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ズズズズッ。ハァ~。
静寂に包まれた室内でお茶を啜る音だけが木霊する。
時刻は八時過ぎ。もう日もすっかり暮れた夜の家の中では、俺ととある女性が一つテーブルを挟んで向かいあって座っていた。
そのとある女性とは何を隠そう、小島ナナにそっくりな女性改め桐崎ノゾミさんである。
そしてこの状態になったのにはもちろん、訳があった。
あの電話の後、工藤ナナから大体の事情と状況を把握した女性は、一旦携帯電話をしまうと、俺についてくるよう促した。
なんでも、詳細が聞きたいから自分の借りてるアパートに来い、とかなんとか。
そこで工藤ナナと合流して事の次第を話し合うらしい。
ひとまずこの状況を打破したかった俺は、女性の命令に近い提案に了承すると、スタスタと歩き去っていく彼女の後を追った。
あのままあの状態が続いていれば遅かれ早かれご近所さんに迷惑がかかっただろうし、その前に通報だってされかねない。
俺は警察沙汰になる前に工藤ナナから電話を受け取ったことに対して、安堵と長く続いた緊張感を脱した虚脱感からか大きな溜息を吐いていた。
そう長くない時間歩いた末に辿り着いた場所はこじんまりとした二階建てのアパートだった。
なんでも、つい最近改装工事が終わったらしく、その証拠に外装に使われたペンキがまだ新しいことが一目で分かる。
着いたと同時に自宅の郵便受けを確認する女性。
横目でチラッと名前を確認すると、この女性は桐崎ノゾミさんと言うらしい。
俺は桐崎さんのあとを辿ってどことなくペンキ臭いような階段を上がっていくと、桐崎さんは階段を上がってすぐ隣の部屋の前で立ち止まった。
カチャカチャとした鍵の音だけが静かなアパートの廊下に響き渡る。
ガチャリ、とドアが開く音と共に靴を脱いだ桐崎さんはドアの前で突っ立ったままの俺に入室するよう促すと、下駄箱から来客用のスリッパを取り出しながら奥に進んで行った。
「失礼します」
小声でそう呟きながら、靴を脱いで彼女の靴の隣に置いた俺は、少々小さめのスリッパに足を通しながら今し方電気がついた廊下を通っていった。
案内された居間は、華々しい色彩に包まれ、馥郁とした香りが漂う女性らしい部屋だった。
「お茶、淹れてきます」
と言うと同時に俺を座布団の上に座らせた桐崎さんは、自分の荷物を起きながらそそくさと居間を出ると、そのまま台所の方まで向かった。
手持ち部沙汰な俺は暇つぶしの代わりに彼女がお茶を淹れる待ち時間の間だけ、部屋の中を拝見することにした。
中央の四角形のちゃぶ台を囲むように紫の座布団が鎮座し、ちゃぶ台改めテーブルの向こう側には少し大き目のテレビがその存在感を際立てている。
台所の真向かい、俺から見て右の方向にはシックな白いカーテンがかかったベランダつきの窓があり、俺の背後にはテレビを鑑賞する用の真っ白なソファーがどっしりと腰を降ろしている。
そしてそれ以上に目立つのは……。
「なんなんだこの量は……」
前後左右の壁の間を埋めるように本棚が立てられているのだが、その使用用途がおかしい。
「DVDはまだ分かるよ。でもこれは……」
そう。多種多様に設けられた本棚の中には本では無く、大量のぬいぐるみが搭載されていたのだ。
俺は膨大な量のぬいぐるみに暫し目を瞬かせていると、台所から湯気をたてたお茶をトレーの上に乗せた桐崎さんがやってきた。
「粗茶ですが」
「お構い無く」
お決まりの言葉を交わした挙句、そのまま反対側の座布団へ腰を降ろす桐崎さん。
俺たちはモクモクと浮遊する真っ白な湯気を目で追いながら自然に居住まいを正した。
そうして現在に至る。
お互い無言の状態が続く。
やはり初対面が初対面なだけに何を話せばいいのか分からない。
そして何よりも……。
(気まずい……)
桐崎さんは俺と目線を合わせようとしないのだ。
いや、というよりも目が合う度に逸らされる、というかなんというか。
しかも俺が目を動かすと同時に警戒心丸出しの目でこちらを見つめてくるもんだからとてつもなく居心地が悪い。
そうして幾度と同じことを繰り返した後、ようやく眼前のお茶に目線を固定した俺は、突き刺さるというか射抜く視線に見守られながらその場をやり過ごしていた。
チクタクチクタク。
緊迫したムードが漂う中、時間の経過を示す無機質な時計の針の音だけがお経のように響き渡る。
時折視線をあげて桐崎さんの様子を窺うも、桐崎さんは相変わらず目を細めたままだ。
俺はもう既に何度目になるか分からないくらい口をつけたお茶に手を伸ばすと、そっと口元に寄せた。
ズズッ、ゴク。
啜る音とお茶が喉の中を滑り落ちる音がやけに大音量に感じる。
俺は慌てて音を立てずに湯呑みを口から離すと、これまたゆっくりとテーブルの上に置いた。
もう何十分経ったんだろう。
やけに時間の流れが遅い気がする。
俺はソワソワとしながらいつの間にか流れていた鼻の下の汗を拭い去ると、壁にかかった時計を見た。
8時15分。
まだこの部屋に来てから十分しか経っていない。
逆に言えば、無言の状態で十分も経ったということだ。
俺はいつまでも続くこの緊張感に嫌気が差して、仕方なしに組んでいた正座を崩そうとすると、さっきまで口を噤んでいた桐崎さんが唐突に口を開いた。
「星川リュウセイさん、ですよね?」
刺々しい、探りを入れるような声。
しかし、先ほどの時よりは桐崎さんの声は丸みを帯びていて、俺は、唐突に質問を振られたのもそうだが、おっかなビックリした様子で一言、
「はい」
と返した。
もう生きた人形になったんじゃないかと諦めかけていた時にこれである。
俺は崩そうとしていた正座を再び戻そうとすると、桐崎さんは手を振りながら一言、
「気にしないでください」
と俺に告げた。
確かに脚が痺れてきていたので、お言葉に甘えて正座を胡座に変えさせてもらうと、桐崎さんは俺のことを見つめながら言葉を続けた。
「ナナちゃんの話によると、あなたは突然物語の中から出てきたらしいですが、どうやって出てきたんですか?」
この場合、ナナちゃんとは工藤ナナのことだろう。
だが、それよりも俺は後に続いた質問に意識を取られ、思わず間髪入れずに声をあげた。
「それはこっちが聞きてーよ!!……あっ、すみません」
俺は思わず声を荒げたことに対して謝ると、桐崎さんは僅かに眉をピンとあげて俺を凝視しながら俺に言った。
「どうやらナナちゃんが言っていたことは正しそうですね」
桐崎さんの言葉に疑問符を浮かべる俺。
工藤ナナが言っていたことってなんだ?
それに桐崎さんの視線から感じるこの居心地の悪さはなんなんだ?
俺の当惑した様子を俊敏に察知したのか、桐崎さんは鼻で笑いながら俺に告げた。
「あなたは今、とても感情的で不安定だから刺激を与えるようなことはするな、と言われていたのですが、本当のようですね。聞いたらすぐに反応して即答って」
「!!!」
人を見下したような言い方に俺はイライラするどころか怒りが湧き上がってくるような感覚に陥るが、同時にどこか弱い心の中の自分が図星だと認めていて、俺は吐き出しかけた悪態を素直に呑み込んだ。
顔がナナにそっくりだからだろうか?
案外簡単に引っ込めることが出来た怒りに心の中でホッとしていると、桐崎さんはさっきまでとは違う威圧感を伴った表情で俺の顔に近づきながら俺に告げた。
「そうやってナナちゃんを騙せたからって私を騙せるとは思わないでください。幼馴染のよしみで今は目を瞑っていますが、ナナちゃんが来た際にはその化けの皮を剥がしてあげますから覚悟していてください」
今まで、こうもストレートに敵意をぶつけてくる人がいなかった為か、溢れんばかりの敵意を剥き出しにした桐崎さんにどう対処すればいいのか分からない。
特に無駄に煽っては泣きっ面に蜂、というか状況をより悪化させてしまうので、俺は無実を証明する為に両手を上げると、赤子を宥めるような柔らかい声で彼女に告げた。
「あのー、落ち着いてください。話をすれば分かりま……」
「黙ってください。大体、こんな時間にストーカーしてくる人って……」
その時。
ピーンポーン。
来訪者を告げるドアベルの音が室内に響き渡ると、桐崎さんと俺は息を合わせたかのようにドアの方向に顔を向けた。
果たして今の音は幸運を呼ぶ招き猫の鈴の音だったのか。
それとも試合開始を告げるゴングの音だったのか。
はたまた死刑宣告を言い渡す処刑官の醜い笑い声だったのか。
いずれ何が起きるにしても、このベルの音は単なる余興に過ぎない、というどこか確信めいた予感が俺の心の中で渦を巻いていた。
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「だからあの人は……」
「騙されちゃダメよ!ああいう汚ない手口で人からお金を巻き取る悪徳商法だってあるんだから!!」
「だからそれは誤解で……」
「いい?ああいう詐欺師に引っかかっちゃいけないのよ!小説の中から出てきたなんて嘘っぱち誰も信じないんだから」
「だから本当なんだってばー!!」
全く。ひどい言われようである。
今俺は居間で一人でソファーに座りながら静かに聞き耳を立てている。
いや、この際会話が耳に入ってくると言った方が正解か。
いやはや、さっきの会話がまだ子供の寝言にさえ聞こえてくる有様だ。
「なんでこんなことになったんだろ……」
怒りを通り越して呆れさえ感じさせる勘違いっぷり。
俺は溜息を吐いてこんなことになる数分前を思い返しながら、なぜこんなことになったのかと一人嘆いていた。
時はほんの数分前まで遡る。
チャイム音と共に小走りで玄関まで駆けていった桐崎さんは、扉の向こうをろくに確認もせずにドアを開けると、本を片手に突っ立っている工藤ナナの手を引いて中に戻ってきた。
なぜかご立腹の様子の桐崎さんに困惑が隠せなかったのか、工藤ナナは当惑しきった顔で連れて行かれるがままにされていると、桐崎さんはそのまま彼女の手を引きながらこちらに近寄ってこういった。
「今から女性同士の隠密な話し合いがあるので星川さんはここで大人しく座っていてください!!」
血走った眼差しで俺を睨む桐崎さんに本能的に反対してはいけないと感じ取った俺はコクリと頷きながら短く肯定すると、桐崎さんは鬼も逃げ去ってしまうような勢いで工藤ナナと共に隣の部屋に駆け込んで行った。一瞬、二人のあとを追おうとしたが、考え直してそのまま静止する。
知らぬが仏、触らぬ神に祟りなしである。
二人が部屋の向こうに消えていくのを見送った俺は、せっかくなので気になっていた白いソファーに腰掛けると、腕と脚を交互に組んで時間を潰しながら二人の話し合いが終わるのを待つことにした。
五分が経過し、そして現在に至る。
正直に言って会話がダダ漏れなのが否めないが仕方がない。
二つの空間を隔てるのがこんな薄っぺらい引き戸なら、音を漏らさないよう心がけといてもやはり限度があるだろう。
第一、二人の会話は話し合いというよりかはもはや言い争いに近いし。
俺は冷めてぬるくなったお茶を喉に流し込みながら時計の針を確認すると、フーと一つ息をついた。
最初の頃に聞こえてきた怒鳴り声は今ではすっかりなりを潜めて、今なら遠くで飛ぶ虫の羽音でさえすぐに耳に入ってきそうだ。
俺は冷蔵庫が出すジー、という電子音を聞きながらソファーに身体を預けていると、後方でスッと引き戸が開く音が聞こえて思わず振り返った。
開いた引き戸の先。
おそらく寝室であろう部屋の中から出てきたのは、一仕事を終えた爽快感を達観しているかのような工藤ナナの顔と、戦いに敗れ、負のオーラを撒き散らす桐崎さんの姿だった。
何を話し合ったのかは知らないが、それ以上は踏み込んではいけない女子特有のオーラがひしひしと染み渡っている。
絶対にこの先に関与してはならないと胸に刻み込みながら立ち上がった俺は、終わったのを確認する為に視線だけを彼女達に向けた。
そんな俺に対し、お互いに見つめ合いながら目だけでコミュニケーションを取る二人。
やがて、片方が折れたのか二人の代表として桐崎さんが前に渋々と前に出ると、後悔と謝罪をたっぷり孕んだ声で俺に告げた。
「この度は、私の勝手な誤解により、あなたを詐欺師呼ばわりしたり警察に通報しようとしたりして誠に申し訳ございませんでした」
本当にすまないと思っているのか、身体を90度に曲げて謝る桐崎さんに思わず言葉を失う。
さっきまであんなに反抗的だった桐崎さんがガラリと変わってしまっているのだ。
もう驚くか絶句するしか方法はない。
でもそんな桐崎さんよりも印象的だったのはその後方。
モナリザのように微笑みながらこの一末を見守る工藤ナナの瞳があまりにも恐ろしいと感じてしまったのは俺だけだろうか。
俺はそんな恐怖心を心の奥底にしまいながら、絶対に何があったのかと聞かないと心の中で決意した。