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【第九章】横断歩道
二つの影が並んでいる。
太陽が沈みかけ、陰りを見せ始めた坂道。蝉の鳴き声が響く広い車道の脇道で私とリュウセイは足並みを揃えていた。
「あついな、今日」
リュウセイがシャツの胸の部分をつまんでパタパタと顔に風を送っている。そんなに必死に夏特有の生暖かい風を浴びてもあまり費用対効果は得られないと思うけれど気休め程度にはなるかもしれない。そんなことを考えながら坂道を登っていると、リュウセイが少し緊張気味に私の名前を呼んだ。
「なぁ、ナナ」
「んっ?何、リュウセイ」
私の返事の仕方に一瞬たじろいだのか、目線を少し外しながら何かを誤魔化すように照れ笑いを浮かべるリュウセイ。
「今日、ちょっと公園寄らね?」
「なんで?」
こんなに暑いのにわざわざ公園なんて行かなくてもいい、と続けようとしたらそれを察してか被せるように口を挟んだ。
「いや、ちょっと渡したいものがあるんだ」
それはさっきからチラチラ視界に入ってくるリュウセイのポケットに入っている四角い形のもののことだろうか。そんなに勿体ぶらずにすぐ渡せばいいのに。
「じゃあ、今渡せばいいじゃん」
私が手を出して催促するとリュウセイは首を振りながら断った。
「それは駄目だ。公園に着くまでの秘密」
「えー、なんでなんで?」
その生意気な態度に思わず睨んでしまった私は悪くないと思う。サプライズで何か渡してくれるのは嬉しいけど、そんなあからさまだと意味がないんじゃないだろうか。
「いいからいいから」
「まぁ、リュウセイのことだからどうせつまらない物だと思うけど」
昔、リュウセイから名前も知らないお菓子をプレゼントされたことがある。レンみたいに、女子大生に流行りのシュークリーム、とか今話題のショートケーキ、みたいなスイーツやお菓子を買って渡せばいいのに、頑固な一面を持つリュウセイはこっちの方が美味しいからと言って見たことがないものを渡してきた。
何でもリュウセイが専攻していた世界史の授業でオスマン帝国について調べていたら発見したお菓子らしく、バクラヴァというらしい。
甘いものが好きな私に手作りで渡してくれたけどそのお菓子は想像の何倍も甘くて一口で充分なくらいだった。
結局、あまり食べられなくてあのときはレンがくれたシュークリームばかり食べてしまってリュウセイが不貞腐れたんだっけ。
「あのさ……」
そんな思い出にクスッと笑いながら浸っていると唐突にリュウセイが話題を変えてきた。
「今日でさ、十年目だよな、俺たち」
「えっ?」
まるで恋人や夫婦で交わされるような会話の内容に耳を疑う。思わず聞き返すとリュウセイは慌てたように取り繕った。
「いや、だからさ。出会ってから十年だよな」
リュウセイは時々誤解を生む言い方をする。もちろん悪気があってわざと誤解のある言い方をしているんじゃないってことは、長い付き合いだし充分承知なんだけどもそういうところは直した方がいいと思う。
けれど私はそんなリュウセイが嫌いじゃない。憎めない人だなって思う。
「ナナはもう覚えてないかもしれないけどさ。俺たちここで一回会ったことがあるんだよ。いや、まぁ、会ったってよりは見かけたって言った方が正しいのかもしれないけど」
「ふふ、そんなこと覚えてたんだ⁈」
まさかあの結婚式の日にすれ違ったことを今でも覚えてるなんて。なぜだかおかしくって私は今度はふふっと吹き出してしまった。
リュウセイといると楽しい。時々変だけど、優しさを感じたり男の人のくせに気が使えたりと接しやすくて意外に私はこの関係性を気に入っている。ずっとこの感じが続けばいいのにな、とも思う。
「忘れるわけないじゃん」
リュウセイがいつになく真剣な眼差しで私にそう告げる。
「リュウセイ?」
「お、おう」
そんなリュウセイを揶揄いたくなって疑いの目を向けるとリュウセイはまた目を逸らしながら狼狽えた。
そうこうしてるうちに私たちは公園にたどり着いた。散歩道で犬連れの人や学生とすれ違うたびに不自然に立ち止まる。その度にリュウセイは私を見つめては何かを伝えようとしてやめる。
思い詰めたような顔。怖いくらいに真剣だ。普段は包み込むくらいの優しさを感じるのに今日のリュウセイの表情はどこか険しかった。まるでレンと対峙した時みたいな。
ひょっとしてリュウセイは私がレンに告白されたことを知っているのだろうか。
さっき一瞬だけレンのことを考えたからかありもしない可能性が頭を過ぎる。
いやまさかね。
それとも一応聞いてみるべきだろうか。そもそも私は聞きたいのだろうか。
そうやって悩んでいるうちに溜池の近くの憩いの場に着く。私たちは黙ったままそこにあったベンチに腰を下ろした。
「ここで色々話したよな、俺たち」
「そうだね」
小学生のまだ時間がたっぷりあった時はよくここにきた。柱の部分の傷やベンチの色の褪せ具合、そしてここから池の方を見ると懐かしい気持ちになる。
この町に引っ越してきてまだ誰も知り合いがいない時に見つけてそれ以来、ここで本を読んだり音楽を聴いたり、池の絵を描きにきた。ネコがやってきて遊んだこともあったし、ハトが読書の邪魔をしにきたこともあったけど私は結構この場所が気に入っていた。
新しい学校に入ってからも来て、リュウセイとも勉強や本の話をした。
でもいつからかここに来なくなっていった。中学に入って勉強が忙しくなって学校や塾で過ごす時間が増えるにつれてどんどんくる機会が減っていった気がする。
「雨の日にここで二人で雨宿りしたことがあったよね」
「そうそう。ナナが先にいてさ、俺は雨に濡れて服がびちょびちょで」
「うん、あの日はよく覚えてるよ。だってあの日はリュウセイと最初に話した日だったから」
入学してから何週間か経った後の週末。私はいつものようにここで本を読んでいて、急に天気が悪くなったと思ったら雨が降り出した。残念ながら傘なんて持ってなくて、本が濡れるのも嫌だった私は雨宿りをして雨が止むの待っていると突然息を切らしながらリュウセイが走ってきた。服はずぶ濡れでまるでたった今水の中から出てきたみたいだった。
先客がいたこと自体にびっくりしたのかそれともその相手が噂の転校生だったからなのかわからないけどリュウセイは目を見開いていて、私も転校したクラスにいた男子だと思って一瞬固まってしまった。
何となく気まずい空気。
するとリュウセイが灰色の雲を眺めながら雨すごいな、とつぶやいた。感想が自然に漏れたようにも聞こえるし、私に話しかけたようにも聞こえる絶妙な声量。けど当時の私は話しかけてくれたように感じてそうだね、と返事を返した。
一瞬チラリと私を盗み見るリュウセイ。それからシャツの裾を絞ってまだ濡れてなかった憩いの場の地面の一部分を濡らすとそのまま口を開いた。
「俺、リュウセイ。星川リュウセイ。引越してきた子だよね」
私が名前を覚えてないかもしれないからと気を使って自己紹介してくれたリュウセイ。
「私は小島ナナ。よろしくね」
「なんでこんなとこいんの?」
「えっと、本を読んでて」
その後も会話が途切れないようにいっぱい質問してきてくれて私は少し嬉しくなった。別に会話自体は大したことはなかったけど、私の本が濡れないようにびしょ濡れだったリュウセイは距離を取ったり、雨の音で聞こえにくくないように少し大きめの声で喋ってくれたり、その時から既にリュウセイは気の遣い方が上手だった気がする。
「まぁ、結局あの日からだよね。話すようになったの」
現実に戻って考える。
もし私がレンに告白されたことを伝えたらどうなるのだろう。きっとこの関係が無くなってしまうと同時に今すぐレンとの関係をどうするか決めないといけなくなる。そんな気がして私はリュウセイに伝える勇気が出なかった。
実はリュウセイが私に気があることはレンと再会したあたりから何となく知っていた。けれどもその気持ちを踏まえてなお私に対する態度が変わる訳でもなく、男女の一線を超えるようなことをリュウセイは一切しなかった。だから安心していたのかもしれない。
だからもしかしたら、私の勘違いかもしれないけど、今日は俺と付き合ってほしい、俺と恋人の関係になってほしい。そんな風に言われると思っていたし、実際に言われたらどうしようと想像してしまう。
そしたら私はレンかリュウセイ、どちらかを選ばなきゃいけなくなるのだろうか。
神様はなんて残酷なんだろう。
決断をするのがこんなにも怖いなんて思ってもみなかった。
突如訪れる長い沈黙。
「あのさぁ。話があるんだ」
そしてその沈黙をまたリュウセイが破った。
「あのさ……お、おれと……」
ズボンのポケットの中から四角い箱を取り出すリュウセイ。それを渡された私は、続けざまに何かを言おうとするリュウセイを見つめると、リュウセイは夕陽のように真っ赤な、そして優しく包み込むような表情で口を開いた。十年前と同じ優しい表情。
どうか、この関係が壊れるようなことを言わないで。と心の中で願う。
すると願いが届いたのか突然、気が変わったかのようにリュウセイは息を飲み込んで一瞬その先を口にするのをやめた。
ちょっと待って、と言いながら四角い箱を再び取り返す。
そしてリュウセイは先ほどまでの必死な目つきとは打って変わってまるで何かが宿ったような、悟ったような不思議な目で私を見つめた。それは先ほどまでの険しく、怖いくらいに真剣な眼差しではなくずっと見てきたいつもの優しいリュウセイの目だった。
「俺と……きどき考えるんだ。もしこの世界にナナがいなかったらどうなってたんだろうって。
その時に俺は誰か、別の誰かに今ナナに対して感じてることを同じように感じるのかなって考えるんだ。
ナナ。俺はナナが好きだ。大好きだ。誰よりも幸せになってほしいと思ってる。ナナが思い描いた幸せな未来を何よりも望んでる。将来、ナナに不安や困難が襲いかかるなら俺が全部取り除きたい。ずっと笑っていてほしい。
例えその役割を俺が担う事がなくても、ただ側で見つめ続けるだけの存在になったとしてもこれは変わらないと思う。
だから……どうか……ナナ……。
お願いだからナナが一番幸せになれる道を選んでくれ。俺はナナが選んだ未来を応援したいしそれを支えたいと思ってる。約束する」
リュウセイの言葉にスーッと心が軽くなる。今まで悩んでいたことが消し飛んでいくような不思議な感覚。
これから私はどうすればいいか。
「ありがとう、リュウセイ。私ね……」
その答えが今何となく分かった気がした。




