの方に肩を向けながら話を伺った。
「うん、じゃあ私から話すね」
どうやら、食事中の思考と先ほどまでの女子だけの話し合いで大体頭の整理はついていたのか、工藤さんは一息ついただけで話す準備を整えると、おもむろに俺たちを見つめながら淡々と語りだした。
「もうノゾミちゃんは知ってたと思うけど、あの時、星川さんが小説の中から現れた時、私はノゾミちゃんが書いたその小説を読んでいたんだ」
工藤さんの発言のある一部に驚愕した俺は、話の途中だと分かってはいたものの、驚きのあまりに声をあげた。
「えっ?桐崎さんがあの小説を書いたんですか?」
そんなの初耳、というか一大事である。
俺は衝撃のあまり工藤さんの話を遮って桐崎さんに確認を取ろうとすると、桐崎さんは、
「それはナナちゃんの話の後にお願いします」
と一言だけ告げて工藤さんの方に向き直った。
この様子じゃあ、今は答えてくれそうにない。
俺は、質問するのは一回諦めて工藤さんに向き直ると、小さく謝りながら話を続けるよう、促した。
「すっごく面白かったから読むのにハマっちゃってね、私、一気に二百ページくらい読んでそれから休憩したの」
その時を思い出すかのように宙を見上げる工藤さんの表情は何故か明るく、楽しそうだ。
しかし、急に朗らかだった表情を真剣な顔に変えると、今度は視線を下げて俺たちを見た。
「そしたらね、急に本が真っ白な光に包まれてバン、って音と一緒に星川さんが出てきたんだ」
さもびっくりと言った様子で、大袈裟な身振り手振りも加えて説明した工藤さんは傍らに置いてあった本を取ってテーブルの上に置くと、そのまま俺をチラリと見ながら桐崎さんの方に身体を傾けた。
「これがその本だよ」
同時にそう口を添える工藤さんに、桐崎さんは目の前の小説に驚愕した様子で視線を向けた。
「これ、児童書用に書き下ろした小説の初版本じゃない!!なんでナナちゃんが持ってるの?」
どうやら動揺を隠し切れていないようで桐崎さんは飛び上がるほど驚いている。
「いやぁ、この前偶然ノゾミちゃん専属の編集者さんに会ってね。その時にノゾミちゃんの大親友で出版した作品は全部持ってるって言ったら何故か感激されちゃって」
「あのバカ……」
本を貰った過程を話す工藤さんに対して、桐崎さんは眉間を抑えながら苦笑いを浮かべている。
「そしたら『この本はまだ持ってないだろう』ってカバンの中からその本を取り出して……」
「『この本あげるからこれからもウチの先生をよろしく』、みたいなことを言われたんでしょ?全く、寄りにもよって発売日当日に絶版になったあの曰く付きの初版本を…」
俺は二人のやり取りに話についていけない寂しい思いを抱いていたが、桐崎さんの言葉に疑問を覚えた俺は一旦会話を止めるべく手をあげると、そのまま質問をぶつけた。
「あの、曰く付きの初版本って一体……」
そんな俺の質問に、一旦会話をやめて申し訳なさそうにこちらを見つめた二人は、改めてこちらに向き直ると、桐崎さんが代表して俺に告げた。
「話の途中で勝手に盛り上がっちゃってすみません。確か星川さんが出てきた時の話ですよね?」
質問をスルーされたのは少しだけ堪えたが、話題がズレていたことは否めなかったので、俺は一つ咳払いをしながら自分の話を始めた。
「僕はまぁ、その。……プロポーズしようとした瞬間、変な白い光に身体が包まれて、それから……」
「そしたら本の中から出てきた、で合ってますよね。ほら、このページ」
俺の言葉を受け継いだ桐崎さんはパラパラとページをめくりながら、本を俺の方に向けると、俺がまだいたであろう文をなぞりながら顔を上げた。
「『あのさ……お、おれと……』ズボンのポケットの中から四角い箱を取り出すリュウセイ。それを渡された私は、続けざまに何かを言おうとするリュウセイの顔を見つめると、リュウセイは夕陽のように真っ赤な、そして優しく包み込むような表情で口を開けた」
読み終えると同時に、ナナそっくりな顔で俺を見つめる桐崎さん。
俺はふと重なったナナの姿に一瞬ドギマギしていたが、話し合いの途中なのを思い出して幻影を振り払うかのように頭を振ると、今度は肯定を示す為に首を縦に動かした。
「そうそう。星川さんが部屋から出ていった後ね、びっくりしてしばらく固まってたんだけどね、夢でも見てたのかな、ってもう一度小説を読んだらそれ以降の部分が無くなってたんだよ」
すると突然、工藤さんが桐崎さんから本を取りあげたかと思うと、その次のページをめくりながら今思い出したかのようにそう告げた。
慌てて本に焦点を戻す俺と桐崎さん。
「あっ……ホントだ…」
確かにその文の先は全て白紙で、まるで意図的にくりぬかれたように何も書かれていないページが続いている。
俺は予想外の出来事にただ首を傾げるだけだったが、桐崎さんはそうではないらしい。
桐崎さんはまるでこの世のものではない何かを見た時のような真っ青な顔で本を奪い取ると、信じられないとばかりに何度も同じ頁内をパラパラと行き来した。
「最後の章が綺麗さっぱりなくなってる……」
ようやく顔を上げたと同時に、この世の終わりだと言わんばかりの顔で嘆く桐崎さんに、俺たちはなんと声をかければいいのか分からない。
ただ何故か分からないが、俺の脳内では、先ほどのチャイム音と同時に感じていた予感はこれを指し示していたのだ、と決定付けていた。
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「うっうっ、私の最初の作品がぁ。貴重な初版本がぁ……」
「よしよし、大丈夫だよ、ノゾミちゃん」
夜9時半。
子供ならそろそろ就寝に入っているであろう時間帯に、とある作家は子供のように泣きじゃくりながら友人に背中を撫でられていた。
目を真っ赤に腫らして必死に鼻をかんでいるのは作家の桐崎さんで、それをオイオイと宥めているのは工藤さんである。
俺はそんな二人の姿を傍観すると同時に、二人の意外な一面を見て困惑を通り越して一人呆れていた。
何故なら二人の行動が、初対面の時に想像していたイメージと大きくかけ離れていたからだ。
いや、だって、そうだろう。
誰がどうやったらあんなに大人な対処をしていた桐崎さんを涙目で幼げに見えた工藤さんが宥めている場面を想像出来るのだろうか。
少なくとも俺は無理である。
俺は必然的に余った、ティッシュを渡す係をしながらそんなことを考えていると、幾らか落ち着いてきたのか、桐崎さんが鼻を啜りながら俺に謝ってきた。
「取り乱してずみましぇん、こんなみっともない顔見せちゃって……」
「いいえ、大丈夫です。それよりもほら、鼻水が垂れてますよ」
鼻声でそう呟く桐崎さんに、機械的にティッシュを渡す俺。
俺は、どうしてこうなった、と心中でこめかみを抑えながらなるべく取りやすいようにティッシュ箱の方を渡すと、桐崎さんは頭を下げながら箱自体を受け取った。
友人がこんな状態では説明は出来ないだろう、と判断したのか、今度は工藤さんがこちらを見ながら動かしていた手を一旦止めると、多少苦笑が混じった心配げな声で俺に告げた。
「普段はこんな感じじゃないんですけど、この本だけはものすっごく思い入れがあるみたいで……」
ものすっごくの部分を強調していたことからどうやら訳ありらしい。
続きを語ろうとした工藤さんを、なんとか落ち着くことが出来た桐崎さんが手で遮ると、そのまま泣き疲れた余韻を残しながらポツリポツリと語り出した。
今から数年前のこと。
市の児童書コンクールに自分の作品を応募した桐崎さんは、運良くその回の最優秀賞を受賞したことによって晴れて作家デビューを果たしたらしい。
順風満帆、先の将来も明るかった桐崎さんはとある出版社の支援を受けながら出版の準備を快調に進めていると、受賞作品公開の短編集に載っていた桐崎さんの作品の一部に、読者様からクレームが届いたらしい。
その内容は、児童書にしては中身が陰湿で暗すぎ、とか、挿絵が少しだけ過激、とか、児童向けというか大衆向け、など大きく的ははずれていないなかなかに的確なアドバイスのようなもので、出版社側の会議の結果、同社の大衆向け部門の方で出版することになったらしい。
商標登録も済ませ、本日出版というところまで着々と準備を進めていた桐崎さんと出版社は、一部のお得意様の書店にだけ何箱か届けた状態で泣く泣く絶版にしたのだとか。
しかも、大衆向けに移動する際に、一部の章を大幅に改稿したり、大人向けにしたおかげで作品の内容はガラリと変貌し、いい意味で大衆向けにされたそうだ。
まぁ、結果そのおかげで二週間もの間ベストセラー本に選ばれ続けた訳だから儲け物である。
ただ桐崎さん本人は受賞そのものにこぎつけた初版本の方が思い入れが大きかったらしく、それ故にあの泣きっぷりだったらしい。
「なるほど、そんなことがあったんですね……」
大体の事情を把握した俺は、かみすぎて鼻の下が赤くなった桐崎さんに、同情を示すように相槌を打っていると、桐崎さんは同様に赤くなった目を抑えながら口を開いた。
「あの作品は、いわゆる私の努力の結晶だから最後の部分だけ消えていてもショックで……」
また泣き出しそうになる桐崎さんに、慌ててティッシュを差し出す俺。
「ププ、ハハハ」
そんな俺たちのやり取りが笑いのツボに入ったのか、工藤さんは口を必死に押さえながら堪え笑いをすると、涙目で頬をぷくーっと膨らました桐崎さんが、
「笑わないでよナナちゃん。こっちは真剣なんだから」
と、笑いを更に煽るような顔で怒った。
変顔という強力な笑いのパンチに不意を突かれた俺は、こみ上げてきた笑いを留めることは出来ずに、思わず腹を抱えて笑ってしまった。
そんな俺にジト目を向ける桐崎さん。
その様子にまた笑い出す工藤さんのおかげで、このしんみりとした空間に笑いの連鎖が巻き起こる。
俺たちは、しばらく小説のことは忘れて笑うことに専念すると、ほとぼりが冷めるまで存分に笑い転げた。
やっぱりあのチャイム音は幸運を呼ぶ招き猫の鈴の音だと確信したのは、その時だった。