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(あれっ、ここは?)
意識があるのに身体の自由が効かない。しかもなんだか身体全体が鱗にでも覆われたようで全身が重かった。鱗はパズルのピースを埋めるように外側からじわじわと俺の視界を侵食していって徐々に周りの風景がボンヤリと映るようになっている。
外の気温と共に体温も変化して、まるで爬虫類にでもなったかのように俺の身体は周りの温度と同化していた。
「なぁ、ナナ」
(!!!)
突然紡がれた俺の声。意識とは裏腹に本能に従うかのように自然と彼女の名前を口にしている。
「んっ?何、リュウセイ」
「いや、渡したいものがあるんだけどさ」
ポケットの中に手を入れて何かを探るように手をほんの少し動かす自分がいる。
いつの間にか視界は俯瞰的になり、まるで一人用RPGを遊んでいる時のように自分の背中と周りの景色が目に入ってきた。
状況を把握するのに少し時間を費やす。どうやらデジャブみたいなものに陥って思考が停止していたらしい。
(俺はあの日の出来事をまた繰り返しているのか?)
断片的なやり取りから今自分はナナにプロポーズする寸前なのだということが分かった。と言うことは………。
「じゃあ、今渡せばいいじゃん」
予想どおりと言うかやはりと言うべきか、あの日のやりとりを繰り返しながら俺とナナの二人は峠をくだっていた。
走馬灯のように記憶が繰り返される訳でもなく、自分を見ているのに第三者を見ているような気がするのはこの視点がまるでビデオを撮る撮影者に酷似しているからだろう。
(工藤さんにおまじないの話をされていたよな、多分)
なぜか混乱するわけでもなく現在の状況に冷静でいられるのは、おそらくこの瞬間があまりにも非現実的で工藤さん達といた時間でさえ嘘みたいに感じられるからだろう。
別に何事もなかったというわけでもなく、強制的に物語が進む奇妙な感覚。
(今から俺はナナにプロポーズするのか)
間違いのないように自分が今からすることを口にする。
あの時と寸分の狂いもなく状況が進行していることをもう一度確認して俺は、今まで目を瞑っていた疑問に思考を傾けることにした。
ナナは俺のプロポーズに何と答えるんだろう?
この時の俺は当たって砕けろの精神でただ現状にばかり目を向けて後先を考えずに自分の気持ちをぶつける算段でいた。でも今の俺は違う。今は、彼女がなんて言うか分からなくて、堪らなく怖い。
それもこれも、ナナの理想の結婚観やレンが先にプロポーズをしていることを知ってしまったからだ。もし、何も知らなければこんなに躊躇はしなかっただろう。戸惑うこともなかっただろう。
「リュウセイ?」
「お、おう」
シナリオ通りに歩く俺がナナに見惚れている。上目遣いで相変わらず綺麗で、以前ならただドキドキしていたであろうはずの心が、呼びかけられてまるで内心を見透かされてるように感じられてキリキリと痛んだ。
なんなんだこの葛藤は。
俺がプロポーズする場所までもう後少し。
既に決心したとはいえ、本当にこれが俺のしたかったことだったのだろうか?
俺はナナが好きだ。大好きだ。それは揺るぎない事実だ。ここでビビっている訳にはいかないのに、身体は考える時間を与えてはくれない。
すると、第三者だった俺と、ナナから目線を離していなかった自分が再びリンクして、俺は自分の身体をほぼ意識的に操ることができるようになっていた。ただし、鱗に覆われたような視界はそのままで、ナナ以外の景色がピントを合わせたカメラのようにボケて見える。しかも口は開けられても言葉を発することは出来ない。
発言が許されていなくても今なら逃げ出せるんじゃないか?ふとそんな考えに囚われた。
結果を知りたくなければ、今すぐ立ち去ればいい。そして何事もなかったかのようにこれまで通りを過ごせばいいんだ。
一瞬だけ諦め掛けていたその時。
「雨の日にここで二人で雨宿りしたことがあったよね」
ナナがクスリと微笑みながらそう囁く。
十年前、友達の家によった帰り道で突然の雨に晒された俺は偶然この近くを歩いていて、急いでここに駆け寄った。
あの時は偶然鉢合わせたけれど、今回はそうじゃない。
「そうそう。ナナが先にいてさ、俺は雨に濡れて服がびちょびちょで」
今回は俺がナナを呼び出したんだ。
(そうだ。俺が決心したんじゃないか)
諦め掛けていた心が引っ込み、俄然やる気が湧いてきた。元の自分に引っ張られるように、ポジティブに。
唐突に俺がナナにプロポーズをするという事実は変えられないんじゃないか、と思った。
その証拠に、俺の身体はリンクした今でもまるでそこにいるのが当然とでも言わんばかりに微動だにしない。
俺が初めからそう決まっていたかのように、ポケットの中の箱にそっと触れる。
(今度こそ渡して気持ちを伝えよう)
どこかで聞いたような独白。
いよいよ、指輪を渡す、というところで、いきなり昼夜が逆転したかのように状況が一転した。
「あ、あのさぁ……」
「あのね、リュウセイ」
俺たちのかけ声が交錯する。一瞬俺たちは押し黙って、沈黙に負けたナナが先に口を開いた。
「リュウセイに言っておきたいことがあるんだ」
そんな前置きとともにナナの目が真剣なものになる。声のトーンを落として、息を整えて俺に何かを言おうとしていた。
「何?」
当初は無かったはずの展開に胸がざわつく。でも、なるべくスムーズに会話を進めたかったのか身体がすぐに返事をすると、ナナはいつになく翳りが伴う表情で視線を落とした。
「本当は言おうかどうか迷ってたんだけどね」
一瞬の溜め。途切れる呼吸音。空気が変わり、どこか緊迫したこの一瞬でギュッと目を瞑ったナナは困惑顔でゆっくりと瞼を開いて俺の目を見つめた。
「私、レンにプロポーズされたんだ」
いつからこんな顔をしていたんだろう。
もっと早く気づいてあげればこんな苦しそうな表情をさせなかっただろうに。
いつから俺に言おうとしていたんだろう。俺と歩いている間にもずっとレンのことを考えていたのだろうか。
どうしてこのタイミングで言おうと思ったのだろうか。
ナナに対する疑問が溢れ出て、チラリと浮かんだレンの顔に憎悪がこみ上げる。
くそ、今ナナはレンのことを考えてる。俺なんて今は眼中になくて、レンのことに気を取られている……。
「なんでレンが……」
多分この時に箍がはずれたんだと思う。
レンに対する嫉妬がナナに対する独占欲になって悪循環が連鎖する。本当はナナのことを気遣わないといけないのに、話を最後まで聞いてあげたいのに、レンなんかにナナを取られたくなくて、焦って、訳が分からなくなって、気が動転して。
「んっ!!!!!!」
気がつけばずっと理性で保っていた愛情をナナへの支配欲へと変換させて唇を奪っていた。
「あいつと結婚なんてするな。レンなんかにお前は渡さない」
ナナに熱を上げていたはずの俺の声は驚くほど冷たかった。
忘れろよ。レンのこと。
肩を抑え、口を塞いで、息が続かなくなるまで貪って。いつの間にか歯止めが効かなくなり、無我夢中で意中の人であるナナだけを感じていた。
熱いキスを交わすバカップルに見えるだろうか?
自分の満足の行くまでナナを堪能した後に、暴れそうになっていた彼女から手を離すと俺は自分の愛情を注ぐこの女性に改めて目線を向けた。
「………な、なんで、リュウセイ?」
そこには目に涙を浮かべ、怯えきった顔をしたナナの姿があった。不覚にも美しいその表情は俺が大好きなナナの顔のはずなのに、一番見たくなかったナナの表情で。
「俺と結婚しろよ」
そこで俺は自分が仕出かした最大の過ちに気がついた。
何をしてるんだ、俺は。
ここに来て突如俺の視界は完全に鱗で遮られた。
思考が本能に呑み込まれる。狂気に包まれた俺が最後に見たのは、困惑に染まったナナの瞳とその瞳に映る蛇のような姿に変わった自分の姿だった。
僅かに残った理性がナナに謝ろうとして口を開くも、繰り出されたセリフはどこまでも自分勝手で、自己中心的だった。
「今すぐ俺のものになれよーーー
(お前を傷つけるつもりはなかったんだよーーー)
「「ーーーナナ!」」
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ガバッ、と解かれた呪縛を振り払うように跳ね起きる。
「ナナ!」
混乱しきったナナにしてしまった俺の行動に対して弁解したくて、その姿を探す。
辺りを見渡せば、俺はまた何処かの布団の上に寝転がっていて、飛び起きた勢いからか額からよく絞られたタオルが膝の上に落ちた。
「ハァ、ハァ」
呼吸は荒く、肩で息をする。先ほどまで仰向けになっていた背中では大量の汗が俺の身体の熱を奪っていた。こめかみに浮き出ていた汗が乾いて塩のようになっている。タオルで顔の汗を拭いながら俺は心拍を落ち着かせる。
それにも関わらず、さっきまでナナと公園にいたはずなのに景色が変わっているこの現状が理解出来なかった。
ガチャリ。
ドアが開き、そこから見慣れた人物が顔を出す。
「ナナ!」
言葉を話し出した赤ん坊のようにナナの名前を呼べば、その人は呆れたように俺を見つめながら知っている声より少し低い響きでゆっくりと語りかけてきた。
「私よ」
そう言われて目元を擦れば、白いカチューシャをしたナナの顔が消え、代わりにクリアになった視界にワインレッドのフレームの眼鏡をし、髪を一つに束ねた桐崎さんがいた。
手には水が入った風呂桶と、ミネラルウォーターの入ったペットボトルが握られている。
「あなた急に倒れたのよ。原因は過度の熱中症と突然の情報によるショックと知識熱といったところかしら?」
ようやく、さっきまでの出来事が夢だったのだと確信する。
その間に、俺が持っていたタオルを取った桐崎さんは、介護士が老人を扱うようにゆっくりとした口調で状況を説明しながらタオルを風呂桶に入れて絞る。同時に、ペットボトルの水を渡された俺は、意外にも水分の抜けていた喉と身体に潤いを補給した。桐崎さんがタオルを絞りながら知識熱なんて言葉初めて使ったわ、とクスリと呟いていた。
しばらくタオルが水を含んで、水気が無くなるまで絞りとられる音が無音の部屋に響く。
きちんと爪が切りそろえられた桐崎さんの指と、タオルを絞る際に一瞬強張る表情をちらりと見た俺は、ふと桐崎さんを見た時に感じたことを口にした。
「眼鏡、してるんですね」
ナナが眼鏡をしたらこんな感じなのかな。そんな風に思っていると、桐崎さんがタオルを俺に渡しながらさらりと告げた。
「仕事してる時はね。特にルイと小説の話をする時なんか掛けておかないと落ち着かないのよ」
礼を述べて受け取ったタオルを額に乗せると、熱がスポンジのようにタオルに吸収されていく。
その感覚に合わせてぼーっと落ち着いてきた自分の身体に意識を傾けると、桐崎さんが少し気まずそうに言葉を選びながら俺に確認をとった。
「とうとう言ったみたいね、ナナちゃん。貴方がこの世界に来た理由」
工藤さんが言っていたおまじないのことだろう。ふと、そういえば当の本人がいないことに気づく。
「そういえば工藤さんは?」
「ナナちゃんは突然倒れた貴方のために電話で私を呼んでルイと一緒にこの部屋に連れてきたの。で、大まかに状況を説明してくれてね。その後はルイと一緒に出ていったわ」
相当焦ってて、自分の服が俺の汗で湿るのが気にならないくらい取り乱していた、と説明され、おそらく一旦着替える為に帰ったのだろうと推測する。悪いことをしたかもしれない、と反省していると、桐崎さんが心配気な眼差しを俺に向けた。
「それより、かなりうなされていたけど、悪い夢でも見たの?」
俺はその言葉に重々しく首肯すると、ポツリポツリと夢の内容を語っていった。
この世界に召喚される前に歩いていた道にいて、俺とナナは全く同じ会話を寸分の狂いも無く発していたこと。
別の言葉を喋ろうと口を開けても、何も伝えられないどころか、声さえ出なかったこと。
身体が異常に冷たくて、段々と視界が鱗のようなもので覆われていったこと。
一旦そこまで話すと、桐崎さんが何かを思いだしながら小さく笑った。
「そう。まるで私が読んだファンタジー小説の主人公みたいね」
J・K・ローリング作のハリーポッターって知ってる?そう尋ねる桐崎さんに対して俺は横に首を振る。
「映画の話なんだけど、劇中で主人公のハリーポッターは夢の中で宿敵ヴォルデモートの刺客である蛇の目線から色々な事を見るシーンがあるの。あなたが何かしたくても身体が動かなかったように、彼もまた何も出来なかったのよ」
他にもスネイプ先生は一途でね、とか、何でハリーは親友のハーマイオニーと結ばれなかったのかしら、とかその映画の内容に対する愚痴に近いうんちくを延々と聞かされていく。ある程度話した段階で自分が話し過ぎたことに気づいた桐崎さんは、最後に一度謝ってきた。
「貴方には関係ないわね。ごめんなさい。それにしてもよりによって鱗に覆われてたなんて……まるで蛇に変わったルシファーみたいね」
最後の方が聞き取れなかったけれど、桐崎さんが気にしないように、と手を振った後に一つ咳払いをすると、
「こっちの話よ。それでまだ続きがあるの?」
と、話の続きを促してきた。
その後、俺の身体は意識とは裏腹に、あの公園にたどり着いて、池を見つめて、話し合って、黙り込んで、俺が一大決心で口を開いて。
本来なら俺の記憶はそこで途切れていたはずなのに。
そして見た、切り取られたはずの続き。
「そこで俺は嫌がるナナを無理矢理押さえつけてそれから…」
唇を奪った。理性を失った動物のように。
怯え切ったナナの目。自分が一番好きな女性を自らの手で怖がらせた、と思うとものすごく寒気がして、改めて夢で良かったと感じざるを得なかった。




